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ベニー、グッドラック

 未来は、諦めかけた一歩前にあるものかもしれない。
 九段椿は、公園で子供達が遊ぶ姿を、ただぼんやりと眺めていた。小さくて可愛い、という曖昧な感想しか浮かんでこなかった。

なんで空は青いの?

晴れているからだよ。

これは何?

蝶々だよ。

あれで遊びたい!

いいよ、行っておいで。

泥遊びするの!

ダメよ、汚いんだから。

それより、この木のオモチャで遊ぼう。

イヤダ!

なんで?

お母さんは悲しそうな表情をした。

子どもは自由奔放なんだな。

椿は、カフェで買ったアイスコーヒーを美味しそうに飲んでいる。

やっぱこれだな。

そのぐらいのコメントしか出てこない。

ベニーまだかな。

椿は、親友を待っている。20分以上彼は、待つことができないでムズムズ心の底が痒くなってきて、スマホを取り出して、SNSをチェックする。そして、ポケットからイヤホンを見つけて、耳にかぶせる。

芥川賞を獲得したミュージシャンのNEWALBUM『Vistro』だった。

音楽の海岸線、

下らない平和三昧が飽き飽きさせる午前2時。

超低空飛行のジェット気流を僕は乗りまわす。

溢れるシャボン玉、

夢の世界へ誘う、そこにある翼。

ランウェイは終わらないぜ。

旅は始まったばかりだろ。

リードシングル『hors-d‘œuvre』の一節だった。

不思議と何度も聞いているのに彼の気持ちにこの歌は余り影響していないようだった。ただ流行っているし、友達との会話の種になるから聞いている。この曲どう?と聞かれたとしたら、喜んで感想を述べる。ただ無意識の層には響いているのか分からなかった。

椿は、なんとなく、つまらない日々を生活し続けていた。たまに会う友達はいるけれど、他の関係ない人々に出会う頻度はどんどん減少している。ため息ばかりを、ついている。

現実はマッチングアプリのようにスワイプすることができないから、こういう日常は結構辛くて逃げ出したくなる。でも、椿は、逃げる体力もないから、そのままやり過ごす。向こうから誰か凄い勢いで走ってやって来る。
 椿ちゃん!

あっ、ベニー、おはよう!

おはよう椿ちゃん!

ねえ、待った?

全然!ちっとも、待ってないよ!

散歩しよっか!

うん、歩こう!
椿とベニーは手を繋いでルンルン気分で歌を歌いながら、スタコラ歩き出した。ちょっと周り道しながら公園を出て行く。  今日2人のコーディネートはこんな感じだ。
椿〈アウター〉カーキカラーのブルゾン〈トップス〉フラワープリントワンピース〈インナー〉ホワイトカラーのギャザーブラウス〈シューズ〉チャコールカラーヒール
ベニー〈アウター〉セルビッジデニムジャケット〈トップス〉ネイビープリーツワンピース 〈インナー〉イエローのブラトップ〈シューズ〉ブラックのバレエシューズ

2人ともブラウンテイストな髪色で、肩までの長さに対して、若干カールしていて、まるで例えるなら、地中海の海辺を歩いていそうなとてもお洒落な雰囲気だった。

予め今日のお出かけは、リンクコーデにしようね、とカフェ巡りしながら、話し合ってショッピングを一緒にしてその時に選んだお洋服を大切な時間を楽しむために着ていた。

椿は、フクロウのフェザーが付属した銀色のイヤリングを、ベニーはお揃いの金色のイヤリングを、それぞれ左耳につけていた。

双子みたいなコーディネートで、街を歩けばパッと目を引く華やかなスタイリングだった。化粧は2人ともイエローベースで、一見落ち着いているものの、口紅などはパーティーでも使える艶やかなカラーを使って、瞬きをプラスしていた。今は春になったばかりで徐々に健康的な植物が芽吹き始めていた。

