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『天と地のクラウディア』第1話

あらすじ
海沿いの街で生きるレグと、雲の上の街で生きるユーリは瓜二つの少年。
とある事件をきっかけに二人は間違えられて入れ替わり、それぞれお互いの街での生活が始まる。
雲の世界では人が当たり前のように空を飛んでいるが、地上で生きてきたレグは飛べるはずもなく、周りにも信じてもらえず地上に戻れない。
ユーリは地上で記憶を失っており、自らをレグだと思って生活が始まっていた。
それぞれの街の人との触れ合いで、二人は徐々にこの世界の全てを知っていく。
きっかけになった事件はこの世界の可能性を孕んでいて、レグとユーリ自身にもとある秘密があった。
天と地で交錯する物語。
異なる世界で生きる人々が交流を始めるまでの、始祖の話。

一 空を見上げる者

 空は儚い。
 刹那的で、どこか愛おしい。
 同じ空は、二度と見られないから――。

 それは物心ついた時から十数年間、空を眺め続けてきた僕の経験則からの想いだった。気が付けば雲が動いて、色が変わって、季節が流れ、空の顔は絶えず移ろう。そんな空が、僕はずっと好きだった。

 刹那的なものは、いつだって美しい。

「晴れた。予想的中だ」

 天気予測の的中率がいよいよ上がってきた僕は上機嫌で家を出ると、一目散に海辺へと駆け出した。目覚めのよい身体に朝の光を存分に当てて、叫びだしたくなる衝動のような気分を抱えたまま走る。走る。

 やがて、視界に青が飛び込んできた。僕は少しずつ速度を緩める。

 頭上には雲ひとつない蒼天が広がっていた。
 眼前には、青さで空に対抗するかのような紺碧の海原が佇んでいた。

 僕はまだ熱のない砂を踏みしめて、波打ち際までゆっくりと近付く。よく晴れた日に、こうして視界のほとんどを圧倒的な青で染められるこの景色は僕のお気に入りだった。

 空が好きなのだろうか、空の青が好きなのだろうか。
 この時ばかりは、それがよくわからなくなる。

「空が好きだ」

 口に出してみると、途端に陳腐な響きになる。波が足元を行ったり来たりしている。

 どうして、と僕は心の中で呟いた。陸は歩くことができる。さっきみたいに走ることもできる。海だって泳ぐことができる。なのに、どうして――。

 ぼんやりと、水平線を眺めてみた。空と海の境界線。見えそうで見えない、そのずっと先の世界。遠くで鳥がゆったりとスローモーションのように飛んでいる。

 僕は視界の青に問いかけた。

 どうして、人は空を飛ぶことができないのだろう。

「やっぱり、ここにいた」

 背後から波の音に消えそうな声がした。小さくも凛とした声。振り向くと、不機嫌そうな顔をした女の子が肩にかかる黒髪を海風になびかせていた。

「おはようリザミア。なあ聞いてくれよ」
「聞いているわ」
「晴れたよ、今日」
「見ればわかるじゃない」

 僕は髪を押さえるリザミアの方へ近づきながら興奮気味にまくしたてる。

「予想が的中したんだ! これで的中記録がさらに更新したよ。大人たちは天気予想なんて嵐の日ぐらいしか必要ないって言うけど、きっと予想できるならできるで便利だと思うんだ。第一、未来のことがわかるってすごくないか?」
「すごいね」
「もうちょっとすごそうに言えない?」

 リザミアは何も答えなかった。僕と海にくるりと背を向けると、小さな声で行くよ、とだけ言って歩き出す。僕は足元で蠢く波の打ち際から離れ、慌てて彼女の後を追った。

「今日ってみんな集まっているんだっけ」
「前日だからみんなで準備してるよ。いないのはレグだけ」
「みんないるのか……」
「何が嫌なの? むしろあなたが遅刻しているぐらいなのに」
「いや、ほら、リザミアも知ってるだろ? この町に初めて学校っていうのができることを知った時に始まった論争……」
「空か海かってやつ? 教われるならどっちでもいいのに」

