第10章 山岳信仰・祈りの本質

画像1

山の神・水分神

 桜の季節になるとはっきりと想い出す光景がある。

 いつそこに居たのか、どうやって行ったのか、そして、それがどこであるのかはまったくわからないのだが、確かに、過去にそこに行き、目の前の光景にやすらぎと清々しさを感じていたという記憶ははっきりしている。

 緩やかな起伏を描く山並みがはるか彼方まで見渡せる高原の一角で、田植え直前の鋤き均された田が広がっている。ぼくはその田の畦に立っている。足元にはツクシとイタドリが元気よく土の中から伸び上がって、長い毛足の絨毯のように畦を覆っている。

 そして、ぼくが立つ畦の先には、今ちょうど満開を迎えた大きな桜の木がある。その隣には大きな藁葺き屋根の家があり、暖かい春の日差しが注ぐ庭先で割烹着姿の老女がオカッパ頭の赤い半纏を着た幼女を遊ばせている。この長閑な風景の中で、藁葺き屋根の天辺を越える大きさの桜は、祖母と孫をにこやかに笑いながら見守っているように見える。ぼく自身もその光景に心和み、思わず笑みが漏れる。そして、満開の桜と自分が同じ気分でいるかのように思え、この桜に友人同士のような親しみを覚える。

 長い間、桜とぼくはともに里に訪れた春を寿いでいた。

 現実なのか幻なのか定かではないが、そんな記憶が鮮やかなものだから、満開の桜を見ると、ただ華やかで美しく感じるだけでなく、春の到来を歓喜する桜と想いをともにして寄り添っているような気がするのだ。

 この章を書いているのは4月10日だが、関東ではちょうど桜が満開を迎え、千鳥ヶ淵や上野公園、目黒川沿いなどの都内の桜の名所には人が溢れかえっている。そんな光景を見ると、桜が日本人にとって特別な存在であることがよくわかる。たぶん、みんな知らず知らずのうちに、桜とともに春の訪れを寿いでいるのだろう。

 桜は、日本古来の山岳信仰と深く結びついているということを、ちょうど10年前くらいに知った。そして、何故、ぼくが桜の頃に決まって同じ景色を思い出すのかが腑に落ちた。日本では、古来から山は神が住む場所と信じられてきた。そして、山そのものが信仰の対象となり、神道という独自の宗教体系が出来上がった。

 山に住む神は、里に水をもたらすことから、水を支配しこれを分配するという意味の「水分神(みくまりのかみ)」とも呼ばれる。

 山の神は、春の訪れとともに水分神として里に降りてくる。山に降り積もった雪が溶け、沢が流れを取り戻すと、その流れとともに神を乗せたイワナやヤマメが下ってくる。さらに神はドジョウや鮒に乗り換え、用水から田の端へと入り、その畔にある桜に宿る。

 桜が満開となるのは、そこに水分神が宿ったことを示すものであり、里人たちは水分神を歓迎し、ともに春の訪れを祝った。これが春祭りの起源となる。

 田の端に桜を植えるのは、水分神の依代=住処を用意することであり、花見は重要な祭事だった。そう考えれば、日本人にとって桜が重要な樹木であり、満開になると誰しも心浮き立つ意味がわかる。ぼくが、一本の桜がある山里の風景を思い出すのは、長い間受け継がれてきた記憶が、桜の開花と共に再生されるからかもしれない。

 桜に宿った水分神は、そのまま里に留まり、稲作を見守って、秋になると新穀を里人とともに食し、実りを寿いだ。それが秋祭りとして定着する。

 古く、神職は、秋祭りで水分神と新穀を共食した者の中で、とくにシャーマニスティックな者が選ばれ、山へ還る神と共に里を後にして、山に篭り、冬の間は山中の洞窟などで修行して超自然的な力を身につけた。そして春になると水分神に姿を変えた山の神とともに里に降りてきて、春と秋の祭りを奉斎した。

