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映画鑑賞雑文「マトリックス」1999年

最近、ディストピアSFものの小説にハマってまして、その流れで映画作品も観ていこうと思い立ち、そういや「マトリックス」も反管理・反監視社会への反逆を描いているという文脈で語られてたよなと思って、もう20年ぶり位に観ました。
ガキの頃に観た時はよくあるハリウッドアクションものとして消費して、スローモーションになって弾を避けるシーンなんかを、よくパロディーにされてたり、ゴッコ遊び的にやってたよなーみたいな事も思い出しながら。

観終えて思った事は、ウォシャウスキー兄弟がオタクってこともあんだろうけど、とにかく謎にアジアンカルチャーっぽさが満載って事ですね。
マトリックスの乱数みたいなのにもカタカナがやたら使われてたり、なんでかカンフーで闘ったり。
結局、ディストピアSFのニューロマンサーとかの影響なのかね。
日本及びアジア文化をオリエンタリズムとして組み込んでクールさや、異化効果を90年代後半になっても狙ってたとするなら、お題目である反監視・管理社会へのアンチテーゼも結局、別の差別感を内包しているという矛盾がこの時から出てるのかと思うと示唆に富むよね。
PC(ポリティカルコレクトネス)が一般化した現代の根源は結局西洋の中でずっとあった癌のようなもので、当然西洋文化を素晴らしいと思って取ってつけて消費してきた我々日本においてもその問題は根付いてるのだろう。
そして、僕が少年の頃にマトリックスパロディーで消費していたように、伝えられるメッセージの本質部分と、そこにある矛盾と欺瞞は、一部のサブカルエリートや批評家たちによる言葉しか生まず、僕らは「ネオのアクション、銃打っ放しかっけえ!!!」とブリッジして銃弾を避けるゴッコにしか発展しないという地獄ね!

とにかく俺の中で、モーフィアスはストーンズのサティスファクションをボートの上で陽気に踊っていて欲しいし、エージェントスミスは「horror…horror…」と呟きながら死んでいってほしいし、ネオはスミスにシンパシーを感じながらマトリックスをナパーム弾で焼き払ってThe Endでないと満足できないってわけです!

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