 リザミアは心底興味なさそうに言い放った。心なしか歩く速度が少し上がった気がする。

「そもそも何を教わるかなんていうのは、先生が決めることなのよ」

 彼女は物知りだった。
 空に関してならこの町で僕に敵う人はいないけれど、総合的な知識力としてはリザミアには歯が立たなかった。

 父親の仕事で離れた都会の町へ連れて行ってもらうことが多いらしく、そこで様々なことを見聞きしてくるのだという。
 まだまだ都会と地方の情報や文化の差が見受けられるのは、国の大きな課題の一つだと町のお偉いさんは言っているが、あまり詳しいことは僕にはさっぱりわからない。文化がどうとかはともかく、僕は自分の好奇心に従順でいられる今の生活に充足感を感じているのだ。

 かくいう僕は、この町で一般的な仕事である商売や農作をしている親の元に生まれていて、そういう人間が人口の大半を占めている。

 そんな海沿いの小さな町に、学校ができると聞いたのはつい先日の出来事だった。

 突然大人たちが集まり、広い土地で何やら建物を造っていて、何事かとリザミアに問いかけるとそのような答えが返ってきた。

「おう、レグ・シェイルド。こんな時間にやってくるとは偉くなったな。明日からいよいよ最先端の知識が手に入るというのに、お前は学びたい姿勢が足りないのではないか?」

 明日から学校となる平屋の建物に入ると、二十人ほどの子どもたちが木の机や椅子などを並べていた。僕もどちらかというと子どもに分類されるが、ここにいる子たちは僕より年下の子ばかりだった。そんな中、希少な僕と同年代の丸っこい男が暑苦しく僕に絡みついてきた。

「毎朝空の観察は日課なんだよ。毎日学びまくってる」
「もう、いいから二人とも、さっさと働いて」

 リザミアっぽい声が聞こえたけれど、右から入って左に抜けていった。僕は一歩踏み出してカロルと対峙する。

「学習をメインは空だ」
「何度言ってもわからないやつだな。どこにでもある空とは違う、この町だからこそ海を知ることに価値があるのだ」
「どこにでもあるってなんだよ! 同じ空は一つとしてないんだぞ、お前はほんと空のこと何も知らないんだな」
「知ってどうなる! お前はこの地の人として誇りはないのか、海の町としての矜持が!」
「海の町なんて、他にも似た町はいくらでもあるだろうに」
「相変わらず口だけは達者だな」
「それは自分のことを言っているのか? ほら、リザミアもこのバカに何か言ってやってくれ……」

 振り向いた僕の表情が固まったのは、リザミアの冷めた薄い笑みが目に入ったからだった。目は全く笑っておらず、口の端をほんの少し吊り上げていた。

 僕とカロルは知っている。これでも同郷の同年代だ。幼い頃から、いつだって僕たちより少し大人に近かったリザミアはよくこんな顔をしていた。

「来たばっかりで悪いけど、あなたたち、帰る?」

 僕とカロルは打って変わって仲良く同時に頭を下げた。

「あれ? 入り口のところ雑草が多いよね。せっかくはるばる都会から来る先生に見苦しいところは極力見せたくないな……」

 一転して、リザミアの間延びした声が僕とカロルの下げた頭に浴びせられた。顔を上げると、僕は冷めた視線で見据えられている。つまり、謝るぐらいなら態度で示せ、と言っているのだと思う。これぐらいの意思疎通なら、言葉はなくとも間違えることはない。

 普段滅多に見せない口元だけの笑みとか、わざとらしい言葉遣いとか、そのあとなぜか僕だけに向けられた槍みたいな鋭い視線とか、それだけで本当に突き刺さるように思いが伝わってくる。