 元を辿れば、神道は社を持たず、山そのものが神の住まう社で、里の桜が「サ=田、クラ=神の宿るモノ」であって、里の宮だった。神職という職種が生れ、山中で修行するようになると、その場所が本宮として社殿を構え、さらに里の宮が整備されてここにも社殿が置かれるようになった。そして、いつしか山中に篭る修行が省略されて、里の宮が山の神、水分神を奉斎する場所として大規模化、様式化されていった。

 一方で、山の神と共に冬場に山に篭って修行するプリミティヴなスタイルは修験道として受け継がれていった。

画像2

画像3

修験道

 拙著『レイラインハンター』の冒頭では、ぼくが高校時代に登山をはじめ、山中で不思議な体験をしたことから修験道に興味を持った経緯を紹介した。

 1週間も10日もキャンプしながら山を縦走していると、ある場所では何故か元気が漲るような気がして、ある場所では逆に力が吸い取られるような気がするといったことを経験する。はじめは、その時々の体調や精神状態のせいだろうと思っていたが、何度か同じコースを辿るうちに、特定の場所で、毎回、同じような気分になることに気づいた。さらにパーティのときは、程度の差こそあれ、パーティの全員がほぼ同じような印象を持つことがわかった。そして、そんな場所には、決まって小さな祠が置かれていたり、誰かが篭っていたような痕跡の残る石室があった。その祠や石室が修験道に関係することを知り、修験道の世界に踏み込むことなった。

 修験道は、ぼくが縦走登山を通して感じた土地が持つある種の力と、それが人間の心身に与える影響を経験的に熟知していて、その場に合わせた修行のシステムが出来上がっている。山中で過酷な肉体修行をすることによって心身を浄化し、五感、六感を研ぎ澄ます。さらに、山に宿る神と自身が同化していくイメージを何千回、何万回も反復することによって、そのイメージを強化していく。こうした肉体と精神の過程が「祈り」そのものであるといえる。修験道にとっての祈りは、神仏に何事かを願うことではなく、自らが神仏そのものになるための過程だといえる。空海が定義した「即身成仏」は、まさにそんなコンテクストの祈りであるといっていいだろう。

 中世の頃に体系化された修験道の正式な修行では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、声聞、縁覚、菩薩、仏、と人間が成仏に至るまでの段階を一つ一つ経験することで、生きながら仏となり(即身成仏)、山の神霊と同化するとされる。

 修験道で経験するそれぞれの段階に割り当てられた場所こそが、ぼくが山で感じた力が漲る場所や力を吸い取られる場所だった。

 比叡山の千日回峰も修験修行と同じで、山岳抖そうと呼ばれる山をひたすら走る修行を元にした、忘我の境地に至り、即身成仏を図る修行だ。

 第三代天台座主円仁(慈覚大師 794 – 864)は、唐の五台山で修行し、彼がもたらした抖そう行を元に、弟子の相応が比叡山の自然条件に見合う形にアレンジして、千日回峰行が創始された。

 千日回峰行は千日間ぶっ続けで山を走るわけではなく、7年間をかけて、途中に適度なブランクを設けてトータルで千日間決められたコースを走るシステムとなっている。といっても、それが過酷を極める修行であることは間違いない。

 はじめの3年間は年間百日、毎夜30kmのコースを駆ける。この百日間は雨が降ろうが嵐になろうが中断することは許されない。4年目と5年目は、年間二百日となる。そして、5年目の回峰を終えると、堂に篭って不眠不休、断食しながら十万遍の真言を唱える。これを堂入という。6年目は倍の60kmのコースを百日間、7年目は二百日間駆ける。この最後の二百日を「京都大廻り」というが、これを達成するとすぐに再び堂入りし、今度は9日間に渡って断食しながら護摩を焚く。ここまで達成して、ようやく千日回峰が成就する。千日回峰行を成就した僧は「当行満阿闍梨」と呼ばれ、いつでも土足で宮中に参内することが許されたという。