2人が歩いているのは東京の都心で、ちょっとだけ自然が豊かで、閑静な場所だった。

ところどころ桃色に色づい桜の仄かな香りがする。どこからか大音量でEDMが鳴り、工事現場より大きい元気な声も響いている。

トンネルの所で、全身黒尽くめの洋服を着た丸いサングラスのラッパーがフードを被りオーディオコンポから音を流して歌っていた。
 20年代の東京界隈。

この時代に生まれて幸い。

最大限ベスト尽くしても巷で敗退。

 毎回の問題を朝食トースト一発速攻解決。

 毎週MC誇大広告、溢れる良心的向上心。

もしも私の壮大な告知と願いが叶うなら。

ウォッチメン&シングアオールソング。

スケッチオンウォール キースヘリング。

なんちゃって知ったかぶりの英語ラップ。

だってなんてったってここは東京だつて。

俺らの徹底的にLOVE徹する鉄の東京。

夢半ばのライバル、俺の叫び聞いてるか。

来年こそサバイバル、負け犬はバイバイ。

Give you バイラルなララバイ。

Thank you on people & my friends finally Checkmate.Soulmate 
 彼達はお辞儀までしているヘッズを何事も見なかったかのようにスルーしていった。

通行人のことは眼中にはなくてその孤独なラッパーは自らの現世に於ける存在証明としてリリックを地下道に刻み込み続けていた。

椿は周りの人や時代がどう変わるかよりも、自分自身の今が大切で仕方がなかったのでどれだけ街に豊かな文化があったとしても、興味に合致する美しさだけを見ていたかった。    

ベニーと一緒に歩いているのも、自分の存在意義を確かめるためで、たった今この瞬間に現実で生きている実感を得るためだった。

反対にベニーにとってみても、椿のことが友達として大好きだから手を繋ぎ、歩いているというわけでもなく、なんとなく椿といると落ち着くし、自分の人間としてのステータスが高められていくようなお守りのご神木と同等の情緒的繋がりを保ち共に歩いていた。

お互いに切り離せない強い絆があった訳ではないと理解しあっていたがそれが居心地の良い現代的な人間関係だと2人とも心の奥深くで分かっていたから、楽しい風のような笑顔を、いとも容易く見せ合うことができた。
 椿ちゃん、最近好きな人できたでしょ。

なんで何も言ってないのに分かるの?

だってさ、その顔バッチリ書いてあるよ。

堂々と死に絶えた表現使うのカッコいい。

失礼ね、バリバリ存命中。誰よ、教えて。

イヤよ、簡単に教えるの恥ずかしいもん。

ナイショにしておくから、ほらクスリ指コッチに持ってきてよ。指切りゲンマンしよ。

それも、あり得ないぐらい昭和だって。

令和ナウな表現って、速攻古びるってば。

ならさ、教える代わりに告白手伝ってよ。

いいよ、私恋のキューピットなんだから。

巷で流行りのベニーキューピットですね。

そうよ、東京界隈で恋の矢持ってたら私。

ちゃんとラッパーの叫び聞いてんじゃん。

めっちゃ歌って弾けまくってたわよね。

こっち見て、引き攣り顔で息切らしてた。

じゃあ、約束の恋の指切り玄米しましょ。

指切り玄米、ウソついたら、シリアル毎朝飲ます。はい、ブラウンライス。指切った。
 椿とベニーは桜吹雪の中を、ワイワイと、遠足気分ではしゃぎながら、散歩している。

この街で一番楽しそうなカップルだった。椿が何かを見つけて、オッという驚いた表情でベニーの方向に瞳を輝かせて振り返った。
 ねえ、ベニーあれなんだろう、ほら見て。

何よ?あれってあの、ハッシュタグでトレンドになってるアイスクリームじゃない。

そうよね、バズってたアイス屋さんよね。

一緒に写真撮って、可愛く投稿しようよ、インフルエンサーの血が騒いでるんだよね。

マジ、私もだわ、構図もう浮かんでるよ。

あの角度が良いでしょ。いいね三昧には。

コラボレーション誕生の気配すごいよね。    

好きピもきっと私のこと見てくれるかな?