 僕たちは仲良く足並みを揃えて外へと向かった。しばらくはこの教室と呼ばれる部屋には戻らない方が良さそうだった。

「貴様のせいだぞレグ、面倒事が増え……」
「まだ黙ってろ。聞こえるぞ」

 踏み込むたびに響く木の床の軋む音から逃れるように、早足で室内を後にする。

 やがて外に出ると、僕たちの心と正反対みたいな晴れ渡る空が出迎えてくれた。清々しい陽気の下、僕がさっとしゃがみこむとカロルもすぐ隣に腰を下ろした。

「もう少し離れろよ。効率的じゃないだろ」
「この場所を二倍の速度で終わらせれば良いではないか」

 僕たちは互いに一本雑草を抜くと、途端に話すことがなくなり黙々と作業を始めた。

 先ほどまで居た教室の窓から、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。リザミアは僕やカロルだけでなく子どもの扱いも上手だから、微妙に年頃の違う子どもたちも手際よくまとめているのだろう。

 それにしても、と青空を見上げて思う。

 学校で物事を教わるようになったら、僕は、僕の知識は、どう変わるのだろうか、と。
 小さな雲が一つ流れていた。それを目で追いながら、ぼんやり考えにふける。

 僕は空が好きで、幼い頃から空について知ろうとしてきた。大人の知識は役に立ったけど、それも最初の頃だけだった。空を見れば天気がわかるのに、この町には特に知る必要がないと研究してこなかった大人ばかりだった。
 僕は一人、空を知りたくてずっと見続けてきた。現にいろんな発見があった。この町の大人よりもよっぽどたくさんの空を知っていた。

 だがそれは、都会の方ではすでに解明されていることなのだろうか。広く知れ渡っていることなのだろうか。僕の知ってきた全ての空は、先生に教わるだけで簡単に手に入ってしまうのではないだろうか――。

 取り留めのない、混沌とした不安のような思いが血のように身体中を巡る。

 ぶち、と雑草を抜いて、また空を見上げた。でも、と空のそのずっと奥を見つめるように遠くを眺めて、僕は微笑みを湛える。

 楽しみだった。空のことをもっと知ることができる。知らないことが知らないほどあるということが新鮮だし、もしかすると先生も知らないような僕だけの知識もあるかもしれない。リザミアが時たま都会の街から持ってきてくれる書物からも知識を得ていたし、この町で最も空を見てきたのはこの僕だ。

 これ以上空の何を知ることができるのか、僕は楽しみで仕方がなかった。

 カロルも海という点が違うだけで、心持ちは同じなのかもしれない、と彼の丸い横顔を窺うと、不意にこちらを向いてきて目が合った。

「……何」
「暑くなってきた。レグ、雲を出せ」
「バカかお前は。天気予想はできても天気を操れる人間なんているか」

 都会では操ることもできるのだろうか。いや、さすがにそれはないだろうけれど。

 ぶち、と再び雑草を抜くと、今さっきまで何を考えていたのかよくわからなくなってしまった。柄にもなくややこしいことに考えを巡らせていたらしい。思考にまとまりがなくなって、ばらばらと脳内に散らばっていくような感覚。

 まあいいか、と能天気に思う。今僕が何を考えどう足掻こうと、このもやもやした何かを明確に把握できるわけでもないし、未来なんてものはやって来るまでわからない。

 世界は急に変わったりしないし、空模様だってそんなに突然変わったりはしない。
 明日になれば全てわかる。知らないことは教えてもらえるし、知っていることはきっと別の応用に繋がる。

 僕は空が好きだ。それだけは、いつまでも変わらない。

 十分だった。明日を迎えるにあたって、その思いだけで十分だと思った。

 腕で汗を拭いもう一度空を見上げる。吸い込まれるような青の中を自由に飛び回ることができるなら、どんな気分なのだろう、と。

 そんな夢みたいな妄想に浸りながら、僕は再び雑草を抜く。

 空を飛べたら、と僕は語る。
 夢物語だと、よく呆れられた。そんな夢みたいな話、とよく馬鹿にされた――。

 僕は時折、同じ夢を見る。

 気付くと海の中にいる。空ではなく、別の青の中にいる。溺れる、と感じた瞬間、僕はなぜだか全身の力を抜いて海水の中を漂い始める。目を開けても何も見えなかった。どうしてか今が夜ということは知っていた。でも自分が海面と海底のどちらを向いているのかはわからなかった。