 千日回峰行の舞台となる比叡山では、木々も石ころもすべて仏の化身であり、その自然世界の中で、長期に渡って駆けることで心を無にして、自身も木々や石ころに同化することを目指すのだという。

 最近では、トレイルランニングや山岳マラソンが人気を集めているが、軽装備で山野を駆け抜けるには、自分がまさに木々や石と同化するような感覚が必要になってくる。重装備の登山では、足運びはあくまでも慎重に、重い登山靴を安定した足場となる石の上にフラットに置くことを意識して歩くが、スピードのあるトレイルランニングではそんな悠長なことはやっていられないので、足裏にまで感覚を行き渡らせ、瞬時に安全な足場を選んで、進んでいかなければならない。普通では考えられない距離を、しかも起伏の多い山の中を駆け抜けていくうちに、ランナーは修験道や千日回峰行と同じ境地に達しているのかもしれない。

画像4

画像5

山の神秘体験

 本格的な修験の修行をしなくても、またトレイルランニングに没頭しなくても、山は日常ではありえない「神秘体験」をもたらしてくれる。

 ぼくが修験に興味を持つきっかけとなった、場所に固有の雰囲気を感じ取れることもそうだし、もっと具体的な現象として立ち現れることもある。

 たとえば、頂上近くで賑やかな人の話し声が聞こえてくるので、「平日なのに、けっこう登山者がいるんだな」と思いながら登って行くと、そこには誰もいない。天候の急変や、落石などを理屈では説明できない感覚的に察知することもある。そういったことは、登山者なら、とくにソロで何度も山に登り、山でキャンプしたことのある人なら、多かれ少なかれ経験があるはずだ。

 あるとき、何か得体の知れないものに感覚を狂わされたとしか思えない体験をしたことがあった。

 茨城県北部、福島県と境を接する奥久慈という山塊がある。袋田の滝を北端に南の男体山まで直線距離で10kmあまり、標高は1000mに満たないが、山襞が深く広く、深山の雰囲気の濃いコースになっている。そこは、高校1年のときに登山経験をスタートさせたところであり、しつこいほど足を運んだコースだった。

 高校2年の春休み、いつものようにバスと電車を乗り継いで、男体山側から入山した。

 この日は春には珍しい抜けるような青空が広がり、初夏のような陽気で、気分も足取りも軽く爽やかなトレッキングが楽しめそうだった。

 このコースは、一本のトレースが南北を貫き、ミスコースするような場所はない。なにより、何度も辿っているので、地図を見なくても自分がどこを歩いているのか手に取るようにわかっていた。コース序盤の急登を登りきり、男体山の頂上で少し休憩した後、アップダウンを繰り返しながら、順調に北へと向かっていた。

 いくつかのピークを過ぎ、深い樹林の中の峠に出たとき、違和感を持った。たしか、20分くらい前にここを通り過ぎたような気がしたのだ。だが、そのときは、歩き慣れたコースで、あまり周囲の景色などに注意を払わずに歩いていたから、他の同じような場所をここだと勘違いしたのだと思った。そして念のために峠の隅、急坂のたもとにある小さな祠の前の地面に、枯れ枝を拾って目立つバツ印を記し、再び歩き始めた。

 それからまた20分ほどして、樹林の中の峠に出た。そこは、20分前に通りすぎたあの場所だった。祠の前には、さっき描いたバツ印がある。

 さすがに一瞬総毛立ち、動悸が高まって、この場を走って逃げたくなった。だが、それをすれば取り返しのつかないパニックに自分を追い込むことになるのもわかっていた。

 何度も深呼吸をして、なんとか動悸を鎮め、自分が辿ったコースを思い返してみる。

 途中に枝分かれしているようなバリエーションルートはないし、太陽はずっと背後にあったから、どこかで逆戻りしているはずもない。

 広い尾根や高原状のところで濃いガスに包まれると、方向を見失い、大きな円を描いて同じ場所を巡ってしまう「リングワンデリング」という現象があるが、このコース全般にそんな広い場所はないし、まして目の覚めるような晴天で、見当識が狂う要素もない。

