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彼女が見た海 1

 なぜそんな気になったのかまったく解らなかった。
 それでも気がついたら横浜駅で迷うことなく京浜急行に乗り換えていた。逗子・葉山行きのエアポート急行。終点までただ混乱する頭のまま乗っていた。
 頭の中で交錯するシーンには怒号も混じっている。いき場のない諍い。何度、繰り返してきたことだろう。ひとつひとつ思い出そうとするたびに、知らず知らず涙が滲む。
 ──なんだって、あいつなのよ……。
 自分勝手でいい加減でてきとうでわがままで恥知らずでいじわるでうそつきで見栄っ張りで怠け者で根性なしで意気地なしで情け知らずで碌でなしで幼稚なガキで臆病者で怖がりで世間知らずの甘ったれでしみったれで出鱈目でやさぐれで野蛮で粗暴で人の気も知らない愚か者で優しさの欠片もない間抜けで性根の腐ったひねくれ者で冷淡でつれなくて薄情で非道で人の道にもとる脳足りんで出来損ないのケチでチンケな大馬鹿もののくそったれで……。
 思いつく限りの悪口を考えているうちに、零れかけていた涙は涸れて、いつしか電車は終点の逗子・葉山駅に着いていた。
 ──逗子……。
 産まれてはじめて訪れた駅だった。あたり前だけどどんなところなのかもまったくといっていいほど知らなかった。
 ──確か、海があったわよね。
 プラットフォームのベンチに腰を下ろすとスマホのマップアプリを起動した。地図を確かめてみる。十分ほどの距離だろうか、海があった。そこから三浦半島の西側の海岸が続いている。葉山、一色、長者ヶ崎、秋谷、長浜。逗子はちょうど三浦半島の付け根のところに位置していた。
 里浦真澄は南口の改札を出ると空を見上げた。
 雲が幾重にも重なった梅雨空が広がっていた。低い雲は風に流されていく。その奥には厚めの雲が重なり、ところどころから薄らと青空が覗いていた。
 オフホワイトのシャツの上にはピンクのサマーセーターを羽織り、スキニージーンズのボトムにスニーカー姿。小降りのブラウンのリュックを背負い、肩よりもやや長めの髪がときおり強めに吹く風に揺れる。
 マップアプリを頼りにバス通りから海岸中央入口の交差点を左に折れた。そのまま道なりに歩いていくと海へといき着くことができる。しばらく歩いていくとちいさな橋があった。
『東郷橋』
 それを渡ると海からの風を感じるようになった。潮の香りもどこからか漂ってくる。不思議なことに自然に足が早くなっていく。すぐに国道百三十四号線が見えてきた。その下のトンネルの向こうに海があった。
 吹きつけてくる潮風が強い。
 まるで足を踏み入れるのを拒むような強い風を全身で受け止めながらトンネル潜っていった。
 眼の前に海が広がっていた。
 びょうびょうと風が吹きつける。
 灰色に塗り重ねられた空をそのまま映すように、海もまた灰色に染まっている。打ち寄せる波が荒い。砂に足を取られないように一歩一歩踏みしめて海へと近づいていく。波打ち際までいくとそこで改めて海を見つめた。ねっとりした潮風が髪に纏わりつく。
 それでも思い切り息を吸い込み、そして大きく吐いた。すべてが吹き飛ばされていくような気がして、なぜだか心のざわつきが収まっていくのを感じた。
 海と空の境目には厚めの雲が立ち塞がり、その先は見えなかった。沖からは次々に波がやってくる。その沖にはウインドサーファーがいた。強い風を受けて、まるで波の上を滑るように疾駆している。その手前を見やると何人かのサーファーが波間に揺れていた。
 ──こんな海に出ている人がいるんだ……。
 まるで知らなかった世界がそこにあることをいまはじめて知り、なぜか心の奥底でなにかが囁きはじめるのを感じる。
 しばらく風に吹かれたまま海を見つめていた真澄は、やがて波打ち際をゆっくりと歩きはじめた。
 まだいつ梅雨が明けるのか判らなかったけれど、海岸では海の家の準備がほぼ終わろうとしていた。立ち働く人たちを別にして、しかし海岸を歩く人の姿はほぼ皆無といっていいだろう。なんだか隙だらけの海岸に思えた。
 東浜へ向かってしばらく歩くと、改めて海を見た。