絶対、青春始まるってば。覚悟しときな。

だよね、圧倒的なチャンス到来の予感ね。
 彼達は、カラフルな七色の屋根のモダンテイストなアイス屋さんの前で立ち止まり、背景を決め、2秒間ピースして写真を撮った。

そして、さまざまな果実で出来上がったアイスクリームを羨ましそうに凝視していた。

銀色のトレーにたっぷりアイスクリームが詰まっていて、可愛い制服の店員さんがニコニコしながら素敵な姿で注文を待っている。

椿は、一個一個指差してどれにしようかなと迷いつつ燥ぎ過ぎないように選んでいる。

ベニーもその光景を時折合いの手を入れながら優しく見守っている。ラブラブだった。

彼達だけが持っている絶対的な愛の領域は誰にも侵食されることのない透明なベールで覆われていたから、道行く人々は何となく意識してはいても特に気にかける様子もなかった。東京が秩序が保たれている証明だった。

椿は、赤いコップに入った風車を見つけるとフーッと息を吹きかけて回転させた。ドロップのような風車が吐息に反応して何時迄もクルクル回っている。永遠にこの瞬間が続いて欲しいとツバキとベニーは願いつつ、美しい瞳で風車を見つめている。風が吹いている。
 ベニー、私、どれにするか、決めたよ。

椿ちゃんは、どれがいいの?迷うんよね。

ピスタチオと桃のフルーティアイスにしようかな。それが一番美味しそうだからね。

じゃあ、私はブルーベリーとラズベリーのミックスアイスにする!シェアもしたいね。

いいね、あとで交換こしよう。店員さん。

はい、いかがなさいますか?

このピスタチオのアイスと、こっちのブルーベリーのアイスで。2つ、お願いします。

はい、かしこまりました、少々お待ちくださいませ!最高のアイスをお作りしますね。

OKです!(OKです!)声を合わせた。
 と、2人が相槌を打ち、早くアイスクリーム食べたいなとかハワイアンカラーの机でリズムを刻みながら考えていると、スタッフさんがピアノの音を奏で始めて微妙に戸惑った。
 当店では、マイナス16℃に冷やした氷の上でアイスを固めてこちらのカップにポンと乗っけてお客様にご提供するシステムです。

曲のリクエストがあればお弾き致します。

お姉さん、曲のリクエストお願いします!
 元気なスタッフは椿の方に手を差し伸べた。
 あら、いいのかしら。

では、チャイコフスキーの花のワルツを。

花を辺り一面に咲き乱れさせます。

最高の音色でアイスクリームも喜ぶわね。

美しいメロディが踊り出した。

草原に花が咲いて春が来たような心地良さだった。そして、そのリズムに合わせてアイスクリームがかき混ぜられていく。

椿とベニーも薔薇の舞を披露する。

綺麗な花には棘があるわ、当たり前よね。

楽しい時間もすぐ終わる。

私は、世界一の愛すべき存在。

新しい日々に感動を、木漏れ日に空洞を。

ある時、ある所に、飛び切りの女神がいて、その子のホッペに私キッスするのよ。

ああ、何て綺麗な緑色。

触れられないわね、血が付くもの。

羨ましいな、今も紫に染まってるあなた。

私の空が虹に変わるまで。       チェンジしましょう。咄嗟にタップをし がら若やいだ顔のベニーが言う。    あたし、紅色の乙女なの。

全部夢色、こだわり少女。

歌を歌えば花が咲き、道を歩けば鳥踊る。鮮やかな晴れ空ウィンクするの。

Special LoveHappy!

今日もおめかし。あらあら、チューリップ。あぁ、ホントにいい感じ。

最高の気分。

ずっと愛されたいな君が青に変わるまで。

歌が歌い終わると、甘そうでカラフルなアイスクリームが出来上がった。
賑やかな歌、ありがとうね、お姉さん達。東京旅行、心ゆくまで楽しんでね。
グッバイ。

またいつかね。

とっても美味しそうよ、このアイスクリーム。
だって私の一推しだもの。

グラッツェ!