 僕は誰かの名を呟いた。僕は空が好きなはずなのに、海の中で、誰かもわからない誰かの名を思った。

 そこで視界は変わり、次に目に飛び込んできたのは、満天の星空。月のない、静かな夜空だった。仰向けに倒れ込んだ僕は、星を一つずつ数えるかのようにぼんやりと眺めて、再び口を動かす。多分、誰かを呼んでいる。

 だが何を言ったのか、それはやはり僕にもわからない――。

 いつもそこで目が覚める。定期的に見る夢だから、最近では夢の中でこれは夢だと悟ることも増えてきた。それでも僕の見えるもの、そして決まって何かを呟くことは、まるで誰かに操られているかのように、何かの儀式のように、その都度必ず繰り返された。

「レグ! ねぇ聞いてる?」

 聞き慣れた凜とした声で、僕ははっと我に返った。机に肘をつき窓から見える青空をじっと眺めているうちに、意識が脳内へ飛んで行ってしまっていたようだ。

「ごめんリザミア。えっと、もう一回頼む」

 今日はなんだかぼーっとすることが多いな、とリザミアのぼやきを聞き流しながら陽炎みたいにぼんやり思う。

 辺りを見回すと、整然と並べられた机と椅子に、僕みたいな十と二十の間の、もうすぐ大人になるぐらいの子どもを始め、十にも満たない子と合わせて二十人ほどが着席していた。リザミアはまるで先生になったかのように皆の前に立ち、連絡事項を告げている。

「明日は今日と同じように集合するから遅れないでねって! 席順もこの通り。やって来る先生は一人で、しばらくみんな一緒に授業を受ける。先生の名前は……カロル」

 隣に座るカロルは突然の指名に狼狽えながらも、素早くリザミアの意向を汲み取った。

「え、ああ、おう、ターナイト先生だ。レグ、人の話も聞かないようではお前の望む授業なんぞ受けられ――」
「アイナちゃん」

 リザミアは早口でまくしたてるカロルの言葉を遮り、最近十一歳になったばかりの女の子の名を呼んだ。

「はい。ターネイド先生です」

 おかっぱ頭の彼女は真面目で、頭が良く飲み込みが早い。おそらくリザミアの後を継ぐように子どもたちの次世代を担う人材になり得る子だ。

 最後列の窓際に僕、その隣にカロルと並んで座らされていて、そこから最前列の中央ではきはきと答えるアイナを見ると、我ながらどっちが年上かわからなくなる。

「どっちが年上だか……」

 奇遇なことにリザミアも同じことを思っていたようだが、僕と違って口に出てしまっていた。

「馬鹿は放っておいて、ひとまず何の授業をするのか、何を教えてもらえるのかはターネイド先生次第だから、私たちはちゃんと真摯にいろんなことを吸収する姿勢を持っておくこと。みんないい?」

 真面目な返事と気だるげな返事が半々ぐらいの割合で聞こえ、リザミアは今日はこれで解散、準備お疲れ様、と場を締めた。皆ぞろぞろと席を立ち始める中、僕は頬杖をついて窓の外の空へと視線を移す。悩みなんて一つもないような透き通る青を見て、その色がほんの少し羨ましいような不思議な感覚を覚えた。

 日差しが強い。日中はすっかり気温の上がる季節になってきた。こういう時季は天気が急変しやすいので、事あるごとに空模様を窺っている。 しかし今日ばかりは、本当に雨の気配は感じられない。海の近くは少し風があったけれど、穏やかな日になりそうだった。

