散文的ラーメン幾数秒

僕が電車で縮こまっているときは大抵ラーメンのことを考えている。

準急電車の緩慢さ。

ガタゴト揺れる車内で醤油、味噌、塩、担々麺、豚骨。色んな味が目まぐるしく僕の中で回っていく。それが楽しい。

麺をすする音や、レンゲが白磁の器に当たる音、割り箸をとる際の音。ありありと思い出せる。

袋麺、カップ麺、チェーン店やフランチャイズ、あるいはこだわりにこだわった個人店、路地裏で佇む秘密基地のようなお店。全部ラーメンだ。だってラーメンって書いてある。どれもラーメンだ。仲間はずれは良くない。人間じゃないんだから。

家で孤独に作るラーメンは、昔のカポーティを読んでいるようだし、外で食べるラーメンはカフカみたい。

知らない土地に来たら、まず知らないラーメン屋を探す。その時ばかりはグーグルマップが他からの地図のように感じる。

券売機で食券を購入すると「あ、ここの店は店員の手間を省いていて優しいな」と思えるし、直接注文を取ってくれるお店は「お客さんとのコミュニケーションを大事にしているんだな」ってほっこりする。

ちょっと辛い気分の時、チャーシューがさっぱり硬めのもも肉だった時、ほろりと来る。さらに清湯の茶色いスープが、くどくないラードで覆われていると、最後まで熱々を楽しめて嬉しい。

ラーメンが好きな女の子と一緒にラーメン屋に来れる幸せは筆舌尽くしがたい。風が吹く丘で彼女の手作りティラミスを振る舞われるくらいハピネス。

強面の店長のお店に杏仁豆腐が置いてあると、すかさず注文する。

友達とラーメン屋で飲む瞬間は、そう何度もおとずれることはないから大切にしたい。

癖の強いラーメン屋さんは遊園地だと思えばいい。チケットを買って、非日常を体験するって思えばいい。そういう心持ちを思い出させてくれるお店は少ない。

ラーメンを食べていて、回りを見て、みんな違うものを啜っている。静かでそれぞれ何かに向き合っている。また下を向いて、茶濁して光るスープを見ると、水晶を覗き込んでいるような気分になる。

でも、健康には気を付けよう。

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