 吹きつける風、打ち寄せる波。そしてその波間に漂うサーファーたち。真澄はふいにスニーカーを脱ぎ捨てると、そのまま波打ち際へと歩み寄った。
 打ち寄せる波がその素足を洗う。思ったよりも水は冷たかった。けれど、水の冷たさが心の中に染みこんでいくようでそれ以上に心地よかった。しばらく足先だけを波に洗わせていたけど、ふいに思い切って一歩前に進んでみた。
 寄せる波を足首に感じる。
 それだけではなにか物足りなく感じて、さらに海へと入っていった。ふくらはぎが水の冷たさを感じる。
 ジーンズの裾が濡れるのも構わず、気がついたら真澄は膝近くまで海に入っていた。
 寄せる波が身体を揺さぶる。
 返す波がさらにその身体を揺さぶる。
 まるで髪をちぎるような勢いで吹きつける風が身体を揺らせる。
 真澄は息吹を感じていた。それは人の手で作られたものではなく、原初からここにある息吹。そして決して果てることのない息吹。自然の鼓動ともいえるものだった。
 真澄の全身を、真澄の心を、真澄のすべてを、その息吹が揺さぶる。
 心が解けて融けていきそうだった。足下の波から海へ、そして 灰色を塗り重ねたような空にまで、心がすっかり融けて広がっていくような気持ちになっていた。
 どれぐらいそうしていただろう。
 気がつくと身体の芯が冷たくなりかけて、真澄は砂浜へと戻った。
 それでも吹きつける風に誘われるように真澄は灰色の空とその色を映した灰色の海を眺め続けた。
 まるで惚けてしまったようだった。
 でも、とても心地よかった。
 濡れていた足がすっかり乾いて、脱いでいたスニーカーを履いた。その途端、それまで真澄を包み込んでいた息吹がちょっとだけよそよそしくなった気がした。
 ──なんだっけ。自分勝手でいい加減でてきとうでわがままで恥知らずでいじわるでうそつきで見栄っ張りで怠け者で根性なしで意気地なしで情け知らずで碌でなしで……。
 でも、もうそんなことはどうでもよくなっていた。
 真澄は改めて海岸を眺めた。ふと見上げたその眼に国道沿いに建つカフェが飛び込んできた。
 東浜トイレの横にあるトンネルを潜って国道に出た。数メートル先に看板があった。
『カフェ そら』
 まるでログハウスのような店構えだった。車一台がやっと駐まれるようなスペースの脇に入り口があった。ウッドデッキ状のそこにはベンチが一脚、まるでだれかを待っているように置かれていた。
 大きな窓から店内を覗いてみた。
 がらんとした店内。カウンターの奥に店の人がいるのが見えた。
 真澄は思いきってドアを開けた。
 からんからん……。
 ドアベルが乾いた音を遠慮がちに立てた。
「いらっしゃい」
 カウンターの奥にいたマスターとおぼしき男性が立ち上がって、真澄に微笑みかけてきた。
 入り口近くの窓側にはテーブルが二脚、あとはカウンターだけだった。カウンターと向かい合うように左側の壁沿いには階段があった。
 真澄は窓側のカウンターに座った。
 ピアノの音が聴こえる。店の奥には大きなスピーカーが設えてあって、その手前にはステレオセットがあった。真澄には詳しいことは判らなかったけど、どうやら年代物のステレオのようだった。
「どうぞ」
 メニューと氷水で満たされたコップが置かれた。
 そろそろ五十代に差し掛かるころだろうか。頭には白いものが目立ちはじめていた。中肉中背。真っ白のコットン地のシャツにジーンズ。シャツの両袖はきちんとまくり上げられ、濃いブラウンのエプロンをしていた。口に周りには髭が生えている。無精髭といっていいのかどうか、とてもていねいに刈り揃えられていた。
 差し出されたメニューを手に取ると、真澄は手書きで書かれた品をひとつずつ見ていった。
「珈琲をお願いできますか」
 真澄は頷きながら手にしていたメニューをテーブルに置いた。
「好みはありますか?」
「好みですか?」
 真澄は思わず首を傾げた。
「たとえば苦味が強い方がいいとか、さっぱりとした味の方がいいとか」
 マスターは微笑みながら尋ねた。縁なし眼鏡の奥の瞳がやさしげだった。
「そうねぇ……。それなら、思いっきり苦い方がいいかな」
「思いっきりですか?」
「うん。思いっきり苦く」
 マスターは優しく頷くと、メニューを持ってカウンターの奥へ戻った。