スパシーバ。

ダンケシェーン。
じゃあね、また来てよ、と言ってアイスクリーム屋さんは立ち去る椿とベニーにいつまでも手を振っていた。

カラフルな屋台が左右に弾み揺れて喜んでいるみたいに見えた。白と桃色のアイスクリームを椿はスプーンで掬いながら食べている。

ベニーはブルーベリーアイスをそのまま齧っている。服が汚れないか椿は心配そうに見ていたが、ベニーは全くコボしたりしないで綺麗に食べていた。2人はアイスクリームに夢中で全然会話しなかった。

でも、時折メクバセして、

美味しいね、

うん、とっても、とマナジリの呼吸で確認しあった。

景色が移り変わって森のようになっていった。涼しげな木漏れ日が彼達の頬を染めて、大地を陽光の霧で照らし出している。

すれ違う人々も都会の喧騒領域(ケンソウリョウイキ)とは異なり、どこか快活で時間に余裕がある風に見えた。

思い思いの過ごし方で摩天楼(マテンロウ)の中心に空いた精神の栄養源に身を浸している。

鹿が歩いていたり、虎が熊と遊んでいたり、七色の牛が金色に彩られた古龍(コリュウ)の背に乗っていたり、動物達も、人間に介在(カイザイ)されることなく、超自由空間を楽しみ切っている。ちょうどその時に華やかな方舟が雲の切れ間から、振動で地面を震わせながら降りてきて、七福神が一人一人、椿とベニーの前で手を合わせる。2人は、アイスクリームを食べ終わった口元を寿老人にもらった亜麻色ののハンカチーフで拭うと、口元を朱に色づけて弁財天が振った魔法の大槌の力によって婆娑羅(バサラ)な金剛石の散りばめられた天鵞絨(ビロード)のドレスへとチェンジした。そして、背中から美しい迦楼羅(ガルーダ)の翼を生やして、空へ舞い上がった。

天空で神々の乗っていた方舟(ハコブネ)に搭乗し、黒鉄(クロガネ)のデッキの上で催される晩餐会(バンサンカイ)への参加に必要なクリスタル製チケットを受け取った。

2人は、興味津々で舟を観察し、地面に広がる人間達の空間とは全く異なることに驚嘆した。さまざまなカラフルな青や赤の部屋があったり、グラフィティアートが壁一面に塗り付けられていたり、墨汁で染められた黒いカーテンの和の庵(ワノイオリ)がぽつねんと瞬間的に現れたり、バーチャルなのかARなのか全く理解不能の5次元のようなビジュアルによる360度全方位型の音響に囲まれた触れられる3Dのブラックテイストな場があったり、全て磁力で埋め尽くされたどの角度でも歩ける室(ムロ)があったり、どんなジャンルの音楽も楽器が弾けるか弾けないかとかは問題なく、ビートや、メロディをエモーショナルに響かせられるバックヤードがあったり、とにかく1000年後の未来感がすごかった。椿よりも、むしろベニーがはしゃいでいた。ベニーは問答無用で次々と部屋を開けていく。

もう、そこには七福神達はいなかった。大黒も、恵比寿も、布袋も、福禄寿も、毘沙門天も、弁財天も、寿老人も存在していなかった。だが、彼らの型枠が切目込(キメコミ)になって空中に浮かんでいた。

そして、笑い声や、飲み食いの映像が現れては消えていった。ベニーは、絶対にやらない方がいいと、椿は言ったが、ここの世界の食べ物を、強く要求してしまった。

椿は、ベニーの背中を抱きしめて、やめて、やめて、と泣きながら、願っていた。そして、ベニーと一つになれますように、と手を合わせて神様と仏様に心を込めて祈る。
 ねえ、私にも飲み物を頂戴よ、すごく喉が渇いたのよ。
 やめなさい、飲んじゃダメよ、危険よ。天から声がする。
 ベニー、ねえ、ベニー、頼まないでよ。お願いやめてよ。
 喉が渇いたんだ。飲ませて。いじわるしないでください。
 おかしいよ、ここって絶対おかしい。明らかに変だって。
 なんで?楽しいじゃない?こんなに気持ちいいのに。
 ベニー、これから来たものに手をつけては行けません。
 何か声がするような気がする。止める声がする。
 ほら、神様が飲んじゃいけないって言ってるんだって。
 飲みたい、喉が渇いたんだ。喉が渇いたんだ。喉が渇いた・・・・・・
 ほら、濃厚なエスプレッソをあげよう。
 コーヒーをください。お願いします。すごく、喉が渇いてるんです。
 ベニー、絶対にダメよ、絶対にそっちへ行っちゃだめ。
 飲みたい。コーヒーが飲みたい。あたしに飲ませてくれないと椿を嫌いになるんだ。
 ベニーはフラフラと舟のエッジに向かっていった。
 七福神の埋め込まれた木材からコーヒーが落ちてきた。
 すぐにベニーはそれにストローを挿し込んで飲み干した。 そして、今日はありがとう椿ちゃん、今まで楽しかった、ほら、今日は、お空のお月様がすごく綺麗だね、と微笑みながら、黒煙立ち昇るフェイクワールドの弦月がアオミさを増幅させながら照る夜空へ高速で駆け抜けていった。