 そんな場面に置かれて、ぼくは祖母の言葉を思い出した。

 山へ出かけるぼくのために、まだ深夜のうちに起きて米を炊き、おにぎりを握ってくれた祖母は、おにぎりとは別に、ホイルに包んだ梅干しを手渡して、いつも言った。

「山で霧に巻かれたり、狐に化かされそうになったときは、慌てず腰を落ち着けて、梅干しを噛むといいんだよ」と。

 うす気味が悪いのを我慢して、祠の前に腰を下ろし、祖母が手渡してくれた梅干しを一つ、口の中に放り込んだ。明治生まれの祖母が手作りした梅干しは、今の市販品のように上品なものではなく、口が曲がりそうに塩辛く酸っぱかった。だが、この梅干しのおかげで、まさに憑きものが取れたようにすっきりした。

 祠に一礼して、また出発すると、今度は同じ場所に戻ることはなかった。

 今思えば、上州赤城山の麓に生まれた祖母は、鍛冶屋で山師でもあった祖母の父親から、山の神秘について教えられていたのかもしれない。民俗学的に見れば、鍛冶屋は元々、人知れない山中で鉄を鋳ていたことから、山のことを熟知していたとされる。

 余談はさておき、その後も山で同じような不思議な体験をしているが、いつのまにか、そうした体験も含めて、それが「自然」なのだと思えるようになっていた。

 目に見える自然、理屈でわかる自然だけでなく、その裏側に感じることしかできない自然がある。それは、里や都会にあっては滅多に体感できないが、山に入れば誰でも感じられる。

 一時期の中高年百名山ブームが沈静化し、登山人口は下降線をたどっていたが、数年前の山ガールブームからまた持ちかえしている。

 百名山ブームでは、単なる記録主義の底の浅い暇つぶし程度のメンタリティーしか感じられなかったが、若い女性たちが山に向かいはじめた今は、もっと根源的なものを感覚的に求めているように思える。「山ガール」といういかにも軽薄な言葉から始まったにせよ、実際に山へ足を運び、自然に浸る女性たちは、自然が見せ感じさせてくれるものをしっかり自分の感性で受け止めようとしている。

 社会が物質文明を追求しすぎて袋小路に迷い込み、先がまったく見えなくなった。さらに、3.11によって自然の秘めた力が顕になって、現代文明も自然の本当の力の前では無力なのが露呈して、人は、自分たちも自然の一部であり、自然との繋がりを取り戻さなければならないと気づいた。一時期お題目のように唱えられた「自然に還れ」という言葉は、まだどこか人と自然との間に壁があることを感じさせたが、今度は、ほんとうの意味で、修験道の修行僧が全身全霊をかけて自然に回帰しようとするように、自然の摂理の中に、自ら含まれようという意識が芽生えはじめているのかもしれない。


自然との合一

 かつては、山は神々の領域であり、さらに神に仕える神職や修験者だけが立ち入ることを許された場所だった。それ以外に、マタギや木地師、タタラ製鉄に関わる者たちなども山を渡り歩いたが、彼らは里の者からは「鬼」や「化外」のものとされた。神の領域に分け入って、そこを仕事や生活の場とし、時々、里へ降りてくる彼らが、里人には信じがたい超人に見え、畏れの気持ちを喚起したのだろう。

 今では、山はとても身近な存在で、誰もが、かつての神の領域に立ち入り、広大な風景の中に自分を置くことができるようになった。

 山で陽の光や風を肌で感じ、清冽な雪解け水を味わえば、それだけで心身は浄化される。そして、山の頂からミニチュアのような都会を一望すれば、普段、自分が生活している世界がいかに狭く窮屈なのかがわかる。

