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「先に出会ってたら、好きになってたよ」

東京、渋谷駅。センター街を少し進んだところに、映画の名前を冠したカクテルが楽しめる「八月の鯨」という小洒落たバーがある。

リンゼイ・アンダーソン監督の手で描かれたアメリカ映画を店名に冠するバーのカウンター席で、悠二は一人グラスを遊ばせていた。

偶然最終選考まで進んでしまった大して興味のない企業の面接を受けるために、東京にやってきた悠二は、目的であった面接を午前中に終えてしまい、帰りの深夜バスまでの暴力的に有り余った時間の使い方に迷っていた。

数ある名作タイトルの中から「俺たちに明日はない」と名前の付けられたカクテルを注文し、朝から何も食べていない空腹の胃に、ゆっくりとそれを流し込みながら、ぼんやりと、先行きの明るくない自分の明日について思いを馳せてみる。

隣のカウンターで、「西の魔女が死んだ」をまるで怪しい薬を調合するように、マドラーで右からゆっくりとカクテルを回す退屈そうな彼女に声をかけたのは、ただの気まぐれで、視界の端に映り込む、彼女の左手の薬指に付けられたシルバーの輝きが、意味するもの理解していながら、会話をやめなかったのは、別に、破滅的な青春を送りたかったわけではなく、カクテルに含まれた九%のアルコールぐらいの下心による好奇心からだった。

身体のラインがくっきりとでる黒いニット、透けて見えるぐらい艶の良い髪と左右で対になっている半月のピアスが彼女によく似合っていて、深夜の六本木を彷彿とさせる大人らしさがあった。残念だが、ここは渋谷だ。

ナンパには自信があった。明確な順序があるのだ。

まず悠二は警戒を解くために、がっつき過ぎないように自分のことを話し、顔、髪、ピアス、ネイル、中心から先端にかけて順番に褒める。

途中自信がない素振りを見せたら、その反応ごと褒めてあげる。

アルコールの力を借りながら、焦らず、見極める。段々と壁が薄れてきたのを確認してから、ピアスを触るふりをしてそれとなく耳を掠めたり、指先に触れたりと部分的な接触を試みる。その反応に抵抗する素振りがなければ、あとはもうプライベートな話に踏み込んでいくだけだ。

悠二が大学生としての不健全な使命を全うし、持て余した時間の限りを遊びに尽くして、確立させた手順を一通り終えるころには、隣に座る者の警戒心はいつも希薄になった。

ポツポツと身の上話を始めた彼女は、出張で二週間東京に滞在していると語った。

その流れで彼女の住所が京都にあることを知ったとき、悠二は面倒なことに巻き込まれる煩わしさを予感しながらも、自分も京都に住んでいることを明かす。

「本当に?」と彼女はアルコールで薄紅色に染まった頬ごと口角をあげた。

「どの辺に住んでるの?」

「四条のアパートで一人暮らししてます」

「あ、じゃあもしかしたら私の後輩なのかな」

 一体誰の悪戯なのだろうか。彼女は悠二が今通っている大学を、五年前に卒業したと言う。

偶然には偶然が重なると教えてくれたのは、確か、小学校四年生の時の担任だった。悠二はなぜかその時の先生の言葉を立体形として覚えていて、今まさに悠二の前で再現されていることに、親近感に似た奇妙な感覚を覚えた。

こんなバーに一人で何をしていたのかと訊くと、彼女はわざとらしくカウンターの上で左手の薬指を撫でた。
「誰かに救われたい夜だってあるでしょ?」と彼女は言う。悠二は何ですかそれと珍しく遠回りをした。

「すみません、西の魔女が死んだを一つお願いします」

悠二は上手く扱いきれなかった間を埋めるように、タイミングよく通り過ぎた店員に注文をする。

「じゃあ私は、僕たちに明日はないを一つください」
彼女もそれに便乗した。いつもの悠二なら、決定的な一打を決めに行く頃合いだった。何故かまた、映画好きなんですかと寄り道をしてしまう。その躊躇いを見透かした彼女は「そんなこと興味ないくせに」とあざとく笑った。

