吐く鳥

 白鳥は吐いた。飛んでる時に眼下の滝に向かって吐いた。いや、やつが吐きたかった訳じゃない。おれが吐きたかった。吐き出すものがなかった。だから白鳥のせいにした。白鳥が吐くことで、おれが吐かなくていいようにした。おれが吐かなくなったから白鳥は飛ばなくてもいいようになった。白鳥は、吐く鳥だから吐くために飛ぶ。吐けなくても吐くふりをする。それを同調圧力だと見なす他の鳥たちはみんな本当の意味で飛んでいない。
 そういう映画を見た。彼女と一緒に見た。彼女とは暑い固定長の季節に出会って、別れもせず、付き合いもせず、その映画だけ見た。アンダルシアの犬はみなかった。短い映画をみるくらいなら、いっそ、やっぱりみることにした。カミソリがよく切れそうだった。それだけわかって嬉しかった。
 おれはなりたい、カミソリがよく切れることを伝えられる人に。おれはなりたい、映画を見なくても済む人に。おれはなりたい、クリームパンからクリームだけ取り去る人に。
「そんなこと思ってないで、引き出しの置く不覚に眠る僕をまた磨いてくれないだろうか」
 引き出しの奥で眠るアメジストの原石は言いました。言わざるを得ませんでした。彼は吐く鳥が生まれるずっと昔、修学旅行先のお土産屋さんで見た目が良いというだけで買われ、それでずっと放置されていました。暗い引き出しのなかで、光をあてられず、磨かれもせず、海岸通りのことを考えていました。海岸通りを見たことはありませんでしたが、引き出しの外から、ラジオの音声が流れてきたから知っていました。ラジオの概念だけ知っていましたが、それだけで十分でした。冷蔵庫がブーンと鳴っていました。海岸通りの暑い太陽の下で、アメジストはピカピカに磨かれて引き潮に呑まれることを、引き出しの奥底で夢見ていました。彼は吐く鳥のことなんてどうでもよくて、自分の未来のことしか考えていませんでした。吐く鳥も同じです。滝から吐くことしか考えていませんでした。二人はお互いを知らなかったし、知る機会もありませんでした。
 そんな二人を知らない人がいます。アンダルシアの犬がみたいと駄々をこねて僕を困らせた彼女です。犬が死ぬところを見たかったらしいです。犬が死ぬ映画といったらアンダルシアの犬で、あれは夏の映画だからうってつけだと、僕は蜜柑のことを考えながら言いました。盛大に犬が死ぬ映画はみんな好きだ。蜜柑を炎天下の海岸通りに転がしたら、どうせ気持ち良いんだろうなと。柔らかい蜜柑がもっと柔らかくなって、皮がアスファルトに張り付いて、いかにも蜜柑だと実感する自意識について、ずっと考えてしまうんだろうなと。ポップコーンよりチュロスを食べたかったけどありませんでした。映画館にはそういうものは無く、代わりにあるのはパンフレットだけ。パンフレットを買う意味を見いだせないと僕は言い、彼女は同調しました。そんなことを去年の冬に思い出したな、と僕は六月の終わりに思い出したらメロンソーダを飲みながら吐いて、吐いた緑が机を侵食して、叫ぶたい気持ちをぐっと堪えて外を見たら鳩が車に轢かれそうになっていました。助けたい気持ちをぐっと堪えて、コーヒーを注文しましたが、僕はカフェインに弱くなっていました。記憶よりずっと。

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