 そして、単に風景が広がることによる開放感だけでなく、自分という存在が、巨大な自然のスケールでは砂粒一粒と変わらない大きさでしかないことに気づかされる。それは、「心地良い諦念」とでも言ったらいいような感覚をもたらす。人間なんて、大きな自然の中ではほんとうに卑小な存在に過ぎない。でも、自分もこの自然に含まれている一つの造物であり、動物も鳥も木々も石ころも、すべて同列のものなのだ。

 千日回峰行では、聖地である比叡山では木々も石コロも仏の化身であるとして、自らもその内へ入り込もうと過酷な行を行う。それとまったく同じ境地には至らないかもしれないが、自然の中に身を置いたとき、誰しも千日回峰行者の境地の階を掴むことはできる。

 また、この世のものは千変万化し、何ものも一瞬たりともとどまっていないことを、流れる雲が教えてくれる。山の頂に立った自分の頭上を流れる雲は、同じ姿をとどめることなく、常に変化していく。谷間で生まれた雲が、上昇気流に運ばれて稜線を越え、空へと上り、発達しながらさらに高空へと向かう。そして上層の気流によって吹き散らされて消えていく。人の人生もこの雲と同じものなのだと、しみじみと思う。

 幾度かWEBのコラムなどで書いているが、子供の頃から何度も白昼夢のように見てきた自分の最期のイメージがある。

 360度、遮るものの何もない草原に一人立っている。何の感情もなく、ただ、自分はこの風景なのだといううっすらとした意識だけがある。すると、どからともなく風が吹いてきて、周囲の草を揺らす。風は次第に強まり、ぼくを渦巻きの中心に捕え、草原中の草を一斉に靡かせる。その瞬間、時間が止まり、すべての動きが凍りつく。

 気がつくと、ぼくの意識だけが体から抜けだして宙にあって、草原にいる自分を見下ろしている。そして、眼下の自分は、再び巻き起こった風の中で、一瞬にして風化し、細かい砂となって風に吹き飛ばされていく。後には、ただ風が揺れる草原だけがある。

 そのイメージを思い浮かべると、何故かとても落ち着いた気分になる。
 山に篭もり、厳しい修行を積んで、山の神霊と同化しようとした修験者たちも、同じような感覚を抱いていたのではないかと思う。

-----------------------------------------
行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
玉しき都の中に、むねをならべいらかをあらそへる、
たかきいやしき人のすまひは、代々を経て盡きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
或いはこぞ破れてことしは造り、あるいは大家ほろびて小家となる。
住む人もこれにおなじ。
所もかはらず、人も多かれど、
いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
あしたに死し、ゆふべに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。
又知らず、かりのやどり、誰が為に心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。
そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはば朝顔の露にことならず。
或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。
『方丈記』冒頭
-----------------------------------------

 どんなに修行を積んだ行者であろうと、生まれ死んでいく運命からは逃れることができない。しかし、膨大な時間の流れの中に浮かび上がった小さな取るに足らない泡だとしても、それはまぎれもなく流れを形作るものの一つであり大きな流れそのものでもあるのだ。

 そんな理解=境地に至ることが、祈りの本質なのかもしれない。

 そして、大きな自然と長い時間の流れの中で自分の存在位置を確かめ、「利己」ではなく「利他」の存在であるためにどうすればいいのかを深く内省すること、それが祈りの目的ではないだろうか。

画像6

画像7


■参考■

●比叡山延暦寺
 王城鎮護を目的に平安京の北東鬼門を封じる比叡山の山頂に伝教大師最澄が開く。千日回峰行は平安時代前期に相応が開始したと伝えられる。千日回峰行者は途中で行を続けられなくなった場合には自害するという覚悟で臨み、死出紐と呼ばれる麻紐と両刃の短剣を所持する。
 平安京の都市計画では、上賀茂神社、比叡山、鞍馬寺で結界を成している。これは、桓武天皇の実弟であり、悲運の生涯を終えた早良親王の怨霊を封じ込める意図がみえる。
・交通
 JR湖西線比叡山坂本駅から江若バスでケーブル坂本駅。坂本ケーブルで延暦寺駅、徒歩8分
 Jr京都駅・京阪三条駅・京阪出町柳駅より比叡山頂行きバス、延暦寺バスセンター


