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「サウンド・オブ・ミュージック」:死に挟まれた物語と人生の余韻

 初めて覚えた英語の歌は「エーデルワイス」だった。

 父に片仮名で歌詞をかいてもらった紙を何度も読み返しながら覚えた気がする。9歳か10歳くらいだった。なぜ「エーデルワイス」だったのかは分からない。父が好きだったのだろうか?そう考えると、私は父のことをよく知らない。

 先日、ふと頭の中を「エーデルワイス」が流れたのでSpotifyで聴いてみたところ、男性が歌っているので驚いた。そう、私は「エーデルワイス」が映画「サウンド・オブ・ミュージック」の歌であることも知らなかったのだ。

 静かな男性の声で歌われる「エーデルワイス」があまりに素敵だったので、その日の夜に「サウンド・オブ・ミュージック」を観た。この名作も観たことがなかったのだ。


 今よりは映画をよく観ていた10代、20代の頃、私はとてもひねくれていたので、「サウンド・オブ・ミュージック」のいかにも朗らかそうな健康美人が笑顔で歌い上げているジャケットに何だか辟易するような気持ちを覚え、この映画を観ることを避けていた。多くの人が最も好きな映画にこの作品をあげるのを「へー」と何の感慨もなく聞いていた。

 あれから20年以上たった今、そして子どもをもった今、この映画を観ると、あのあまりに有名な「ドレミの歌」のシーンが胸を打つ。音楽を知らなかった子どもたちが音楽の素晴らしさを初めて体験する、その生き生きとした描写。美しい緑、楽し気な自転車、生命力ではちきれんばかりの子どもたちの身体、そして歌声。

 「エーデルワイス」はトラップ大佐が音楽を思い出して心を開くシーンで歌われていた。大佐が微かに目線を送るさきにマリアがいて、二人ともまだ自分たちの恋心に気づいていない中、恋敵の男爵夫人だけが気づいて不安そうな表情をする。印象的なシーン。この恋敵がマリアを煽ったり、でも去り際はプライドを見せたりして、人間味があってまたよい。

 聴いていてウキウキする「MY Favorite Things」や「I Have Confidence」も、何とも言えないかわいらしさの「Sixteen going on seventeen」も、前に進む勇気をもらえる「Climb Every Mountain」も、どれも素晴らしかった。

 今観たからこそ、感動できたのかもしれない。


 この映画が、修道院から始まり、ナチスの台頭とそこからの逃亡で終わるのは何とも象徴的だ。

 修道院のシーンは基本、色がない。石造りの修道院とそこにいる修道女たちはモノトーンだ。そして修道院というのは神に身を捧げた女性たちの場だ。彼女たちは子を産むこともなく、社会で働くこともなく、神のために祈りながら生きる。それは生物的な、もしくは社会的な生産性にかかわることなく生きていくということだ。神に近い生活。それはある意味、死に近い生活でもあるのだろう。

 物語の後半、ナチスが台頭してくると、ここでもまた画面の色のトーンが一気に落ちる。音楽性の舞台で歌うトラップ家族たちの装いも表情もとても暗い。舞台をみている観客たちも同様だ。夜の暗闇にとけこんでしまいそうなほどの暗さ。そして軍人たちにナチスのハーケンクロイツ、手に汗握る逃亡劇。その後の戦争の悲劇、ホロコーストの惨劇を知っている私たちにとって、物語の後半はむせ返るような死の予感にあふれている。

 つまり「サウンド・オブ・ミュージック」は前後を死に挟まれた物語だと言える。

 物語のメインである心動かされる歌と踊りの数々は、冒頭と後半の死にはさまれているからこそ、美しく輝いているのだろう。子どもたちの音楽との出会い、恋の始まり、親子の和解、愛への気づきと戸惑い、若き恋の失恋、愛を確かめ合う喜び、祖国を離れる痛み。無から始まり死へと終わる束の間の時のなかで、私たちが通り過ぎていくかけがえのない瞬間の数々。

 このような私たちの人生のかけがえのない時間は一瞬のうちに過ぎていく。それは確かに音楽のようだ。音楽はこんなにも美しいのに、一瞬のうちに過ぎていく。あとに残るのは満たされるような余韻ばかりだ。

 「サウンド・オブ・ミュージック」を観ると、数々の美しい楽曲の余韻に、私たちがこれまで体験した、もしくはこれから体験するだろう、人生の忘れられない瞬間の余韻が重ねあわされるのだろう。過去の体験と未来の体験(の予感、それは実際には起こりえないかもしれないけれど、想像のなかで確かに予感として体験される)。それらへの眼差しが交差して、私たちは人生全体の余韻を味わう。

 「サウンド・オブ・ミュージック」を観るという体験は、私にとってそのような体験だった。

 

 

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