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絶滅シフォンケーキ、いずれ発掘


おばあちゃんの様子がおかしいらしい、と母が言う。え、何があったの。状況に合わせて的確に心配そうな顔を見せる表情筋に反して、あまりにも凪いだ心の中に自分でも驚いた。嘘つき、心配なんかしてないくせに。どこかで薄情な自分をなじる声がする。

母方の祖母といえば、いわゆる変わった人で私にとっては付き合いにくい人だった。小さい頃目立ちたがりの私が自分の話をわあわあすると、同じくらいの勢いで祖母が自分のことを話した。祖母との会話は、野球のボールを投げたら卵が投げ返されてくるような違和感を孕んでいた。父方の祖母のただのおしゃべり好きとは違う、噛み合わなさのようなものに幼いながら戸惑いを覚えた。たぶん、彼女は私の話を聞いているようで、いつも頭の中は自分の話すことでいっぱいだったのだと思う。私はそれが許せず、いつの間にか祖母とは距離を置くようになっていった。

祖母と話すときの違和感はやがて苦味のかたまりになって、彼女と話すときはいつも私の喉元にくすぶるようになった。しまいには季節の変わり目や私の誕生日、お祝いごとに送られてくる絵葉書にも私の体はぎくしゃくとしてしまって、「相変わらずおばあちゃんは絵が上手いね」と言ったきり、引き出しの奥深くに眠らせて目を逸らした。捨てたくはないけど、見たいわけじゃない。でも、ざらざらとした厚手の和紙を撫でていると心臓の下がじんと痛んで、耳がやけどしたように熱くなってくる。祖母を恥じる私はずるい、と思ったけれど、隠さなければ呼吸がしづらくなってしまう。喉が苦しくなる。絵葉書も、私の奥でぼこぼこと湧き上がるこの気持ちも。

祖母への苦手意識は思春期をたやすく通り過ぎ、成人を過ぎても私の胸に巣食っていた。このころになると、大人と言われる年齢になっていながら自分の気持ちをうまく動かせない自分に苛立ちを覚え、心から好きと言えない自身の融通の利かなさゆえ、罪悪感さえ祖母に覚えるようになっていった。祖母からの絵手紙を宝物のように大切に扱えない自分、もう一方の祖父母の誕生日は答えられるのに、彼女の誕生日は何年経っても言えなかった。嫌いなわけじゃない、可愛がってもらっているのもわかっている。でも。

祖母は私に似ていない母に似て、目がとびきり大きかった。若い頃は美人で有名で、成人したての頃地元の新聞に載ったという写真は、令和となった今芸能事務所に送っても余裕で通りそうな見た目で驚いた。私は父や父方の祖父に似てややあっさりとした醤油、いや塩、いや出汁の様な顔立ちをしていたので、祖母の写真を見ることは、母に驚くほど似ていない自身の顔立ちをちくちくと刺激されるような居心地の悪い経験だった。加えて祖母はとびきり料理が上手く、私がまだ親に手を握られなければ安心して外も歩けないような年頃の頃は喫茶店を営んでいた。朧げな記憶に残る、沢山の緑に覆われた煉瓦造りの素敵な喫茶店は、計算は得意でなかった祖母の経営が原因で差し押さえにあい、閉店した。出窓から差し込む光がもう見られないこと、つやつやとしたフローリングに光があたり、宝石のように店内の薄い埃がちらちらと舞う様子がもう見られないことがその当時の私には残念でならなかった。けれど口いっぱいに頬張ると炭酸のようにしゅわしゅわと音をたてて溶けていく、祖母お手製のシフォンケーキがもうあの空間では食べられない失った味だということにはまだこの時は気が付いていなかった。私の母はその後の閉店に伴う処理で鬱病を患い、長いこと布団で芋虫になる生活を送った。私はそれらの流れや両親の会話を、時折扉や薄い掛け布団越しに盗み聞きしては、なぜか込み上げる熱いものを小さな舌で押さえつけながら眠った。息をしては溢れてしまうから、下顎にぐっと力を入れて。泳ぐのは得意でしょう。ほら、息を止めるの。大きな水の流れが、私の中に入ってこないように。

母は祖母に会うたび、彼女を「あんた」と呼んだ。その三文字に詰め込まれた母の憎しみや芋虫になるほどの苦悩を、私は未だに理解することができずにいる。そして誰かを「あんた」と呼べるほどの思いが私に去来しないことを願ってさえいる。

祖母は店をたたみ、破産したあと私たちの近所に引っ越してきた。彼女の新しい住まいは全てレゴブロックで一つも欠けることがないように作られた市営団地の、あまり光のささない二階にあった。いつも緑に囲まれ、優しい甘さの漂う喫茶店とは違い、団地はどこもかしこも人の匂いがしていた。エレベーターのがさがさしたマットには、雨が降ったわけでもないのに大きな染みが口を開け、足の裏から寒さが立ち上るのがわかる。段ボール箱の蓋を閉じられたときのような苦しさが私の首を包む。この時だけは祖母の部屋が二階で良かったと心の底から感謝した。

