大道芸ワールドカップ実行委員会についての個人的考察_問題点その1

私が当時に感じていた実行委員会の問題点を、私の言葉で残しておこうと思います。
あくまで私の目線です。それを文章化しているので、よくわからない文章もあるかもしれません。その点をご承知おきください。

一番の問題点

市民の活動が市民活動になっていない

これが一番の問題点だと考えます。
もともと大道芸イベントを通じて、市民の力で地域創造をしていく事が主題でした。 静岡の民度が上がる事で暮らしや文化に付加価値が加わり、より良い地域になっていく。 金銭的な報酬はなくとも、自分達の労力が地元の発展という大きな成果として返ってくる事が喜びだと感じる方が、イベントの熱量を高めていました。

しかし、今の実行委員会に上記のような熱量は感じにくいです。 市民の手で運営はされていますが、市民活動になっているのかは疑問です。

ではなぜ熱量が失われてしまったのか? 私なりの推論を記述していきます。

30年間での変化

天野進吾さんの時代に始まったこのイベントは「市民の力による地域創造」という主旨が大道芸という特性と合致して年々規模を大きくしていきました。

「規模」とは数です。参加パフォーマー、スタッフ、ポイント、集客、とかそういったものです。 それらが大きくなると、当然必要な経費も大きくなります。
純粋に大会をよりよいものにしたい→その為にはお金が必要→市やスポンサーから資金提供を受けなければならない→予算が付きやすいイベントにする必要がある→…
このように主旨が置き換わっていきます。結局は、外部からお金を取ってきやすいイベントに集約していきます。

この点は、以前のプロデューサーは非常に上手でした。見栄えのいいブランディングは外部評価を高めましたし、大きなお金で大きな仕掛けを行うことに成功しています。 しかし、当初の理念に共感しているスタッフとの溝もまた大きくなっていきます。

同時に「お金=力」なので、実行委員含むボランティアスタッフの無償の労力よりも、お金を出している市やスポンサーの意向が強く反映されるようになっていきました。(※すべてのスポンサーではありません。オフィシャルスポンサーは大手企業なだけあってクリーンだと感じています)もちろん、お金を取ってきているプロデューサーの影響力もです。

特に市との関係性は大きく変わりました。 市民活動の延長である実行委員会のバックアップするために公金を捻出するのではなく、市長や市のやりたい事を実現するために公金を出す、という構造に変化しました。 市が実現したい事と実行委員会が実現したいことがイコールならいいんです。不幸なことにお互いの目指す場所は違っています。 そして、市側が総合計画を是とし力を持って要求している現実があります。
(※この度合いは担当者によって変わります。実行委員会の活動に理解のある市職さんだと、実行委員会の盾として動いてくれる事もありました。理解が全くない方だと、一方的に市の要望を貫き通してきます。)

ここまで来ると、実行委員会は市民活動の場とはいえず、静岡市のイベントを運営する団体に置き換わりました。

同時に、実行委員会も変化しています。失敗もしながら、それでも前進できていればいいのですが、どうも様相は違っていました。 実行委員会の内部外部に歪みが生じていきます。

実行委員会内部の歪み

実行委員会の理念と実行委員の目的が一致していない

先述しましたが、実行委員会発足時の目的は「市民の力による地域活性」です。 その目的が達成できるのであれば、大道芸でなくても良かったはずです。ただ、時代と関わる人と地域性と当時のPによるブランディングが大道芸と非常にマッチしていました。初回から大道芸と出会えた事は幸甚だったと思います。

別の言い方をすると、大道芸が好きだから始まったイベントではありません。

30年の間にイベントに関わる人達は大道芸が好きになりまし、大道芸好きな方も新たに参加しています。だからこそ、実行委員それぞれの目的が分かれてしまいました。
私が思うに、それは大きく分けて3つです。

