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さーちゃんのこと

私が小学生時代の話しだ

5〜6年生の頃だったと思う。同じクラスにいた女子児童の(以下、さーちゃんと呼ぶ)ご両親が離婚してしまった。原因はさーちゃんの母親が宗教にのめり込んでしまったから…..と、親同士によるひそひそした会話で知った

さーちゃんには歳の近い姉がいたと記憶している。父親が家を出て、さーちゃんと姉、母親三人で生活していた
…..ここで当然という言葉は使いたくないが、さーちゃん姉妹は当時意思決定できない年齢だったので、当然、母親がのめり込んだ宗教に姉妹で入信した

さーちゃんは学校の運動会とお祭り、地域のお祭りにも参加できなかった。特に運動会では騎馬戦に参加するのは厳禁とされていたようだ

当時の私は参加しないさーちゃんを見て宗教的な教えによるものと知らず、「風邪ひいたかケガでもしたんだろうな」くらいにしか思っていなかった

一度だけ、校庭の隅から運動会を見ていたさーちゃんが泣いている姿を見たことがあった。私が担任に伝えたところ神妙な面持ちで「そっとしておいて」と返されたため、それ以上何もしなかった

さーちゃんは入信した宗教の教えがどんなに素晴らしいか、たまにクラスの人に話していた。それはもう誇らしげに。

ではなぜ運動会のとき、さーちゃんは校庭の隅で泣いていたのだろう

あれは何の涙だったのだろう

今となってはわからないけど、泣いていたさーちゃんの姿は宗教について皆の前で誇らしげに話していた姿よりもずっと自然体で、子供らしかったように思う

私はさーちゃんとは交流が少なかった。そのまま小学校を卒業し、お互い別の中学へ進んだ。その後については全く知らない

今回、なぜこんなことを綴ったかというと、安倍元総理を銃撃した犯人の背景を知ってさーちゃんを思い出したからだ

あの犯人が元総理を銃撃したほんとうの理由については捜査中で、全容解明はまだ先と思うから邪推しない。ただひとつ言いたい。犯人の年齢から推察して「氷河期世代の反乱」「氷河期世代は異常」「これだから氷河期世代は」とひと括りに批判している人がいるけど違う。そういう表現だと、氷河期世代に該当しない人はセーフで関係ないみたいに安易にラベリングされてしまう。氷河期世代をひと括りにして叩く人の考え方自体は「元総理が家庭を崩壊させた宗教団体に関わっている。憎いから撃つ」と安易に思い込んだ犯人と同じだ

さて。事件について邪推しないと言いつつ私が今回思い知ったのは、自分に正直に生きられなかった、正直に生きる機会すら得られなかった人間の凄まじい怒りだ。怒りに支配されると怒りの矛先さえ見誤ってしまうと

……ここまで書いてもうひとつ思い出したことがある。オウム真理教事件にて死刑となった一人が、刑が目前に迫った際に語っていたという言葉

「他者ではなく自分を信じる生き方をしてみたかった」


さーちゃんは今、何を信じて生きているだろうか

最近そんなことを考えている





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