ベニーは、青い涙をツラツラと頬に溢している。

椿から幻の世界が消えていき、濃い霧が晴れ上がった。二度と戻れない幻燈だった。

気がついたら、椿は代々木公園のベンチに座って『実在』というタイトルのフランスの作家ポールマシューズの最新作を読んでいた。

REALITY

Jean Paul Matthews

実在を証明する行為は不可能性の諸規範に束縛される。人間の五感に映る世界は簡易で、ぺダンティックな論理では解き明かすことは難しい。私はかつて、最優秀の学生に尋ねてみたことがある。君の人生が存在した証拠を持ってきてくれ、と。すると、彼らは大抵自宅の押し入れの奥底から取り出してきた何十年分の写真が載ったアルバムや、かつて着た幼い頃の思い出のTシャツを持って来る。しかし、私は完全に自意識を遮断した内部の声を反映した物はここにはあるか、とさらに問い詰める。すると、一流大学にストレートで入学して来た人生経験豊富なそのテクノクラートになることを最終目標に据えるエリートは、声を震わせながらこう言う。私の顔や、匂い、家族が自己を存在証明してくれます、私の過去に存在したことは自明でしょう。では、聞くが現在の存立を如何に解決するのか。あなたが証明してくれます、私の声や身体が証明してくれます。それは、全て嘘かもしれない可能性は何%かね。0です。では、あなたが自殺したら、世界は変わるという事か。はい、間違いなく変わります。40秒に1人、自殺しているということをご存知だろうか。いいえ。自殺で年間80万人死んでいる。そんなにいるのか、と学生は愕然とした表情を見せる。75億9469万人の世界人口から見たら少ないかもしれない。自分自身の実在証明には多分に時間を費やし、思い出のアルバムなど、幸せ、と言える思い出をこれ見よがしに見せびらかすのにも関わらず、彼らの内で、クローゼットの奥で首を吊ったり、足を結びつけて海に沈んだり、した自殺者の名前を一人一人挙げられる者はいない。辛うじて名前を挙げるとすれば、統計データでは同列に並んでいる国際的スターなどの名前だけだ。私は、このような自身の日常に転がる経験から、実在と自殺は結合している問題意識であると結論づけた。しかし、実在論と自殺論は現世人類の内で混合した試しがない。実在論者は、さも自分が世界の理を熟知したかのようにこの世は存在するか、しないか、という最低レベルの話をするに留まる。自殺論者は当たり前のようにデータを参照して、死ぬ間際の者に手を差し伸べる試みをすることもなく、机上の空論を振り翳す。私はどちらの論者もシニカルにしか捉えることができない。私の目的とは、世界の実在を証明することでも、自殺者を擁護することでもない。私がやりたいのは、この現代哲学の究極のプログラム、ガラス式バリケードの心臓部に存在する硬く閉ざされた実在の花をどのように咲かせ、外部認識できる形でギラギラと太陽で昇華させるかという具体的行為に尽きる。これを簡便な普遍化されたアブストラクトによって説明すると、心の奥底にある大地で枯れている花に水をやり、大空に飛翔させる方法論を構築する、ということだ。このような花、としか名付けようのない、恋愛や、希望、夢、友情によって華披く純粋な世界のザクロのような核心は、現代のシステマイゼーションされた、アルゴリズムと同類まで堕ち尽くした人間達には任用する機会がないのだ。現代にサバイバルする全世界人類を幸福にすることに、強い責任を負う、社会科学の方法論を、誰にでも理解可能で、かつ一般の社会で導かれる方式に当てはめて、オープンソースで広く普及するためのプロジェクト、Jbeatの一環としてフランスと日本で本書は刊行された。世界認識と行動の一助となれば幸いである。
 椿は、本を閉じて、コーヒーを飲んでから立ち上がった。そして、何も考えないでカツカツと踏み鳴らしてビルの中を歩いていく。そして、一番大きなオフィスのエレベーターの列に並び、人混みに入り込んでいく。7階で降りると、ヒールの音が反響しながら、自動ドアの前に立ち、虹彩を機械にスキャンして扉の向こう側にいく。コピーや、キーボード、統計データ、上司の声、顧客への電話、次々と出社する同僚、会社は音によって緻密にコントロールされている。椿は、その一部としてPCと向き合っていた。そこでは、数字の羅列や、2時間後のスケジュール、今までの仕事のアーカイブ、アメリカとの電話会議、制作中のCG映像、SNS、そしてメイクアップ用の鏡、一揃い作業に必要な道具が全部表示されている。椿はブラインドタッチでスマホ、タブレットとリンクさせながら、高速で報告書を作成している。彼が出勤をカードでスキャンしてから30分が経過したものの、この間に椿は一度も声を発していない。しかし、データドリブンによって企業態は何の問題もなく運用されている。

