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意外と知らない「ディベート(議論)」について

皆さんこんばんは。Koseiと申します。
普段は大学生をしています。

今日は、私の大学での研究テーマ(の軸の一つ)でもあり、これからのライフワークにもなるであろうディベートについて書いてみたいと思います。
あまり知られていないことが多いので、今日は基本的な考え方を紹介して、明日の記事で日常生活へのちょっとした応用についてを書く予定です。せっかく読者のみなさまの時間をいただいているので、読んでためになる記事にするように心がけます!

1:ディベートってそもそもなに?

僕はディベートが大好きなのですが、皆さん、ディベートが好きな人間と聞いてどのような印象を抱きますか?(もしかしたら、ディベートという言葉を始めて聞かれた方もいるかもしれないので、その場合は「ディベート」を「議論」に置き換えて考えてみてください。今回の記事の中ではディベート=議論という風にしていこうと思っているので、「ディベートなにそれ美味しいの?」という状態でも大丈夫です!)

私の印象なのですが、少なくない人が
「口喧嘩が好きな人っぽいな…」とか、「ロジハラしてきそう…」という風に、あまりいい印象を持っていないのではないかと思います。
(ちなみにロジハラとは、ロジックハラスメントの略で、正論を理詰めで振りかざすハラスメントの事だそうです。)

実体験として、大学に入学した時に「ディベートをやっています!」と自己紹介をすると、「口喧嘩が強いんだね!」と言われたことがあります。僕は口喧嘩は全く強くないです。むしろ押されたらそのまま倒れます。笑

と、このようにあまりディベートというものは良い印象を持たれていませんが、これは勘違いから生まれている誤解であり、実際の意味での「ディベート」はもっと建設的で、日常生活に欠かせないものなんです。

2:議論の構成要素

ディベート学(議論学)の教科書の一つでもある、『議論法』(ジョージ・W・ジーゲルミューラー, ジャック・ケイ著 井上 奈良彦監訳、2006)に、分かりやすい議論法の定義があります。簡単にまとめると、

「議論法」は探求と弁論に分類することができる。探求は適切な信念や行動を探し出す行為であり、弁論は言語によって信念を正当化する行為である。

というものなのですが、簡単に言えば、議論するということは、「自分の考えをきちんと持って」、それを「他者とのコミュニケーションの場において論理的に主張すること」と言えます。(かなり簡潔なので、厳密にはすこし違います。)

せつめい3

この議論法の条件を使えば、口喧嘩はディベートではないことがわかります。なぜなら、口喧嘩ではきちんとした探求がなされてない場合がほとんどですし、さらに論理的な主張がないことが大半だからです。

ここまでの議論の構成要素を読んで、「それ普段からしているよ。」と思う方がいらっしゃるかもしれません。さすが、鋭いです。実は、議論って日常的に行われている人間の社会的な基本的行為なんです。

例えば、会社内においてAというプランとBというプランのどちらを取ろうか…と悩んでいる時、私達は何も考えることなく議論というモノをしています。サークルの活動をオンラインにすべきか、対面にすべきか…と悩んでいる時も、議論をしています。さらに、これは教授から聞いた話なのですが、三国志の本のなかでも、作戦を練る時によく発達した議論がなされている記述があるそうです。

このように、普段の生活の中で意外とやってるけど、それをきちんと考えたことがないなぁ。考えてみよう!っていうのが議論学(ディベート学)です。ついでに言うと、既になされた議論を行うだけでなく、どのようにすれば議論を上手にできるか、ということも議論学で考えることが出来ます。さらに、日常の中の議論についてのみならず、もっと大きな議論である政治や政策決定の過程への議論法の応用も考えられます。

3:基本的な考え方

議論が探求と弁論でなりたっていることと、意外と日常でやっていることを書いてきました。今日の最後のトピックとして、基本的な考え方を少しだけ紹介しておきたいと思います。

まず初めに、議論法は絶対的な正しさ(=絶対的な真理)を提供しません。議論をしているということは、絶対的な正しさを探し出しているの?と思われるかもしれませんが、基本的に議論法によって私達が得られる物は「たぶん正しい」という答えです。絶対的な真理があったら議論になりませんし、「俺は絶対正しいんだ!」という人がいても議論になりません。でも、たぶん正しいを追究することには、もちろん意味があります。なぜなら基本的に、私達の生活の中で絶対的に正しいものって多くないからです。特に今コロナで不確実性が増している世の中で大切な姿勢は、蓋然性(=たぶん正しい確率)が一番高い答えを見つけ出すという議論法の姿勢ではないでしょうか。

二つ目に、議論が成り立つためには言葉が力を持つ必要性があることから、言葉を悪用しない倫理が求められます。例えば、議論を行っている最中に嘘の証拠や捏造されたニュースを持ってくると、議論が崩壊しますよね。実際の世界では確かにそういうケースはよくありますが、建設的な議論をする論者として、これらは絶対にしてはいけないことであると分かると思います。また、論者として批判的に証拠や議論を見る方法も議論法から学ぶ必要性があります。

最後に、議論では必ず「命題」があります。問いという風に考えてもらえれば良いと思います。この命題に関して話していくのが議論であり、命題をしっかりと決めることによって、目的意識をもって建設的なコミュニケーションを取れるようになるというのが議論の特徴の一つでもあります。また、賛成側と反対側に分けられることもあり、複数の視点から命題を分析する能力も議論によって養うことが出来ます。

以上が、議論学の基本的な考え方です。有用そうだなぁと私が独断と偏見で選んだものをざっくり紹介していますので、これが議論法のすべてではないですし、学問的な厳密性に耐えうるかというと、正直自信はありません。ただ、高校からずっとディベートを続け、さらに大学で議論法を勉強している一大学生の立場からすれば、これでさらっと議論について知ってもらえるのではないかと思います。

4:まとめと参考文献

さて、今日の記事では、①ディベートとは何か、②議論の三つの構成要素、③議論の基本的な三つの考え方について紹介してきました。明日はもうちょっと踏み込んで、日常生活にも活かせるかも?という記事を書こうと思います。読んでいただけると、幸いです。

今回の記事の多くの部分は、『議論法』. ジョージ・W・ジーゲルミューラー, ジャック・ケイ著. 井上 奈良彦監訳. (2006). 花書院に拠っています。 


さて、今日は授業が終わった後に図書館でずっと勉強をしていました。留学に行こうと思っているのでその書類を作ったり、今日紹介した議論学の勉強をしたり、論文の書き方の本を読んだり・・・コロナの感染症対策はきっちりとしなくちゃならないので気を使いますが、結構充実した毎日を送っています。明日は休日なので、散髪に行く予定です。僕の髪の毛、髪質が硬いほうなのでなぜか下に伸びずに体積が増えるように成長していくんですよね笑
なので、散髪屋さんに行くといつも、「あ、いつものように削ってください」と言います。

では、また次の記事でお会いしましょう。ありがとうございました。

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