1.イベントを通じて地域を盛上げたい方
2.大道芸が好きだから大道芸イベントを盛上げたい方
3.年に一回のお祭りに参加したい方 です。

(偏見も入りますが)1は比較的若い層や新しい層に、2はベテラン層に、3は全体通じてそれぞれ多いイメージでした。 初期には地域創造を主とした参加者が多かったはずなので、ベテラン層の方が"大道芸が好きな人"が多い点に矛盾を感じるかもしれません。 実行委員会内部が活発に新しいことを取り入れていたのは初期の10年ほどです。この段階で今日に至るまでの組織構成が固まっています。ここ20年での新しい取り組みはほぼ皆無でした。これは、ボランティア募集の種類がほぼ固定されている現状から明らかだと思います。(現場での工夫や努力による業務効率化とは別の話なのであしからず。)

もちろん、新規事業を生み出そうとする人はいました。しかし、いくつもの壁がそれらを阻みます。この壁が1を目的とする人たちの参加意欲を砕きます。結果として2や3を目的とする人が残りました。

特筆しておきますが、2や3を目的とする実行委員が悪いわけではありません。 私が伝えたい事は、実行委員会としての理念は初期から代わっていないのに、実行委員の目的が異種なるものになっており整合性が取れていない点です。このちぐはぐな現状から歪みやすきが生じ、様々な問題を生み出しているのだと考えています。

実行委員会の未成熟さ

先述した「壁」とはなんでしょうか。 私の目から見るに、組織構造に起因する壁と予算に起因する壁があります。

組織構造に起因する壁は、事業の標準化がなされていないとか全体的なコミュニケーション不足とか、組織的に未熟な点です。様々あったのですが、2つ挙げてみたいと思います。

全体会議の参加率の低さ

一つは、規約上で最も重い会議である全体会議への参加率が低かった点です。

予算や決算の承認、実行委員長やプロデューサーの任命など重要な決定は、全実行委員が参加する全体会議での議決が必要です。1人1票を持った上で決議されますので、全体会議で決まったことは実行委員会の総意となります。 この会議の参加率が高くありません。会議によってばらつきはありますが、出席者は全体の3~4割、欠席のため委任状提出が4~5割、連絡もなく欠席は1割くらいだったと思います。 委任状合わせて過半数は必ず超えるので民主的な決め方としていましたが、会議に参加して内容を理解し票を入れていた実行委員は半分もいませんでした。

※参加率に関して補足しておきます。実行委員の居住地が静岡市外であったり、仕事や学業などの優先すべき事項と重なってしまうなど、どうしても参加できないパターンもあります。コロナ禍でWeb会議が当たり前となった今では、参加率は向上しているかもしれません。

実行委員目線で言うと、全体会議の内容はほぼ決定事項でありトップダウンと感じる事も多く、全体会議の意義が感じられませんでした。 一方で、実行委員としての責務を重んじる人は少なく、全体会議を他人事に感じている人もいました。 役員層が組織の発展を願って熟考しても他の実行委員が重視してくれない実情が、両者のコミュニケーションをより難していたと思います。

責任の所在の不明瞭さ

もう一つとして、何をするにも担当者が責任を持てないということは大きかったと思います。 任意団体の中の一ボランティアではあまりにも弱々しく、だからといって実行委員長にすべてを押付けるようなチャレンジはとてもしにくかったです。

実行委員の立場からだと、責任を持たない事が自然だと考えている人もいました。 例えばですが、企画に対する書類作成などは「仕事じゃないんだから」と忌避する人もいましたし、「好きなことだけさせて欲しい」というような事を仰る実行委員もいました。
助成金やスポンサーからの支援が入っているので、そこを切り分けて考える実行委員ももちろんいました。なので、後者のような人たちが頑張って組織を成り立たせていたように思います。

この話は、ボランティアとはなんぞや、という問いにも繋がっていきます。とてもデリケートで人によっても考え方がバラバラなために、深く議論するような事はありませんでした。

今思えばですが、実行委員に対する責任の所在やボランティアに求めることに対して一歩踏み込んで議論を重ねても良かったと思います。

ボランティア活動とそれに伴う責任はトレードオフの関係なのか?

正解なんて出ない問いですが、その時点での最善を導き出す努力はすべきでしたし、これからはして欲しいなと思います。


思いの外、長くなってしまったので2つに分けます。
大道芸ワールドカップ実行委員会についての個人的考察_問題点その2

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