彼女の特徴的なアーモンド色の瞳には、閉鎖されたぬるま湯の中で夢を語るだけの学生では、作り出せない余裕が具現化されていた。

悠二のズボンのポケットにしまってあった携帯が揺れる。メールの通知が一件。開くと、午前中に受けた企業からのものだった。

コピペされた丁寧な長文で、採用を見送られるとともに、今後の活躍を祈られた。

行きたかった企業でも何でもないのに、不採用という事実が自分に価値がないと言われているようで少しだけ傷ついた。

どうしたのと彼女が訊いてくる。

悠二は僅かな傷心を悟られるのを躊躇って、自分の所作に滲み出ないように意識しながらスマホの画面を見せる。

「落ちた、面接」あららと彼女は空笑いした。

「でも、良かったじゃん。夜の十時にメールしてくる企業なんて碌なところじゃないよ」

悠二はそうですねと言いながら、自分に不要の判を押した企業とのこれまでのやりとりを全て削除した。

その横で彼女が「就活か〜、懐かしいなぁ」と独り言を呟き、マドラーで映画を回す。グラスと氷がぶつかるカランという音が静かに響いた。

「慰めてくださいよ」悠二の口から漸くそれらしい軽い言葉が出る。彼女はふふっ、と小気味よく笑う。じゃあさと言って悠二を見た。

「映画は好き?」

「少なくとも、西の魔女が死んだ、は知りません」

「え〜、うそ。良い映画なんだけどな」

「今度見ておきます」

「今見たいのは?」

「ノルウェイの森」

「何で?」

「何となく今日は、地獄まで悲しみを引きずっていたい気分なので」

今度は彼女がなにそれと芯からズレたところに会話を投げる。

すみませんと彼女が手を挙げると直ぐに店員がきて、ノルウェイの森を二つ頼んだ。五分もしないうちにグラスが二人の前に並んだ。

「これ、飲み終わったら、君の話を聞かせてよ。そのあと私の話も。朝まで私と地獄にいて」

悠二はその日、深夜バスを逃した。目が覚めるとそこには知らない天井があって、横には規則正しい寝息を立てる、彼女がいた。

朝なのに彼女の黒髪は艶があって綺麗に整っている。彼女が西の魔女なのかもしれない。

悠二はテーブルの上にあった適当なメモ用紙に、連絡先を残して彼女の財布の上に置く。

皺だらけのシャツとリクルートスーツを着た自分が鏡に映る。その情けない実像に向かって「だっせぇ」と吐き捨てた。何がださいのかは、悠二にも分からなかった。

部屋から出て行こうとドアノブに手をかける。「またね」と眠たそうな声で彼女が呟くのが訊こえた。悠二は「うん、また」と言って、東京をあとにした。帰りは久しぶりに新幹線に乗った。

 京都に戻ってから、悠二と彼女は月に一度だけ会う約束をした。

連絡をするのは決まって彼女からだった。彼女が行きたいというところで待ち合わせをして、そこらの居酒屋やバーを回りながら、ただ話すだけ。悠二から連絡をすることはなく、身体を重ねたこともなかった。

そんな調律の合わない関係が、東京で出会った日から一年近く続いている。あの日咲いていた桜は、いつの間にか新緑に変わり、気づいた頃には枯れて落ちて、やせ細った木々だけが、残っていた。

四年の後期になっても講義を受けていた悠二の元に「ここ行きたい」いつものように前触れもなく彼女からのメッセージが届く。

「いつ行く?」と送る。数秒で「今日は?」と返信がきた。幸いにも大人数の講義で、抜け出すのは容易い。

悠二は「丁度退屈してました。何時?」とスマホの上で指を跳ねさせながら、教授の目を盗んで講堂から出る。

「十九時に京都駅で」そのメッセージに了解の意味を込めて、スタンプを送る。悠二はパジャマのようなスウェットから着替えるために、一度家に戻ろうとエレベーターに乗った。一階に降りると、見慣れた後ろ姿があった。

「よう、夏樹。相変わらずメンヘラ拗らせてるか?」
 悠二の声に気づいて振り返った夏樹は、頗る嫌そうな顔をして見せる。

「なんだよ。久しぶりに大学で見たと思ったらいきなり」

「俺は唯一の友人が相変わらずやれてるか心配なんだよ」

「お前の親しい友人なんてそこら中にいるだろうに」

「面白いと思ってんのはお前ぐらいしかいないって。本当だぜ?」

「そうやって適当な事しか言わないから苦手なんだよお前のこと」

「俺は好きだぜお前のこと。昔の元カノのことずっと引きずってるところとか」

「もういいだろ、その話」

「ははっ、まぁいいや。卒業するまでにもっかいくらい飲み行こうな」

「気が向いたらな」

俺予定あるからと夏樹は悠二とは反対に向かって歩き出す。悠二はその背中に向かってまた誘うからなと声をかけ、夏樹が後ろ手を振るの確認して出口に向かう。

「なぁ!」少し離れたところから夏樹が呼ぶ声が聞こえて悠二は立ち止まる。
「お前、なんか危ない橋渡ろうとしてるって噂聞いたけど」そう言った夏樹の表情は、珍しく悠二のことを気遣っているようだった。

