面と向かって言えない「嫌い」の話

 今、言論の場では主語を大きくしがちな人が増えている。

 「日本が」「外国が」といった括りだけでなく、「表現の自由戦士」「クソフェミ」「子供部屋おじさん」といった造語めいたものを持ち出して、批判対象をグループ化してしまう人達が、最近やけに存在感を放っている。個別の内容に対してとやかく言うつもりはないし、今この記事を読んでいる人が僕の意見に賛同することを求めているわけでもないのだが、この集団に括ろうとする傾向は、正直言ってあまり宜しいものではない。

 この論法の第一の問題点は、際限なく敵を増やし続けてしまうことだ。特定の属性が含まれるという体で相手を括って批判すると、本来議論を吹っ掛けるべき相手よりも、括りのとばっちりを食らって苛立つ部外者の方が多くなる。だから、論者が相手をしようと思っている人からは反応がないにもかかわらず、外野から大量の批判や暴言を投げつけられるといった状況に陥りやすい。批判し合う双方が集団括りの論法を使っていた場合はいっそう良くない状況を招く。お互いに取り巻きばかりを刺激し合って、制御の利かない乱闘状態に発展してしまう。あくまで当事者同士が批判をぶつけていればあっさり終わったはずの議論が、やけに大きく中身のない論争となって延々と燃え続ける様は、あまりにも醜く見ていられない。

 第二の問題点は、括り方そのものに差別的な観点や恣意的な分類が少なからず入ることだ。言論の内容を聞けば保守思想が薄くリベラル寄りなのに、自分の主張と相いれないからというだけで相手を「右翼」呼ばわりする人は、ネットの内外を問わずよく見かけることだろう。あるいは「子供部屋おじさん」のように、それまで規定してこなかったものを造語を用いて作り出し、一方的に見下したり排除すべき対象として扱う人もたびたび表に出てくる。こうした場合における集団の括りとは客観的なものではなく、むしろ個人の印象や固定観念によって一義的に決められてしまうものが多い。自己中心的でしかないにもかかわらず、対外的には何やら正当性があるもののように映ってしまうだけに、こうした決め付けの論法はとても質が悪い。

 こうした深刻な問題を抱えるやり方を、なぜ僕達は率先して使おうとするのだろうか。単刀直入に言えば、これは「嫌い」を面と向かって言えない心理ゆえの現象だろう。たとえば誰か一人の相手が嫌いなら、直接その相手に嫌いといえば済む。けれど、面と向かって嫌いなことを表明できる人は現実には少ない。それは社会において、「私は嫌い」「あなたは嫌い」という単独で完結した事象として終わることが少ないからだ。

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