DXが完全に終わり、未来型最新コンピュータによって全ての業務が賄われていて、この会社のデータはクラウド上のサーバに管理されているため、ひと席ひと席距離感の保たれた、個人机の他にはシンプルなデザインで特に何も置いてない。組織はフラット化されており、誰が社長で誰が社員かはわからないようになっている。質問もコマンドもコンピュータのやりとりによって行われていて、わざわざここまで通勤する理由といえば質のいいモニターとクラウドアクセス、そして、データ管理のためだった。

その様な、機械化された所に何故数十名の人間がいるのかと疑問に思う方もいるかもしれない。それは、高度で複雑な量子的問題を解決するためには現段階においてはAIよりも人の方が向いているからでありモチベーションによって駆動する人間は人工知能に比べてクリエイティブなパフォーマンスがしやすいというのも理由の一つだった。椿は誰ともコミュニケーションすることなく、黙々と事業立ち上げに邁進している。社内で事業内事業をローンチするためのスターティングメンバーにセレクトされたため、給料大幅アップという究極の目標のために奮闘している真っ只中で、たった今営業部部長にリモートでプレゼンし、全力のアプローチを始めたところだった。
コンピュータの基本設定を、マイクモードに切り替えると、横からガラスケースがスライドしてきた。彼は一瞬息を吸い、社内公用語である英語で流暢に語り始める。
 本日プレゼンしたいのは音楽とファッションの融合についてです。準備は大丈夫でしょうか。デジタルファッションになってから数年が経ちまして人々はオンライン完結の消費にシフトし終えた感があります。我々と致しましてもシステムを抜本的に変革し経済合理性を高めることに集中し続け世界に名を馳せる事業体に成長しました。デジタル生活ともいうべき新しい日常になってから人々はレジャーの必要性を認識しつつ、いかに幸福に生きるにはどうすればいいかという価値観を模索しています。かつては宗教や涅槃に活路を求めていましたが現代は資本主義ですので社会から外れ金銭によってではない方向で生きること即ち死を意味します。そのため皆このシステムの中に所属しながら生きる術として皆ビジネスを行ってワークとライフのバランスを考えています。そのような時代性にフィットするものとしての洋服が求められ、シンプリシティを極めて、非常に論理に基づいたコーディネートをするようになっていきました。必要でないものは不要という自明である哲学、といえばいいのでしょうか、そういう服だけを選ぶようになりました。同時に服はそのもの独自で成り立つものではなく、この、部屋で過ごす時間の増えたことに合わせて、自分のヘッドホンで聞く音楽に調合できる服も要求される高い次元のトレンドが構築されつつあると、(テロップ:統計的データは事前に配布した資料に目を通してもらい確認してください)我々も把握しています。そこで今回、Peaceful Loveという音楽・ファッション・文化の総合的メディアを日本とアメリカを拠点に立ち上げることを予定しています。まず、渋谷のスクランブル交差点とニューヨークのデジタルビジョンで6分程度の番組を放送することを企画しています。内容といえばMV、と、この時点では言っておきます。デザイナーの感性を全面に押し出したファッションショーのようなミュージックビデオを作ります。そこでデザイナーの持つ表現のバリエーションを自由に披露していただきます。