 ふと気配がして意識を前方へ戻すと、リザミアっぽい身体が机の前に立ちはだかっていた。視線を上げるとやはりリザミアだったが、ひどく感情のない顔で僕を見下ろしている。

 何か言いたいのかと思ってしばらく待っていたがただ見つめられているだけで、僕の頭上で高圧的な感覚が妙に増大していくだけだった。このまま押し潰されたくはなかったので、機嫌を損ねることでもしたかな、とすぐさま考えを巡らせたけれど、いかんせん心当たりが多すぎた。

「今日」
「え?」
「夜は晴れる?」
「今日は一日中快晴の予想だよ」
「風は強い?」
「海の近くなら、多分少し強い」

 ようやく話を始めてくれたのはいいが、何を聞きたいのか全然読めなかった。長年付き添っていても、リザミアのこういう無駄に遠回しな感じは未だにわからないところが多い。女の子だからだろうか、いやそれは関係ないか。

「今夜、浜辺に来て」

 浜辺は広いしいくつかあるが、僕たちの中ではだいたいの場所は決まっている。

「今夜って、いつぐらい?」
「この町が寝静まったぐらい」

 有無を言わさない空気に、僕はこくりと頷く。断る理由もないのでどのみち構わないのだが。

 リザミアはじゃあね、と踵を返し、姿勢良く歩いて教室を出て行った。残された僕は、同じく残っていたカロルと目を合わせる。

「なんだお前ら、夜中に密会か?」
「明日もし僕が学校に来なかったら、仕方ない、海の授業を存分に受けていいぞ」
「俺も行っていいかな」
「リザミアに何言われるかわからないからやめてくれ」

 僕たちは口々に馬鹿を言いながら立ち上がり、ようやく教室を後にした。

 軋む木の廊下を歩きながら、カロルの冗談にも空返事で別のことを思案する。

 こうしてリザミアに呼び出されるのは珍しいが、実を言うと心当たりはあった。おそらく彼女の用件はまた僕に資料を渡してくれることだ。リザミアの父親は大きな街へ仕事に行くことが多く、時にお土産を持って帰ってくることもある。そこで僕は、街の大きな図書館から書物を借りてきてほしいとリザミアからお願いしてもらって、時折リザミア伝いに借りている。

 無論それらは空に関することで、最新の情報や空の伝承など実に様々な資料を僕はありがたく読むことができているのだ。

 リザミアの父親が帰ってくるのが、確か今日の夜遅くだといつかリザミアは言っていた。それでわざわざ父親の帰宅後すぐに僕に渡してくれるのだろう。

 しかし、と外に出た僕は眩しい日差しに目を細めて思う。

 どうして今夜なのだろう。別に明日学校で渡してくれてもいいのに、何なら夜中に僕からリザミアの家にお邪魔してもいいぐらいだというのに、どうして何か急ぐようにして、しかも人気のない夜の海辺で、わざわざ書物を渡すためだけに――。

 何年経っても、いつまでたってもわからないことだってある。特にリザミアの心の内なんてものは、きっと空よりもずっと移ろいが激しくて、絶え間なく変化し続けている。

 理解したいとは思う。ただ、追っても追っても全てを知ることはできないことだけはわかっている。人の心なんて、知らなくてもいいことだってあるのかもしれない。そんな曖昧なものなのかもしれない。

 埒があかないことは考えても仕方がないので、僕はカロルとの会話に意識を戻すことにした。少し適当にあしらいすぎていたかと懸念したが、彼は特に何ということもなく話を続けていた。

「海の向こうには何があると思う、レグよ」
「海の向こう? 何も見えないけど」
「何を言っている、目に入るものなど所詮は瑣事だ。何があると思うか、お前の思うところを聞きたい」
「海の向こう、か……」

 カロルの丸い顔は無駄に神妙だった。海推しはどうにも解せないが、こうしていつだって好きなものと真摯に向き合う彼の態度は嫌いではない。

 僕は朝方立ち寄った海辺で目にした水平線を脳裏に思い起こしてみた。空の向こうに思いを馳せたことはあったが、海の向こうとそう大差ないような気がした。空と海は、もしかしたら遥か遠く、ずっと先のどこかで繋がっていたりするのだろうか。たどり着くその場所は、同じなのだろうか。