祖母は引っ越してから、その料理の腕を買われお惣菜のお店で働き始めた。忙しいその合間を縫っては絵はがきを描き、お祝い事にはシフォンケーキを焼いて持ってきてくれた。大きな保冷バッグから登場したシフォンケーキは一見あの時のままで、その香りをかぐ時だけは油を刺したように私の体はするすると動いた。おばあちゃんがいつもシフォンケーキを持ってきてくれれば、きっとちゃんと好きになれるのにな。そんなことさえ思っていた気がする。子供は勝手で、現金なのだ。

けれどそのシフォンケーキも、段々と違和感を持つようになっていった。表面が真っ黒だったり、頬張っても炭酸のようには溶けず、生焼けだったりした。母が祖母に伝えると、彼女は大きな目をきゅっとすぼめて、いたずらが失敗した子供のように「火力がね、足りないみたい」といった。レゴブロックはシフォンケーキを美味しく焼くに足る能力を持ち合わせていなかったらしい。その後何度かシフォンケーキを作ってくれたが、炭酸がうまれる事はなかった。シフォンケーキはいつのまにかチーズケーキに代わり、気付けば牛の影絵が印刷されたお弁当や、値引きシールの貼られたお惣菜に変わっていた。今ではもう、いつ頃から祖母がシフォンケーキを作らなくなっていたのか、それすらわからない。

「おばあちゃん」は結局ただおかしくなったわけではなかった。三年前患った胃がんの影響で、レシート用紙のように儚くなってしまった祖母の脳を今度は腫瘍が覆ったのだ。お医者さんも驚くほどの速度で大きくなったという。あまりにも急に大きく、しかも言語に関するところを覆っているので、ある日突然、祖母は買い物用のメモ用紙に同じ言葉しか繰り返し書けなくなり、ことばは音となって喉から出てくる前につまづくようになってしまったという。言葉をつかさどる部分を押さえつけてしまうほどの腫瘍が祖母の小さな頭に巣食っていることを私は上手く想像できなかった。お医者さんに伝えられた祖母の現状を食卓で話す母に私の脳が的確に相槌を打ち、悲しそうな「孫」の顔を脳の指令を受けた表情筋がかたどる傍で、私はぼんやりと、ブレーキを失った自転車のように話す祖母の姿を思い出していた。なんで腫瘍はことばの所を覆ったんだろう。声を失っただけの人魚姫と違って、書くことばをも奪われたら。シフォンケーキの炭酸に人魚が沈む音が、小さく耳の中で鳴った。

新しいウイルスが目まぐるしい速度で世界中を旅する間、祖母の脳からは大きな腫瘍が取り除かれた。事前にお医者さんから伝えられていた通り、祖母の脳のことばの機関は元どおりにはならなかった。けれどお医者さんが驚くほどの速度で回復している、と母は病院帰りの姿でマフラーを外しながら言った。「あんた」と祖母を呼んでいた母はこの頃「お母さん」と祖母に呼びかけるようになり、私の前では「あの人」ではなく「おばあちゃん」と言うようになった。その変化に現れるように彼女の目には無事に手術が終わり快方に向かう祖母への安堵が垣間見えた。それでも、それなのに。私だけが未だに取り残されていた。祖母の手術の日、私はわざとアルバイトのシフトを入れた。冷蔵庫に貼られたメモには手術日が黒いマーカーで書き込まれ、知っていたのに。万が一病院へ行ってと言われたりなんかしないように。私だけ、芋虫の母を扉から覗き見たあの日に取り残されている。私だけ、「あんた」と呼びかけられる祖母の背中を階段から覗き見たあの日に取り残されている。私だけ、まだあなたの絵はがきを部屋に飾ることができずにいる。

世界がウイルスの脅威に慣れ、対抗策が論じられ始めると、祖母も退院して通院での経過観察に変わった。母はパート先の休みの水曜日になるとせっせと小さなお弁当を作り、私の意識が浮上する2時間も前に家を出るようになった。初めはなぜそんな早起きなのかわからず、どこへ行っていたのか問う私に、母は冗談だとでも笑うように「おばあちゃんの送り迎えに決まってるでしょ」と答えた。私は曖昧に微笑みながら、冷たくなった指先で心臓を撫でた。「今度の水曜日は私が送るよ」なんてでまかせを、小さな声で呟いた。頼もうかな、という明るい母の声に、どうか今度なんて来ませんように、と願った。

それから次の次の水曜日、家中の窓が室内を満遍なく照らす時間になっても私はまだ布団の中にいた。幼い時は止まったら死んでしまうマグロのようだと言われた私は、中学生時代の無理なハンガーストライキの影響かすっかり体力がなくなり休みとあらば布団に篭る大人になってしまった。うつ伏せで簀巻きのようになっていると、枕元の携帯が何度か振動し、やがて止まると今度は家の電話がなった。渋々出ると、母である。「おばあちゃんと、今喫茶店にいるの。来れるでしょ?」心臓の底がじくと痛んで、気付けば指で摩っている。ついにこの時が来てしまった。祖母にはもう、一年近くあっていない。生え際に隠れたにきびをつぶしながら、「すぐ行く」と答えた。

