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「名前のある関係になりたかったんです」

好きな人がいます。
片想い歴は、かれこれ一年くらいでしょうか。

彼とは大学二年生の時に再履修したドイツ語の授業で出会いました。言い訳ですが、出席日数が足りなかったとか、授業態度が悪かったとかが理由で落単したわけではなく、うっかり期末テストの日程を間違えて受け損ねただけです。

因みにですが、同じ理由で必須科目の「マクロ経済学」も落としました。こちらはまさかの抽選外れが続いて、四年生になった今履修しています。

今度落としたら留年が確定する緊張感はなかなか手に汗握るものがありますが、テストの日程さえ間違えなければ、大方問題はないでしょう。 
 
高校時代からの友人には「肝心なところが抜けてるよね」とよく笑われますが、その度に「完璧すぎるよりちょっと抜けてるくらいの方が可愛いでしょ」とドヤ顔をして見せます。

抜けちゃいけないところが抜けているのは偶にキズですが、まぁそれも私らしさってことで。

話が逸れましたが、彼とはそんな私の不注意で不本意ながら受けているドイツ語のクラスが一緒でした。

席が隣同士になったときに聞きましたが、彼は純粋にテストの点数が足りなかったのが理由で再履修をしたのだとか。

いつも気怠げで、目の下に深い隈があり、髪は色が抜けていて左耳にはピアスが五個も開いている如何にも不良大学生という風貌の彼ですが、話してみると案外人懐っこく笑うもんですから、その不恰好な間隙を不覚にも可愛いなと思ってしまうこともありました。

その時知り合った縁で、学内で会った時や同じ授業を受けている時には彼とよく話すようになりました。取り分け水曜一限の「現代政治論」は隣の席で受けるのが日課になり、朝が苦手な彼と日程管理が苦手な私は連携をとって週半ばの一番落としがちな授業を乗り越えました。

とは言っても、彼が単位を落とさずに済んだのは八割ぐらい私のおかげだと思っています。レポートが毎回出されその評価が成績に直結する厳しい授業で、ですます調とである調だけでなく、方言まで混在させてしまう文章下手な彼の課題を手伝ったことは、一度や二度ではありませんでしたから。

どんな手段でこの大学に受かったのか勘繰ってしまうほど彼の文章力は絶望的です。

彼と過ごす時間が増え始めた頃から、「また違う女を見つけたよ」とか「今度は地味目な子なんだね」と後ろ指を刺されるようになることが増えました。

どうやら彼は、学内でも女泣かせと噂が飛び交う遊び人なんだとか。確かに彼には特定の恋人がいる様子は見受けられず、隣には見かけるたびに違う女性がいて、それ以外の時は一人でエントランスのベンチに座って本を読んでいるみたいでした。

極稀に背の高い中世的な男性とキャンパス内を歩いているのを見かけますが、その人はあまり学校には来ていないみたいで、学年すら知りません。

私のことを「抜けてるよね」と評する友人には、「悪いことは言わないからアイツには近づかない方がいいって。何されるか分かんないから。この前も飲み会の帰りにアイツの家に着いて行ったって噂になってた女の子、次の日に目パンパンに腫れてたんだからね! あれは多分殴られてるよ。だから気をつけて!」と強めの指摘を受けましたが、私にはどうにも彼がそんなことをする人間には見えませんでした。

見た目は確かに遊んでる大学生なのは否定できませんが存外根暗で、要領は良くありませんが真面目で、課題を手伝った後には必ず学食を奢ってくれる律儀さもあり、朝起きられない彼のためにモーニングコールを送ると「感謝にゃ」と書かれた猫のスタンプで返信をくれるあどけなさもあります。

皆が噂する彼の姿はまやかしで、きっと勘違いされているんだろう。そんな事を思っていました。

「今日、夜空いてる?」ある時彼からLINEが来ました。課題を手伝ってくれるお礼にとディナーに誘ってくれたのです。

いつも学食奢ってもらってるから悪いよと私が言っても、彼は「俺がそれじゃなんか嫌だ」と頑なだったので、断る理由もなく「いいよ、どこ行く?」と安直に誘いを受けてしまいました。この日ならまだ、引き返せたのかもしれません。

彼が四限目の授業を終えるのを待って、大学の最寄り駅で待ち合わせをしました。「和食か洋食どっちが好き」と聞かれたので、「中華!」と答えました。それを聞いた彼は一瞬呆けたような表情をしましたが、その後すぐに笑って「じゃあついてきて」と踵を返すので、言われるがままに並走し電車に乗りました。

隣に並んだときにいつも僅かに匂う香水が、今日は少しだけ彼を大人びて見せている気がしました。

彼の行きつけだという中華屋は、見た目こそボロボロですが、味だけは確かに光るものを感じ、幼い頃過ごした実家を彷彿とさせる懐かしさがありました。「美味しいでしょこの店の炒飯」と言う彼は何故か得意げです。