「やっぱ俺、お前のこと好きだわ」悠二は優しく笑って見せる。

「いいからそういうの」

「そうだなぁ。でも、石橋は叩いて渡れって言うだろ?」

「それ、使い方違うだろ」

「日本語苦手なくせによく分かったじゃねーか」

うるせーよ、と夏樹が言う。悠二はまぁなんだと一つ間を作ってから、「心配しなくても、いつもの俺だよ」と言った。

また連絡するわとだけ言って背中を向ける。夏樹はそれ以上なにも言わなかった。

久しぶりと声をかけてきた彼女は、寒いねと言いながら、ロングコートのポケットに両手を入れて肩を竦ませた。底の厚いブーツを履いているのか、悠二との顔の距離が縮まったように見える。

僅かに赤くなった両耳には、いつもの半月のピアスが光っていた。悠二は、辛うじて「寒いですね」と答える。

大学時代の行きつけなんだよねと彼女が案内した店は、和の風情を感じるおでん屋だった。

席につくなり手慣れた様子で幾つか注文しながら、これ美味しいんだよね〜、と懐かしむ彼女は、まるで学生時代に戻ったみたいに幼く見えた。

いくつか箸をつけたおでんは、関西独特のだしが染み込んでいて、一口食べるたびに「美味っ」と悠二の口から思わず声が漏れる。それを聞いた彼女は、そうでしょと満足そうに日本酒を煽った。

「そういえば就職先、大阪にしました」

「あ〜、結局こっちに残ることにしたんだ」

「なんとなくこっちの空気に馴染んじゃったんで」

「そっか〜」
もうすぐ社会人なんだね、と他愛もない会話をしながら、テーブルに運ばれてくる酒とおでんを口に運んでいく。

彼女は珍しくハイペースで飲んでいたので、いつになく饒舌だった。仕事の上司の愚痴とか、悠二の知らない女友達の話とか、普段はあまり口に出さないのに夫のことも話した。悠二はただそれを、はい、そうですね、分かります、と傷つかないふりをしながら相槌をうって流していく。

「あの頃は幸せだったのになぁ〜」と彼女が言った。

その言葉は悠二に向かって発した言葉ではないように思えた。

今幸せじゃないんですか、と悠二が訊くと、彼女は、そういう訳じゃないんだけどさ、と口淀む。

「多分だけど、幸せって掴んじゃったら分かんなくなるんじゃないかな」

左手の薬指を触りながら、彼女は言った。悠二にはその言葉の意味がよく分からなかった。

あのさ、と悠二が言って、少し赤くなった彼女の瞳を見つめる。

「分かんないですけど、俺といたら…」

幸せかもしれませんよ、と言おうとしたが、その前に彼女が右手で悠二の頬を抑えた。

「この大根、食べたら出よっか」それから店を出るまで、会話らしい会話は生まれなかった。
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「前、東京で会った時さ」

駅に向かって歩いている途中、彼女が話し始める。

「君がノルウェイの森を見たいって言ったじゃない? 地獄まで悲しみを引きずっていたい気分なんだって。あれさ、全然分からないようで、ちょっとだけ分かっちゃったんだよね」

悠二は何も答えないまま、彼女の次の言葉を待つ。

「悲しみの淵にいれば、それ以上傷つかないっていう安心感があるのかな。幸せの途中にいるより、私にはその方が向いてるって、ちょっとだけ思っちゃったんだよね」

悠二はまだ、何も答えない。ただ、彼女の厚底のブーツの、カツンという音だけが二人の間を駆け抜けていく。

「でもさ」と彼女が唐突に立ち止まり、その音は止んだ。悠二も彼女に並んで立ち止まる。

「君はまだ、幸せの途中で、もがいていた方が良いと思うんだ」

彼女はそう言って、悠二の身体に身を寄せると、いつもより少しだけ距離の近い唇にキスをした。

時間にして、たかだか数秒の永遠が流れ、悠二から離れた彼女は「ずるいこと言うね」と、笑った。その瞳は少しだけ涙を含んでいるように見えた。

「先に出会ってたら、好きになってたよ」

じゃあね、と言う彼女。悠二は何も、言葉を発することが出来なかった。

それからしばらくして、彼女が夫の転勤で、東京に引っ越したことを知った。

もうすぐ大学生の肩書きを奪われる、三月三十一日の深夜のことだった。


その日、西の魔女が死んだ。





2話「名前のある関係になりたかったんです」
https://note.com/dear_us/n/na1cf8c1e79d5

3話「つまらないままの貴方でいてね」
https://note.com/dear_us/n/n0c24fb1099d6

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