ねぎのつれづれ

 ねぎはすごいやつだと思う。ラーメンをすすりながら、つくづく思う。ねぎってやつは、すごい。えらい。私はかなりのねぎ好きで、ラーメンのねぎは必ず増量するし、鍋の野菜はねぎだけでいいと思っている。だから、年末年始で口にした野菜はねぎと、カップ焼きそばのかやくのキャベツくらいだった。
 この年末年始、私はひたすら引きこもり、誰とも話すことなく過ごした。テレビすら見ていない。私に新年の挨拶のメールなんて誰からも来るわけがない。本当のひとりぼっちだった。ひとりで空想したり生き方について考えたりして、それをもそもそとパソコンに打ち込んで過ごした。これまでなら、忘年会だ、新年会だ、と理由をつけて飲み歩いていたが、なんだか今年はそれどころではなかった。
 人生というものを、生きる中でどれだけの時間考えるのだろう。ひとが、いきる。なんて尊く、甘受するべきことだろう。そんなことを考えつつ、文章をしたためていると、気づいたら夜になっているのだ。私は大晦日も、既に紅白歌合戦が始まっているのにも関わらず爆発しそうな脳みその中をひたすらパソコンに打ち付け続けた。私のいちばんの友達、私。外の私と、中の私。それぞれの声を聞き、向き合っていると、ひとりぼっちのようには思えなかった。
 やっと切り上げて急いで大晦日のスーパーに向かう。冷蔵庫の中は、いつものように空っぽだ。いつもなら、大晦日かその前日に、お雑煮にも蕎麦つゆにもなる、鶏肉と根菜を醤油で味付けした汁を鍋ふたつぶん大量に作ったり、正月らしく蒲鉾なんかも用意したりするのだが、もうそんなのどうだっていい。人がまばらなスーパーを早足でまわり、夕食のメニューを考える。肉、魚、今日はどっちだ。スーパーの品揃えは正月仕様になっていて、すき焼き用の高級牛肉や数の子なんかで売り場が占められている。これはいけない。私はやっと、庶民的な値段の甘塩の鱈を見つけ、かごに入れる。さあ、鱈ときたら、ねぎだ。全幅の信頼をおいている彼を、かごに入れる。最後にビールと安い白ワインをかごに入れる。最高の大晦日の夜だ。
 自宅に帰り、鍋にお湯を沸かす。粉末のだしと日本酒を適当に入れる。その間にねぎを斜めに刻む。できれば細かく。そして沸いた鍋に、鱈とねぎの青い部分を入れて火を通す。酒がとび、鱈に火が通ったと思ったら、ねぎの白い部分を入れ、火をとめる。もともと鱈に塩味がついているので、他の味付けはいらない。それを器によそい、もう後半戦になっている紅白歌合戦を見ながら、ビールをあける。
 ねぎはすごい。えらい。最後に入れた白い部分は、その辛みで鱈のうまさを引き立たせるし、火を通しておいた青い部分は、くったりと甘味がある。火を通しても通さなくても、うまい。それは、どうにかうまく生きようともがく外の私と、ただ自由でありたい中の私の二面性を、どちらもいいと肯定しているような気がする。だからねぎはすごい。えらい。
 ねぎは私の友達だし、また、私自身も私の友達だ。これからもずっと、何があってもじっくり付き合っていく。それでいいのだ。酔っぱらった頭でそんなことを思っていたら、いつの間にか新年が明けていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?