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『天と地のクラウディア』第14話

 帰ってきたのは、すっかり日が暮れた頃だった。
 アイナを家まで送り届けた俺とリザミアは、シャーリー観光の感想を言い合いながら家路についた。美味しかった食べ物とか、見て驚いた建物。初めて知ったこと。思い返せば、なんだかんだ言って思いの外楽しんでいたのかもしれなかった。

「結局、何か思い出したことはあった?」
「リザミアには本っ当に悪いけど、全くなかった」
「そう。まあダメで元々だったし、むしろあちこち連れ回して、こっちこそごめんね」
「いやいや、それはそれですごく楽しかったぞ」
「本当に?」
「これが嘘をついている目に見えるか?」

 視線を足元の地面から俺の目に移した途端、リザミアはふふっと噴き出すように小さく笑った。最近よく笑ってくれるな、と、とてもじゃないが口に出せないようなことを思う。結局、笑っただけでその後に続く言葉はなかった。

 頭上では多くの星が瞬いていた。夜も元気な街のシャーリーでは見られない景色だった。俺たちは静かに夜の中を歩く。風がひんやりして気持ちがいい。夜は好きだった。静かで、落ち着いていて、なぜだか安心する。言葉では言い表せないような、不思議な安心感がある。

 空を飛びたいな、と思うのは、なんとなく夜だった。

「なあ、リザミア」

 改めて呼ぶと、こちらも向かずすぐに返事が来る。

「なに?」

 思わず次の言葉に詰まったが、一瞬の間で小さな勇気を振り絞る。

「俺が倒れていた日の前夜のこと……」

 それは単なる思い付きだった。流れ星みたいな、唐突な思いだった。

「再現してくれないか?」

 断られるかな、と思ったのも束の間、返事はやはり一瞬後だった。

「いいよ」

 気が付けば、リザミアはこちらを向いて立ち止まっていた。

 そうして、闇の先を睨むように、リザミアの家とは別の方向を見やる。

「じゃあ、行こう」
「どこへ?」
「海」

 ごく短い、夜に相応しい静かな返答だった。歩く方向を変えて颯爽と進む彼女の背中に、俺は小さく礼を言うことしかできなかった。リザミアにとって、あまり思い出したくない過去に違いないだろうに、と自ら提案したくせに気を揉んでしまう。

 しばらく無言のままリザミアについて行くと、やがて微かな波の音が耳に入ってきた。

 ほんの少し高い丘を上りきると、闇の中で生き物みたいに波がうねっていた。巨大な闇の中でも、そこに海があると確かにわかるのは、月が水面に反射して波に沿っていびつな形で映っていたからだ。

 丘を下り、踏みしめる地面が土から砂に変わったのと同時に、リザミアは口を開いた。

「あの夜は、レグとここで待ち合わせしていたの」
「夜に?」
「そう。誰にも聞かれたくなかったし、空を飛ぶなんて話をしたらレグが大騒ぎして昼間だと誰かの目に付きそうだったから」
「大騒ぎ? 俺が?」

 リザミアは小さく頷いた。海風に髪があおられ、それを押さえる仕草に少しどきっとしてしまう。波打ち際までやってきて、当たり前だけどそこで立ち止まる。

「予想通り、レグ、すごくびっくりしていたわ」
「それっておかしくないか?」
「あなたがそれを言わないでよ」

 俺は飛ぶのを思い出したのだ。確かな過去の感覚を思い出したのだ。それなのに、記憶喪失前は空を飛ぶ人間を見たというリザミアの発言に驚いたという。シャーリーで感じた違和感にどこか似ていた。何かが違うという感覚。どこかで何かがすれ違っている。根拠がなくとも、とある思いは確信へ近づいてくる。

「とにかく、その話をした次の朝、あなたが倒れていたの」
「俺、その夜は何か様子が変だとか感じた?」
「うーん、あなたはだいたい変だから何とも……リアクションを私が予想できるぐらいはいつも通りだったんじゃない」
「お、おう、そうか……」