物静かな私たちにとってはですが、そこそこに会話は盛り上がり、頬が心地よい痛みを感じ始めた頃、彼が「お酒は好き?」と聞いてきました。

「ビールならサッポロ、酎ハイなら檸檬堂は譲れないね」

「プレモルと氷結でしょ」

「いや、そこは譲れないよ」

「じゃあコンビニで買って飲み比べしよっか」

「いいね、賛成」

私たちはすぐに会計を済ませて店を出ました。近くのファミマでお互いが好きな銘柄を一本ずつとあたりめを買い、近くに公園があるというのでそこに向かいます。

公園というには酷く寂れたその場所には、ブランコと象の形をした滑り台しかなく、ベンチもありません。

私たちはそれぞれブランコに座り、私がサッポロを、彼がプレモルのプルトップを開けます。乾杯。

冷えた麦の芳醇な苦味が、鈍い重さを伴いながら喉を潤し、刺激を受けた胃がアルコールの侵入を心臓に知らせて脈拍を早めます。ドクドクと音が聞こえそうなほど脈打つ鼓動は呑み進めるに従って強くなります。

あぁ生きている。そんな実感を私に与えてくれました。

「ごめんタバコ吸っていい?」と彼は徐にポケットから取り出した四角い箱を見せてきます。

彼が喫煙者だということは初めて知りましたが、お酒を飲むと吸いたくなる人らしく、常習的に吸っているわけではないのだとか。気にしなくていいと私が言うと、彼はありがとうと言って口に咥えたタバコに火をつけます。

「ねぇ、貴方大学で女の子に酷いことしたって噂になってるけど、本当?」

「誰が言ってたの?」

「友達。貴方は女泣かせの遊び人だから近づかない方がいいって」

「そうやって言う人がいるなら、本当なんじゃない?」

彼は否定も肯定もしませんでした。ただタバコの煙を吐き出す横顔には群れから逸れた狼のような孤独感がありました。

ふーん、とため息にも似た声を発してブランコを少しだけ揺らしながら、「私も黒ラベル飲みたいんだけど」と彼を見つめながら言いました。

「もう入ってないよ」彼は空になった黒ラベルの缶を逆さにして見せます。

「買いに行こ。氷結も飲みたい」

「もう終電来ちゃうから」

「貴方の家どこ?」

「ここから歩いて十分くらい」

「明日は予定ある?」

「暇だよ。バイトもないし」

「泊めてよ」

自分でもなんでそんな言葉が出たかは分かりません。

ただ、少し前に恋人と別れた寂しさから来るものではないことは確かでした。

彼は眉を僅かに上げて驚いた顔をしてみせましたが、すぐになんでもなかったかのように振る舞います。

「いいよ。ちょっと歩くからね」

その後さっき立ち寄ったコンビニで同じものを、今度は二本ずつ買ってから、街灯しかない静かな住宅街を通って彼の家に向かいました。

がちゃついた彼の見た目とは裏腹に、質素で飾り気のない1Kの部屋は、心無しか侘しさを積み重ねたような空虚に包まれています。

「プレモルも案外美味しいんだね」

「サッポロもね」

間接照明しか照らさない薄暗い部屋で重ねた彼の唇からは、私の大好きな芳醇な苦味と、少しだけ檸檬の味がしました。

その指先はガラス細工に触れるように優しく繊細に、私の腰から首にかけてを滑らかに撫でていきます。

鼻先が突き合う距離で見つめた彼の瞳は今すぐにも壊れてしまいそうな危うさがありました。

守ってあげたい。そんなことを思ったのは初めてで、処女的な感情の芽生えによる躊躇いからか言葉には出来ませんでしたが、私に向けられた欲を受け止めることでその役割を果たしました。

その日以降、私たちは月に一回か二回、体を重ねるようになりました。恋仲になったわけではなく、いわゆるセフレというやつです。

予定があった金曜日の夜に、私が彼の最寄駅に行き、コンビニで缶ビールを買って、私と彼の声しか聞こえない静かな部屋で、彼の白く細い腕に抱かれながら夜を乗り越える。

でも私たちはセックスをするだけじゃありません。次の日時間があれば二人で街に出掛けたりもします。映画も見るし、おしゃれなカフェにだって行きます。

私たちは、そんな中途半端で名前のない関係なんです。キャンパスで知らない女性と歩いていても、どこかでその人を抱いていたとしても咎めることなんてしません。私には彼を縛る権利なんてないですから。

行為中に囁かれる「好きだよ」という言葉も、私に向けられた言葉ではないことも知っています。そんなことは初めから分かっていましたが、気づかないようにしていた感情を誤魔化せなくなるには十分な回数の嘘を重ねられてしまいました。

全部嘘だと分かっていても、私は貴方と、名前のある関係になりたかったんです。

ある金曜日の夜、いつものようにコンビニで買ったお酒を飲んだあと、珍しく彼がタバコを吸おうとしなかったので「吸わないの、タバコ」と聞きました。

「ちょっとだけ、長生きしてみたくなったんだよね」

彼は独り言を呟くように言いました。その理由も、きっと私には関係のないことでしょう。

私は「そっか」と答えた後、彼の飲み欠けのプレモルを一気に喉に流し込みました。

一緒に飲み込んだ二文字の言葉も、いつか胃の中で消化されるでしょうか。

好きな人がいます。

その人はいつも気怠げで、目の下に深い隈があり、髪は色が抜けていて左耳にはピアスが五個も開いている如何にも不良大学生という風貌をしています。

でもどうしようもなく一人ぼっちで、守ってあげたい、そんなことを初めて思わされた人でした。


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