見出し画像

コロナ期間、感情はぐちゃぐちゃだ

 今自分はどうしていいかわからない。確かに時間はあるんだ。けれども感情の整理がつかない。そして行動の手順がわからない。そんな日々が続いている。いつもはnoteに意識高く在りたいと言葉をつづる。
しかし、そうして背伸びし続けることも正直今はしんどい。今回は自分の感情を言語化していきたい。名前をつけたい。
 等身大の自分、ありのままの自分が何を考えているのか、結局どう生きたいのかを書く。

教員現場の実情

 緊急事態宣言が延長される。またぽっかり穴の開いた1か月が始まる。
今教員は忙しいと思う。(個々の意識の問題だが・・・)
これまで時代の流れに反して、除外されてきたオンラインシステムの導入が急に日の目を浴び、その対応が急がれる。いつ学校は再開されるんだ、9月か6月か?9月だったら、全てを根本から見直さないといけない。学力保障はどうするんだ?子供のストレスケアはどうするんだ?
多くの課題に迫られている

自分が教育現場で何ができるんだ。

 そんななか、自分に何ができるんだ?と考える。成り行きのままついた、この仕事にも確かに情熱は感じる。学校再開にむけて、自分自身考えるべき課題は多く抱えているし、この状況だからこそ自分のできること、自分にしかできないことで力を試したいと思う。去年以上に子供に対して何を残せるのか、そこに情熱をもって、取り組んでいる自分がいることは、正直驚きで同時に仕事に熱意を持てることに喜びを感じている。


自分の人生これで良いのか?と悩む

 不安がよぎる。このまま教師として一生を終えることは果たして自分の人生を全うしたといえるのか、後悔するんじゃないかと。自分にはまだほかにやりたい仕事があって、この期間というのはそれを考える絶好の機会になるんじゃないか。家で仕事について考えだすと、こうした考えが次から次へと芽生えてくる。
けれど「自分の人生これで良いのか?」という問いに対して、自分の答えは出せない。この問いに対して自分は解決するためのプロセスがわからない。だからこそ、必死で人に聞き、本を読んではいる。けれど、まだまだ自分の取り組みは甘いのと思うし、より悩みは深いところへと沈んでいくような実感もある。

確かに時間はあるんだ。

 激動のこの期間だが、教員にとって子供が学校に来ないということは少なくとも時間的余裕が生まれる。だから確かに時間はある。だが、「この時間、自分は本当は何をやりたいだろう」ってなる。
 
今の仕事への情熱とやりがい、「自分の人生これでい良いのか」という悩み、何を優先すればよいのかわからず、葛藤する。自分の感情を消化しきれない。そうなるともう感情はぐちゃぐちゃだ。この時間は苦悩の時間へと変化する。
 自分の中で正解が見えず、苦しい、本当に苦しい。ポジティブにいこうと決心できる朝もある。だが、たいがいそんな決意は続かず、揺らいでいく。こんなこと考えずに逃げ出したら、本当に楽だなと考える。そして、だめだとわかっていて逃げてしまう日もあるし、起きるのがしんどい朝もある。

最終見えてくるもの

 けれど、落ちるところまで落ちて落ちて落ちた時、最終感じる一つの思いがある。

「まだやれるんだ」

 自分はまだやれる、まだ自分の可能性のために生きれると。ここで逃げ出したら本当に自分が自分でなくなる。そんな気持ちが自分をもう一度動かしている。そんな風に思えるのがまだ救いだ。
 今感情がぐちゃぐちゃなまま走り出している。正直、見切り発車だ。この感情をだれかと共有したいと必死でSNSを見るときもある。そんなところに答えはないのに。けど、今それくらい悩んでる。だが、やっぱり逃げたくない。その想いが最終残る。
 コロナ期間もう一度走り出そう。ぐちゃぐちゃに走ろう。やること自体に意義を見つけて、もがいてみようと思う。ただの自己満足だってことはわかっている。

「人間とは苦悩する存在であり、苦悩に耐える存在。」

 こんな言葉をナチスの強制収容所を生き抜いた心理学者、フランクルは言う。シンプルにいい言葉だなって思う。悩み苦しんでいいんだって、今の自分の感情を正当化してくれる。どんなときにも人生には意味がある。苦悩する時間にも。
 だからコロナ期間、この貴重な時間を苦悩して、必死にもがいてみようと思う。どうなんだろう、こういう苦悩、感情って全てを共有できなくても、感じている人は多いのだろうか。もしいるのであれば、一緒に頑張りたいな、一緒に走りたいなって思う。

ここまで読んでくださって、本当にうれしい。ありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?