 何はともあれ、手掛かりは特になし、といった具合か。今日はもう帰ろうかと声をかけようとしたが、リザミアの海を眺める神妙な横顔に、思わず言葉に詰まる。

 何を考えているのだろうか。しばらく見つめていると、やがてその薄い唇が僅かに動いた。

「この前と、状況が似ているから」

 波の音にかき消されてしまいそうな声だった。聞き漏らさぬよう耳を澄ます。

「もう……」

 続けて何かを言ったようだったが、聞き取れなかった。聞き返す空気ではないので、仕方なく黙っていると、リザミアは急にこちらに向き直って強い視線を浴びせてきた。

「もういなくならないでね、って言ったの!」

 聞こえなかったことをわかっていたかのように、もう一度言い直してくれた。わかっているのなら、そんな逆に恥ずかしい言い方をしなくてもいいのに。

 返事は! と命令するように付け加えられたが、俺は素直にはい、とは言わなかった。

「ごめん、もう一度言ってくれない?」

 怒りを露わにして睨みつけられた。

 リザミアは帰るよ、と強く言い放って海に背を向ける。ごめん、冗談、と言いながら隣に並ぶが、目も合わせてくれなかった。

 リザミアを家まで送り届けて、別れ際に、寄り道せずに帰りなよ、と念を押された。

 返答に一瞬躊躇いを見せると、すかさず返事は! と凄まれる。はい、と素直さを装って答えたものの、その心中は察せられていたかもしれない。さすがと言うべきか、本当によく俺のことをわかっているようで。

 もちろん、そのまま真っ直ぐ帰るはずはなかった。

 再度足は海へと向かう。この前と状況が似ているからこそだよ、リザミア。心配かけて悪いけど、と心の中で謝る。

 しかし、と俺はしばらく温めていた仮説を頭の中で整理する。
 例えば、俺の記憶が何か大事なもので、それが原因で襲われたとかだったとすれば、俺はまだ何者かに狙われているはずだった。さすがの記憶喪失前の俺でも、何もないのに急に海で溺れて浜辺に打ち上げられたりしないだろう。何者かの何らかの介入があったと考えるのが自然だ。しぶとく生き抜いた俺に気が付いて、そろそろ動きがあるかもしれない。

 特にこの仮説に自信があるわけではないが、方向性は悪くないと思う。ただ、そんな思い通りに事が運ぶだろうか……。

 夜の海は、一人で訪れると不気味な印象が増して感じられた。波以外の音はなく、風は首元をひやりと過ぎ去る。そんなにうまいこといくだろうか。いや、本当に襲われたらそれはそれで困るな。今更なことを思って、ふと海の向こうへ目をやる。

 アイナに訊いた言葉を、今一度自分にも問うてみる。

 この海の向こうには何があるのだろう。

 考えてもわからなかった。当たり前だ。元々考えてわかるようなことではない。自分の目で見て、初めて知るものだ。

 と、視線のずっと先、夜空と漆黒の海が交わる辺りで、小さい何かが動いたような気がした。いくら晴れて月が明るいからといっても、水平線はおぼろげだった。

 海に映る月よりもずっと遠くで動いた何か。鳥か、跳ねた魚か、漂う流木か、それとも。

 まさか、もしかして、本当に――。

 刹那、背後の気配が濃くなった。遠くに見えたのが何かを認識するほんの直前だったが、そんなことに構っていられなかった。あれが見間違いなら見間違いでいい。それよりも事は急を要していた。

 すぐ後ろに誰かが、いる――。

 襲われるのか、と振り返りながら思った。好奇心が勝って取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか、とリザミアの顔を思い浮かべながら考えた。それともリザミアが心配して後をつけて来たのだろうか。いや、そうさせないために家まで送って彼女の親に預けたのだ。そもそもこんな瞬間的に気配を感じさせるような現れ方、普通に歩いて来ればできないはずだ。とすれば。

 たった一瞬の間に、様々な思いが巡る。

 誰だ。背後で何もせず、ただそこに降り立ったように現れたのは、一体。

 振り返った俺の目に最初に映ったのは、金色だった。

 月光を浴びて輝くような、長く美しい金色。ふわりと、風が吹いた。はためく黄金の髪。その下の顔を見て、俺は目を見張った。

 女の子。よく晴れた空を思わせるような青い双眸と、白いワンピース。その子は俺を見て、心の底から安堵したように息を吐いた。

 一方で俺の胸中は混沌としていた。記憶の欠片がばらばらに飛び交っているような感覚だった。知っている。俺はこの子を知っている。知っていることを、思い出した。でも、そこまでだった。

 誰だ、という思いは初めから変わらなかった。嵐のように、胸の中で無数の感情が暴れ回っている。すごく大事なこと。忘れてはいけないこと。どうしても思い出したくて、思い出さなくてはいけないような気がして、必死で感情の嵐の中を探し回る。顔、名前、俺との関係。

 誰だ。君は、誰だ。

「やっぱりそうか」

 女の子はため息と共にそう言った。リザミアとは違い柔らかい声だが、力はあった。強い意志のある声音だった。

 碧眼を真っ直ぐ俺に向けて、彼女は続けた。

「迎えに来たよ」

 その瞬間、記憶の欠片の最も大切な一つを掴んだように感じた。

 思い出した。たった一つ、多分、ものすごく大切なこと。君は、君の名は――。

「帰ろう、ユーリ」

 レミニス。

第15話
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