家から5分の喫茶店は祖母と同じような人たちで埋まっていた。人は歳をとると、なぜか小さく小さくなっていく。見慣れた店内に目をやると、一年前より薄く、小さくなった祖母が座っていた。母と同じ大きな目は、広告の裏のようなつるんとした皮膚が小さな骨格を覆う顔の中で相変わらず目立ち、そして見開かれていた。少し離れた入り口から、祖母のすぼめられた口がおお、と言ったのがわかる。祖母は何も変わっていないみたいだった。さらに小さくなっただけで。席にゆるりと近づくと、入り口に背を向けていた母が振り返った。顔と同じくらいの大きさのニット帽を、手術痕を隠すために綿毛のような毛が生えた頭に被る祖母と違い、母の髪は黒々とし、どこまでも広がるようだった。でも、まるで対照的に見えてその顔はよく似ている。私を見て見開く大きな目が、笑うと歯の奥の方まで覗く口元が、やはりよく似ていて、どちらも私に似ていなかった。

久しぶり、と席について一言言ったっきり、私の体はまたブリキ人形に戻ってしまった。横に座る母から、祖母に視線を移そうとすると、首が突然硬くなってしまう。寒くもないのに、膝が震え、ホットコーヒーを頼んだ。お砂糖はなし、ミルクもなし。苦味が搔き消えますように。祖母はあまり変わっていないようにみえた。いたずらが失敗したような笑みや母の話に少し大きめの鼻濁音で「うん」と答える音も変わらず、大きな傷跡があるであろう場所も隠され、そこには「おばあちゃん」がいた。でも、お医者さんが言ったことは本当だった。祖母と同じ人より大きめの声で母が言語療法士とのやりとりについて尋ねると、祖母はいつもと同じ、少し食い気味で口を開き、「あのー、」と言って、そして止まってしまった。すかさず母が疑問形で内容を確認すると、祖母は再び、鼻濁音で「うん、うん」と言った。膝下の震えが止まり、赤い合皮の座面につけたお尻から、漏斗でどこかで流し込まれてしまうような感覚が襲った。母娘の会話の横で、ブリキ人形が固まっている。耳元ではぱちぱちと弾ける音が聴こえる。人魚は声を失い、泡になって消えた。ブリキ人形には油が足りない。いや、本当に足りないのは心だったか。勇気だったか。脳さえ、なかったのか。

喫茶店で何を話したかよく覚えていない。黙々と付いてきた遅いモーニングを食べ、手持ち無沙汰に雑誌をめくる祖母を眺めていた。どれくらい文字が読めているのだろうか。それはもうわからない。現実は厳しく、祖母の物語は人魚姫のように秘された心の内まで語っては貰えないのだから。

喫茶店を出て、祖母の住む市営団地に車を停めると、母は駐車許可を貰うと言って出て行った。冬と春の間の曖昧な日差しを浴びた車内はどこか生ぬるく、エンジンを切る前に窓を開けておかなかったことを悔やんだ。窓から見える市営団地はレゴブロックの体裁を保ったまま、淡い黄色に塗り直され、何かに似ているような、懐かしさを覚えた。以前より縮んだように思える建物を眺めていると、横から「あのね」と聞こえる。「元気?」祖母はいたずらっ子のような微笑みをたたえて言った。

元気?ずっと元気だ。祖母が腫瘍の手術を受けた時も、胃がんの治療を受けている時でさえ、私はずっと元気だった。大学に入学し、アルバイトを始め、恋をし、振られ、友人ができ、縁を切り、アルバイトを辞め、始めて、留学を決め、休学し、アルバイトをして、旅行に行って、留学が中止になり、涙し、憤ったけれど、また恋をして働いている。元気、とっても元気です。その間あなたの絵はがきを何通も引き出しにしまい、メールの返信もあまり返さず、二階のあの部屋へ遊びにも行かなかったし、心の底から、きちんとあなたの健康を願えなかったけれど。ずっと、元気でした。

私は元気だよ、おばあちゃんは。ことばは、どう。下顎に力を入れなくちゃ、みっともなく泣いてしまいそうだった。心臓の底が痛い、ぎゅっと痛い。祖母はつるりとした冷たい手で、私の汗ばんだ手を触った。熱で苦しむ深夜の部屋で、冷たい清流の夢をみた時を思い出す温度だ。うん、読んだり、読んだり、ね。うん。読むのはやっぱり難しいの。うん、そうね。書くのはどう。うん。書くのは難しい。読むのは難しいよ。読むのも、書くのも難しいの。そう、うん。そっか、そうか。ねえ、おばあちゃん。いつかさ、シフォンケーキのレシピをさ、教えてよ。あのね、どのお店でシフォンケーキを食べてもね、おばあちゃんのがやっぱり一番おいしいよ。わたしは料理が下手だけど、練習いっぱいするからさ。そのうちでいいから、無理せずでいいから、シフォンケーキのレシピのメモ、ちょうだいね。そしたら、一緒に作ろう。

うん、うん、そうね。

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