 
あとがき

 『祈りの風景』の連載をはじめた1年前、漠然と、最終章は東北にしようと思った。

 一年経てば津波の被災地もある程度落ち着き、原子力災害も完全収束とまではいかないまでも、汚染地域をどうするかという具体的なロードマップができ、さらに社会全体が脱原発へとシフトして、自然エネルギー技術を軸にした新しい産業が日本経済再建のきっかけになっているだろうと見通していた。その頃には、東北の被災者の心にも余裕ができ、自分たちに地震と津波をもたらした自然と素直に向かい合っているだろう。そして、新たな人と自然との関係から独自の祈りの風景が生み出されているはずだ。それを取材し、最終章に当てたいと考えていた。

 だが、実際に一年が経った今、実情はそんな見通しからはほど遠い。

 かつて、人間は、大地の底に眠る龍や大鯰がときどき身をくねらせるために地震が起こり、津波をもたらすと考えていた。もちろん本物の龍や大鯰がいると本気で思っていたわけではなく、大地が秘めた破壊的な力を想像の怪物にたとえたのだ。

 自分たちは龍や大鯰の上に暮らしていて、この怪物が気まぐれに目を覚ませば、それまでの生活は全て破壊されてしまうことを自覚していた。そんな自覚をもって生活しているからこそ、自然への畏敬を忘れず、たまに訪れるカタストロフィを受け入れることができた。そして、カタストロフィの後はすぐに気持ちを入れ替えて生活の再建に向かっていくことができた。

 ところが、いつの間にか人間は、自然を手なずけ制御できるものだと勘違いし、龍や大鯰を恐れなくなっていた。そして、いざ3.11というカタストロフィに見舞われると、為す術もなくうろたえ、挙句に「想定外」という言葉に全てを放り込み、責任や今後の社会を立て直す方向性を考えることを放棄して、思考停止に陥ってしまった。

 原発は再起動し、被災地の人たちは棄民され、まるで何事もなかったのように3.11以前の驕った社会に立ち戻ろうとしている。

 政治の無策や混迷を毎日見せつけられていると、暗澹たる気分に囚われてしまいそうになる。

 だが、そんな絶望的な状況にあっても、希望は被災地から生まれようとしている。

 陸前高田のある漁師が、瓦礫の散乱する港に立ち、3.11以前よりも澄んで青い海を見つめて言った。
「なんもかんも持って行かれっちまった。だけど、海が悪いわけではねえし、海を恨んだって始まらねえ。これからも俺たちは海に食わしてもらうしかねえんだ。さぁ、やり直しだ」

 彼が海と向き合う姿は、無垢の祈りそのものだった。東北人の心には、龍や大鯰と共生するという本来の心性が残っているのだと思った。

 政府がどんなに無策で、置き去りにされたとしても、古代からそんな経験を何度も乗り越えてきた東北人は、再び立ち上がり、3.11の教訓を生かして自然と人間が共生する新しい社会を作り上げていくだろう。これから、そんな東北とじっくり付き合い、東北の『祈りの風景』をまとめたいと思う。

-------------------------------------------
内田一成(うちだいっせい)
1961年茨城県生まれ。ライター。聖地研究家。
登山や辺境への旅を通じて、自然と人との関わりに興味を持ち、修験道やレイライン、聖地研究へと進む。GPSやデジタルマップといった先端機器を使用したフィールドワークを得意とし、その成果をWEBサイトや著作を通じて発表す。著書に『再見西域 –新疆シルクロード自動車旅行記--』(山海堂)、『レイラインハンター』(アールズ出版)などがある。『レイラインハンター内田一成の聖地学講座』をメールマガジン形式で発行中。『祈りの風景』は、WEBサイトで1年間にわたって連載した同名のエッセイを加筆再編集した。
http://www.ley-line.net
--------------------------------------------

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?