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無意識さんにあこがれる。

10時半までに到着したいと言うので、必ずそれまでに送り届けないとと車を走らせ、ヨシ間に合う!と安堵したころに『喫茶店でも寄って行こう』と言われた時には心のなかで『10時半までって言うたやん!』と怒りが沸き、憤懣しながら喫茶店は丁重にお断りした。

また、11時には帰らないと母が待っている、と聞いてそのように段取りして「そろそろ出ないと間に合わないでしょ」と言うと「まあ母親もどうせ30分くらい遅れて来ると思っているから」という言葉にカチンときた。

16時5分前に、あー16時から約束なんだった!えらいこっちゃ!と言いつつ、トイレ行ってタバコ吸って行こ~!と堂々と16時を過ぎてから出る相手を見て呆れた。

このような事から、『私は時間のルーズさに許容がないんだな』ということが分かった。

『自分の感情や解釈が自分の人生を作っている』ことがよくわかっているので、私は自分の嫌な感情は出したくない。

もちろん、怒りだって大切なものだとは思うが、これは好みの問題で、怒りの『感じ』が私は好きではないのだ。

時間にルーズな人に自分が反応してしまうということは、『時間に遅れてはならない』という思い込みが私の中にある、ということでまず間違いないだろう。

では『時間に遅れてはならない』をひっくりかえそう。という思考になる。

私は、『時間に遅れてはならない』という概念が自分を縛っているし、それはもう少し緩やかにしてもいい内容だと決断を下した。

まず、時間に対して自分がどのように接しているかを観察しだす。
すると、かなり「遅れてはいけない」と強迫観念をもって行動していることがわかる。
時間に心が焦っている。

しかも重要な発見をした。
私は『時間に追われる』という事にすごくストレスを感じていたのだ。

『時間を気にする』ことが、私は実はキライだったのだ!なんと『時間を気にしないで生きたい』と思っていることが判明してしまった。(そう、一番はじめに登場した人たちのように)

それからは何年も、自分に「大丈夫、遅れても大丈夫」と言い聞かす生活がはじまる。
自分を安心させることが肝要だ。「もし遅れても頭を下げればいい」とシミュレーションする。
時間に振り回されない。私の存在価値を、時間よりも優先するのだ。
実際に遅れてしまうこともあった。遅れる自分にOKする。

時間を見ないようにする。
電車の時間もバスの時間も調べない。
(私は旅行など、どこへ行くにもタイムスケジュールを立てておく方だ)
焦らない。
乗り過ごしてもいい。
ゆっくりトイレに行こう
間に合う電車にのればいい。

『あえて無意識状態で生きることを実践している人』が、全く時計を見ないでもピタリと電車に乗れる不思議、飄々としているのに失敗がないから(失敗を恐れないから)焦りが皆無。

という話に憧れた。
私もその高みを目指した。

現在、けっして無意識に飄々と生きているわけではないけれど、だいぶ時間との付き合い方がストレスのないように構築できてきた。

もう時間にルーズな人を見ても、心はざわつかない。人の行動に自分の感情を憑依させない。

余談だが
私はお金と時間は似ているなあと感じている。

お金や時間を同様に『もったいない』と感じる人は多いのではないだろうか。

人に対して、自分のお金ではなくとも『あのお金の使い方どうなん』と非難しがちで、『あの時間の使い方どうなん』ということと似ている。

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