 海の向こうに何があるのか、僕はまだ知らない。何度か挑戦した人はいるそうだが、行けども行けども何も見当たらないらしい。

「他の国とかがあるのかなぁ、とは思う……けど」

 まるでこの世界に僕たちの住む大地以外には存在しないかのように、何もない。旅立ち無事帰還した人たちは皆そう言う。文献にも海より先についての記述はないが、今現在、この国の中心都市ではどこまで解明されているかはわからない。

「誰も見たことないらしいから、何もないかもしれない」

 明日、先生とそんな話もできたらいいかな、とこっそり思う。

 他の地はあるのか、そこに人は住んでいるのか、そんなことを知ることができるのも、考えてみるとなんだか魅力的に感じた。空と海の向こう、もしかすると最終的に僕とカロルの行き着くところが似たような場所であるのかもしれない。水平線のように、お互いに交わる時が来るのかもしれない。

「お前はいつでも堅物すぎる」

 と珍しく僕が親近感を湧かせた直後、カロルは空を見上げて、不満げな独り言みたいな感じで言った。眩しそうに小さな目を細めて、また誰にともなく呟く。

「空もいいが、もう少し夢を見てはどうだ」
「……夢」
「空のメカニズムを解いて明日の天気を知るのもいいが、そうじゃない見方もだな、身につけられるぞ。俺みたいに」

 僕はカロルと同じように青空を振り仰いだ。
 視線の先には、ただひたすらに青が広がっている。

「ロマンだ、ロマン」
「……ロマン」
「例えばこの青の向こうに何があるとか」

 おお、と思った。それはなかなかに面白い視点だった。海の青の先も、ほんの少しだけ気になった。

「晴れとか雨とか、空の様子ばかり気にしていては、本当の空は見えないぞ」
「……本当の空ってなんだよ」

 言いながら、僕は危うくカロルの言葉に得心がいってしまいそうになっていた。

「俺たちは似ているのかもしれないな、レグよ」

 今日のカロルはどこか饒舌だった。明日の学校がそんなにも楽しみなのだろうか。

「お前は時たま空を飛べたらと嘆くが、俺だって、息継ぎなしに海へ潜ることができたならと、常に感じているのだ」

 空を飛ぶ。海に、潜る――。
 不意に、僕の脳裏によく見る夢の光景がちらついた。

「俺たちは似ているかもしれない」

 カロルはもう一度、さっきよりもきっぱりと言い切った。

「空を飛べたら、どこまでも高く遠くへ行ける。水中で息ができたら、どこまでも深くへと行ける。これで海をより知ることができる。表面しか見えない海を、決して深奥をこの目で見ることのできない海を、心ゆくまで溺れる心配をせずに……ああ、すまない」

 再び熱弁が始まろうとしたタイミングで、カロルは自らその勢いを止めるように詫びを挟んだ。随分と不自然な話の切り方になっていたが、僕は至って冷静に、大丈夫だ、いつまでも気にしなくていい、と返す。

 途端にカロルは押し黙ってしまった。歩く僕らの頼りない足音と、遠くで大人たちの商売の声が聞こえる。居心地の悪い沈黙が身体にまとわりつく。僕はまるで貼りついてしまったかのような上下の唇を少々強引に開いた。

「自分で言って勝手に意気消沈するなよ。いつも言ってるだろう」

 カロルが柄にもなく僕に歩み寄ろうとしているような発言をするのも、僕が草抜きの間ぐるぐると考えていたように、何か彼なりに思案を巡らせ思うところがあったのだろう。

 カロルのことは苦手だが、嫌いではない。幼い頃からリザミアと三人で一緒に育ってきたのだ。嫌いならこんな年まで一緒にはいない。それこそ記憶のないほど、ずっとずっと、昔からの――。

