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軽井沢安東美術館 設計クロニクル 3:フジタについて猛勉強

一級建築士事務所・株式会社ディーディーティーの武富です。
軽井沢安東美術館の設計プロセスを綴るnoteマガジン「軽井沢安東美術館 設計クロニクル」の3本目の記事になります。
これまでの記事一覧はこちらです。
  1:予想外のご依頼
  2:キックオフミーティング


フジタについて猛勉強

建築も芸術の一部だと思いますし、クライアントの安東泰志さんから美術館の設計をご依頼いただく前から、ぼく自身もアートや美術館が好きでした。

ぼくが建築を志すきっかけとなった建築家の磯崎新さんは、「100年後に建物は残らないが、本や模型、シルクスクリーンは残る」とおっしゃり、自分が設計した建物のコンセプトを表現し、後世に残すメディアとして版画を作られていました。
その磯崎さんに憧れて進んだ建築に対する初心を忘れないよう、ぼくの自宅や事務所には磯崎さんのシルクスクリーンが飾ってあります。

(左)磯崎新《パラウ・サン・ジョルディ》(右)李禹煥《島より 6》

磯崎さんの作品以外にも、アートコレクター仲間の勉強会に参加したり、アートフェアやオークションで琴線に触れた作品を購入したりと、自分なりにアートと付き合ってきました。
安東夫妻や著名なコレクターの方々と比べるとささやかなコレクションですが、何度か「コレクター」としてメディアに取り上げていただいたこともあります。

とはいえ、ぼくの個人的な好みは抽象的なモダンアート寄りで、藤田嗣治については通り一遍の知識しかありませんでした。
そのため、藤田嗣治の作品だけを収蔵する軽井沢安東美術館を設計するにあたり、2018年11月に依頼を受けた直後から、藤田についての勉強がスタートしました。

まずは藤田の画集や伝記・評伝、過去の展覧会の図録など、和書・洋書を問わず入手可能なものは手当たり次第、手に入れました。
えてして設計事務所の本棚は、建築雑誌や資料集、建築や美術の写真集、過去の図面や材料のカタログなどがぎっしり詰まっているものです。
ディーディーティーの事務所もご多分に漏れませんが、その本棚の一角は、藤田関連の書籍が占めることになりました。

d/dt Arch.(ディーディーティー)東京事務所の書棚の一部

ここで、藤田嗣治という画家がどのような人生を送ったか、簡単にまとめておきます。


藤田の生涯

藤田嗣治は1886年、東京都に生まれます。
父親の嗣章は陸軍軍医で、後に森鴎外の後任として軍医総監を務めたエリートでした。
14歳のとき、藤田は自分を医者にしようとしていた父に、絵の道に進みたいと手紙で打ち明けます。
面と向かって伝えるのが怖かったのかもしれません。しかし嗣章は息子の決意を認め、油絵具を買うことを許しました。

やがて藤田は東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部の前身)で西洋画を学びます。
しかし、卒業制作の自画像を黒田清輝に酷評され、卒業後も文部省主催の「文展」に三度続けて落選するなど、画家としてのスタートは必ずしも順風満帆ではなかったようです。
1913年、26歳でフランスに留学し、モディリアニやスーチンらと共同生活をはじめ、この頃からトレードマークのおかっぱ頭になりました。
その後も一気に名声を得たわけではなく、第一次世界大戦の戦火をくぐり抜けながら制作を続け、パリの画廊で初めての個展が実現したのは1917年のことでした。
いわゆる「乳白色の裸婦」の画風を確立し、エコール・ド・パリを代表する人気画家の一人として活躍したのは1920年代、藤田が30代前半から40代前半の時期でした。

この頃から日本の画壇の中には藤田の言動や作風を批判する勢力があったようです。
そのような逆風が決定的となったのは、第二次世界大戦後のことでした。
戦時中、日本に戻った藤田が軍の依頼をうけて「戦争画」を描いたことから、戦争責任を追及されたのです。

けっきょく藤田は5人目の妻・君代夫人とともに日本を去り、二度と戻ることはありませんでした。
2人はアメリカを経由して1950年にフランスに渡り、5年後にフランス国籍を取得します。
自分の子どもがいなかった藤田は、この頃から架空の少女の絵を多く描くようになりました。
1959年にはシャンパーニュ地方の中心都市、ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタと名を改めました。
75歳の1961年、パリ郊外の小村ヴィリエ=ル=バクルに転居し、終の棲家となるアトリエ兼住居を構えます。
この建物は現在「メゾン=アトリエ・フジタ」として保存され、藤田が手仕事を加えた様々な生活雑貨や家具とともに一般公開されています。

メゾン=アトリエ・フジタ(Maison-atelier Foujita)

最晩年、藤田は自らがデザインした礼拝堂をランスに建てました。(もちろん本格的な設計は、藤田のデザインをもとに本職の建築家が行いました。)

フジタ礼拝堂(Chapelle Foujita)
正式名称は「平和の聖母礼拝堂」(Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)

「フジタ礼拝堂」と呼ばれるこの礼拝堂に、藤田がキリストの生涯を描いたフレスコ画の壁画を完成させたのは1966年8月のことです。
その数か月後に藤田は病に倒れ、病院を転々とした後、1968年に81歳の生涯を閉じました。
藤田の遺骨は、今では君代夫人とともにフジタ礼拝堂に埋葬されています。


美術館設計にむけて

藤田について学ぶにつれ印象的だったのは、どうすれば世間に認知されるのか、彼が常に戦略的に考えていたことです。
あの特徴的な髪型とメガネのスタイルも、セルフ・プロデュースの一端と言われています。
結婚と離婚を繰り返すように本能で動く面は、いわゆる芸術家のイメージですが、理屈で動く戦略家の面もあると知り、興味が深まりました。

また、藤田の作品を納める美術館を設計するにあたり、ぜひフランスの「メゾン=アトリエ・フジタ」と「フジタ礼拝堂」を見ておかなくてはと思いました。
幸い、基本設計を行っていた2019年はコロナ前だったので、計3回フランスを訪れ、藤田ゆかりの場所を視察することができました。
このフランス訪問については、また別の投稿で詳しく書いていきます。

このように、新しい計画の設計に着手する場合、調べられることは可能な限り調べることからスタートしています。
何年実務経験を積んでも「知識が十分足りている」ということは無く、常に情報のアップデートが必要です。

安東美術館のケースでは、藤田について勉強したのはもちろんのこと、美術館・博物館関係の資料も数多く収集し、参考になりそうな美術館を積極的に見て回りました。
その結果、クライアントの安東夫妻と展示計画や方法についての打合せを重ねながら、展示方針に合った空間を形にできたと思います。

プロジェクトのおかげで常に学びのきっかけがあり、視野を広げられるのも、建築に携わって良かったと思うところです。

さて、次回は安東美術館の敷地について書きたいと思います。

つづく


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