劇にしたらおもろい人生(概要)

ディアギャラリーナラのオーナーです

突然ですが、noteを始めることになりました。昨日私のお世話になっている先生と一緒に、飲んでました。そこで、私の生い立ち等の話をしたら、すごく面白いしなにかしら形に残した方が良いと言われて、残そうかなと思った次第です。

今回のタイトルについては、私がずっと自分の人生に対して感じている事をタイトルにしました。私の人生、良い人生かどうかと言われると、そうでもないです。

アトピーと喘息・いじめ・不登校・自殺未遂・進学校からの定時制・仲間との出会いと挫折・新卒で入る予定の会社が倒産・鬱で休職・婚約破棄 といったフルコンプリートコースです。しかし、今もなんとか仕事をしつつ、ギャラリーも出来てなんとか飯が食えているのは周りに恵まれた事。これに尽きると思います。周りに感謝しかない人生で、私は本当に恵まれてるなぁと実感する毎日です。

私の幸運エピソードとして、中学生の時にヴィクトール・フランクルという精神科医の存在を知れたことです。これの出会いについては、詳しくは違う機会に書こうかなと思ってます。

ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl、1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリアの精神科医、心理学者。著作は多数あり日本語訳も多く重版されており、代表作は『夜と霧』である。1905年にウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。

ウィーン大学医学部精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を兼任する。「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。精神科医として有名であるが、脳外科医としての腕前も一級であった。

1933年から、ウィーンの精神病院で女性の自殺患者部門の責任者を務めていたが、ナチスによる1938年のドイツのオーストリア併合で、ユダヤ人がドイツ人を治療することが禁じられ、任を解かれた。1941年12月に結婚したが、その9ヶ月後に家族と共に強制収容所のテレージエンシュタットに収容され、父はここで死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡した。フランクルは1944年10月にアウシュビッツに送られたが、3日後にテュルクハイムに移送され、1945年4月にアメリカ軍により解放された。その後1946年にウィーンの神経科病院に呼ばれ、1971年まで勤務した。1947年にエレオノール・キャサリン・シュヴィンと再婚している。50年以上に渡り、仲睦まじい夫婦であっただけでなく、彼女はフランクルの学問的な協力者でもあった。その辺の事情は、『それでも人生にイエスと言う』に詳しい。

ナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上にわたって読み継がれている。発行部数は、(20世紀内の)英語版だけでも累計900万部に及び、1991年のアメリカ国会図書館の調査で「私の人生に最も影響を与えた本」のベストテンに入ったという[1]。他に読売新聞による2000年の「読者の選ぶ21世紀に伝えるあの一冊」のアンケート調査で、翻訳ドキュメント部門第3位となったとされる。

よく誤解されるが、フランクルのロゴセラピーは収容所体験を基に考え出されたものではなく、収容される時点ですでにその理論はほぼ完成されており、はからずも収容所体験が理論の正当性を検証することとなった。

極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。学会出席関連などでたびたび日本にも訪れていた。Wikipediaより

私が人生全てにおいて絶望していたとき、この人を知りこの人の本を読んで名言を心の奥の土台にして生きております。数ある名言の中で「見えない観客は私達がどのような劇を演じていくのか、期待しながら見つめている。」というのがあります。私自身辛く苦しく全てにおいて絶望することがたまにあるのですが、その時には、この言葉を思い出します。私の人生今がどん底だ!!でもここから這い上がれる姿を見えない観客達に見せたら、感動の渦・拍手喝采・めっちゃ良い演劇やなぁと思ってもらえる!!そこから奮起するという感じです。苦しい時に客観的に自分を見ること。これが大切やったりします。

なので、見えない観客が今回はnoteを見ているユーザーの方々になると思うのですが、良ければ物語というかこんな人生あるんやな程度で楽しんでもらえたら幸いです。

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