 棚から珈琲缶をいくつかカウンターに並べて、しばらく考えてからひとつずつ開けていった。計量スプーンで珈琲豆を珈琲グラインダーに入れて挽いていく。選んだ豆によって挽き方が微妙に違うのか、何度かグラインダーのスイッチが入れられ、そのたびに豆が挽かれる音が静かに店内に響く。
 やがて納得がいったのか湯気を上げているケトルを持ち上げると、ペーパーフィルターがセットされたドリッパーにていねいにお湯を注いでいく。ついでにカップをひとつ取り出すとお湯で満たした。
 グラインダーで挽いた粉をドリッパーに入れると静かにお湯を注ぎはじめた。まるで息を詰めるように真剣そのものの表情だった。
 やがて再びドリッパーにお湯を注ぐ。ケトルから注がれるお湯はさながら糸を束ねた細さを保ったまま。サーバーに珈琲が落ちていく音が聞こえる。その音が途切れそうになる前に、またドリッパーにお湯を注いでいった。なにかを確かめるように、さらにケトルからお湯を注ぐ。
 静かに流れていたピアノの音が途切れ、レコードの送り溝を針がなぞるポツンポツンという音が規則的に響く。
「どうぞ」
 真澄の前に珈琲で満たされたカップが置かれた。深く濃い琥珀色の珈琲から芳醇な香りとともに湯気が立ち上っていく。
「ミルクと砂糖は?」
「せっかく思いっきり苦くしてもらったんだから」
 真澄は微笑みながら首を横に振った。
 両手で持ち上げたカップにそっと口をつける。コクのある重厚な苦味が口の中に広がっていく。
 もうひと口飲んだ。
 思ったほど強烈な苦味はなかった。
 傍らにあったグラスから氷水を口に含んだ瞬間、その珈琲のほんとうの苦味が解った。水がとても甘かったのだ。
「ほんとうに苦いって、こういうことなんだ……」
 真澄は思わず呟いていた。
 そうか。わたしったらとても苦い思いをしていたのに、そのほんとうの苦さを知らずにいたのかもしれない。
 ううん、違う。
 気がつかないフリをしてきただけなんだ……。
 そっと眼を閉じて、その足を海に踏み入れて吹きつける潮風を全身で受け止めたときの感触を改めて思い出してみた。痛んでいた心を潮風が嬲っていく。けれど、そのおかげでどれだけ痛んでいたのか、傷ついていたのか、それを知ることができたのかもしれない。
 真澄はほっと溜息をついて、改めて珈琲カップに口をつけた。
 今度はさっきとは違う苦味が口の中に広がっていった。
 ──やっぱり苦いんだ、思いっきり。
 気がつくとまたピアノ曲がはじまっていた。ピアノ一台だけの演奏。ピアノの重厚な響きとメロディが絡み合って不思議な空間を生みだしていた。ときおりプレイヤーの息遣いが聞こえる。足を踏みならしてもいる。
 なぜだかフレーズが次に次に流れていくに従って、心の中にピアノの音が満ちていく。それはまるで海に足を踏み入れ、潮風を全身で受け止めていたときに感じた息吹を思い出させる。
 息吹。鼓動。そして、それは命……。
「あの、この曲はなんですか?」
 真澄は思わず訊いてしまった。
「キース・ジャレット。ケルンコンサート」
 じっと眼を閉じていたマスターが真澄の顔を見ながら頷いた。
「キース・ジャレット……」
 はじめて聞く名だった。
「これはインプロビゼーションの名盤といっていいかな。即興演奏なんだよ」
「え?」
 ──即興演奏って、その場で思いついたまま弾いてるってこと?
 真澄は信じられない想いで耳を澄ませた。
 ピアノの音が海で聴いた潮風の音と重なる。やっぱり感じるのは息吹だった。魂を揺さぶるような息吹。
 そのとき入り口から物音が聞こえてきた。なにかを窓の外に立てかけているような音だった。
 ふいに勢いよくドアが開いた。
 からんからん。
 ドアベルが大きく鳴る。
 ウェットスーツを着た男が入ってきた。長めの髪がぐっしょりの濡れて、いまも滴が垂れている。ついさっきまで海に入っていたようだった。
「よう」
 男はマスターに頷きかけた。
「いらっしゃい」
「いい?」
「どうぞ。いつもの?」
「いつもので」
 男は笑顔で頷くと、そのままペタペタとビーサンの音を立てながら壁沿いの階段を二階へと上っていった。

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