「僕の五才以前の記憶なんて、今更なくてもなんら問題ないんだから、って」

 自分の最も古い記憶は、いくつの時のものだろう。

 人によってそれぞれあると思う。物心のつくもっと前、何を考えているのか自分でも理解できなかったぐらい幼い頃の、記憶。

 僕の最古の記憶は、あまりに鮮明なものだった。五才の頃、海辺で倒れていたあの瞬間は、幼少ながら忘れることはできない。

 同じく小さなリザミアが珍しく馬鹿みたいに泣き喚いて、何度も何度も僕の名を呼んでいた。いち早く駆けつけたらしいリザミアの父親が意識の戻った僕を抱え上げ、不安げな僕の両親に安心させるように話しかけている。僕の最古の記憶は、そのような海で溺れて助けられた後の光景だった。

 今になっても時たま見る夢は、その時溺れていた時の状態だったようにも思う。しかし不思議なことに、僕はなぜ溺れていたのか、溺れる前に何をしていたのかということだけでなく、リザミアの顔、名前はおろか、僕自身が何者であるかすら思い出せないでいた。

 いわゆる記憶喪失だ、ということだけは幼心にも理解できた。

 リザミアもカロルも、両親も周囲の人も皆、優しく接してくれた。記憶をなくした僕に以前の状態を無理なく教えてくれて、少しずつ馴染めるように考えてくれて、僕はいつの間にか記憶をなくしたことも忘れてしまいそうなほど幸せな環境の下で暮らしていた。

 幸いと言えば良いのか、当時五才だった僕が今現在持ち合わせている記憶は、その後のものが大半になる。未だにカロルのように気にかけてくれる人は何人かいるが、今となっては本当に何の問題もなく日常を過ごせているのだ。

「リザミア……」

 生温かい海風は砂浜に降り立った僕の身体を撫で、背後の小高い丘を上っていった。天気の次は風も予想できないだろうか、などと考えながら、暗い波打ち際に立つリザミアの元へと近づく。

「リザミア」

 もう一度名前を呼ぶと、彼女は風になびく髪を片手で押さえて振り向いた。この夜更けでは、リザミアの髪は闇のように真っ黒に見えた。

 リザミアは髪を押さえていないもう片方の手を僕に差し出した。その手に握られていたのは、薄い書物だった。

「ごめんね、こんな遅くに」

「リザミアの父さん、帰り遅かったんだろ。別に大丈夫だよ」

 用件は予想通りだったが、しかし相変わらず意図は全くわからないままだった。リザミアから薄い書物を受け取った僕は、さてどう切り出したものかと俄かに心の据わりが悪くなる。

 一方リザミアはというと、用事は済んだろうに再び顔を暗黒の海原へと向け、見えもしない水平線をじっと見つめていた。今夜は風が強いが、天気はやはりよかった。雲一つない頭上には、満天の星空が僕たちを覆うように広がっていた。

「時間、まだ大丈夫?」

 波の音を縫うようにしてリザミアの声が届いた。珍しくか細い響きのようにも聴こえる。大丈夫だけど朝寝坊したら起こしに来てくれよ、と返したがリザミアは笑うどころか微動だにしなかった。

 さすがに僕も真顔になって、リザミアに真っ直ぐ向き合う。

「何か、訊きたいことがあるのか?」

 単刀直入に切り込んだ。リザミア相手に今更遠回しに詮索する必要はない。当の彼女はやけに焦れったいが、僕は構わず言い寄り続ける。

「何を気に留めることがあるんだ。今更気を遣うことなんてないし、何でも言ってくれて大丈夫だから」
「……笑わないで聞いてね」
「それは保証できないかな」
「私、真剣だから」

 すでにひしひしと伝わってきている。思い詰めていることがどのようなことなのかわからないが、聞いてみないことには何も始まらない。

 リザミアは再び夜の海へと向き直った。そうして、僕に背を向けたまま、海にでも問うように静かに言った。

「人って、空を飛べると思う?」

↓第2話


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