そして、彼女達が自身のブランドの世界観を存分に押し出せるプラットフォーム作りに挑戦します。映像というメディアは未だブルーオーシャンだと私は思います。採算は取れるんですか、と言うことですね。デザイナーには我が社のデジタル技術を思う存分活用していただきます。それを我々のSNSで発信し、私達はデジタルにも強いことを消費者の方々に知っていただき、デザイナー達にも彼女達の発信力を大いに発揮してもらいます。SNSでコラボレーションをしていきます。デジタルとリアルの融合メディアとしての新しいファッションを模索するグローバルなプロジェクトです。
画面越しの部長は退屈そうな顔で少しも表情を変えずに評価を述べた。
なるほど、君には期待していたんだが、全く未来のビジョンが出てこないね。次のプレゼンの時間があるから私は失礼するよ。
それだけですか。何ヶ月も準備していたのに。もっと根本的な理由を教えてください。
椿は、熱量を込め説得する。
もういいよ。今日はゆっくり家で休みたまえ。君はプロジェクトメンバーから今の時点では外しておくよ、引継ぎは桜川君に頼むよ。
何故ですか。理由を説明してください、お願いします。この機会に賭けてるんです。
これに人生を賭けているようじゃ、修行が必要だね。言葉がポンポン自動的に出ているだけだ。知識の塊だよ。それじゃあまたいつかプレゼンテーションしに来なさい。
私がLGBTQIAだからですか。そうでしょ?
いやそうじゃないんだ、もうそういう時代じゃないんだ。実力で決まるんだ。君に力がなかった、ただそれだけだ。
わかりました。帰ります。ありがとうございました。生意気なこと言ってごめんなさい。またよろしくお願いします。
椿は絶望感に苛まれた。このプロジェクトは私が引っ張るぐらいの意気込みだった。でも、結果は惨敗だった。理由は何故か全くわからない。自分の市場調査が甘かったのかもしれないし、単に評価する人間の気に沿わなかったのかもしれない。詳細はわからないけど、この敗因を分析する必要があると感じてノートとペンをコンビニエンスストアで買ってファーストフードでハンバーガーを食べながら、原因とプロセスと結果を書き込んでいった。データは少ないが、何か部長の言っていた言葉の中にヒントがあるかもしれない。2時間ほどかけてペンを走らせていた時、周りを見ると、ノマドワーカーばかりだった。

そして、思った。私は、ビジネスマンのまま一生を終えていいのだろうかと。リモートでワイヤレスイヤホンをしながら喋っている人々が突然自由に見えた。椿は、それから、アイスコーヒーを飲んだ。

途端に、ふと10年前のことを思い出した。ベニーのことをずっと忘れようとしていたけれど、久しぶりに彼を思い出した。あの頃はずっとキラキラしていて自由に包まれていた気がした。毎日、ベニーに会って色んな話をした。恋の話や、家族のこと、将来の夢etc...全部、手放して、今ここにいるけど、私は幸せなのかしら?不自由と引き換えに幸福を手に入れた感覚があった。だけど、どこか間違っている気がする。みんなはすごい企業だね、って露骨に褒め称える。何十年も続けたら、きっと出世するよって言う。でも、私のゴールってそこなのだろうか?私は、運命の日に至る前のベニーとの会話を思い出して悲しみを堪えていた。人生を代表する輝かしい一日だった。
ベニー、君は将来の夢、ある?
うん、あっあるよ。お嫁さんになること!
へえ、なんだか可愛らしいね。
椿ちゃんは?
私の将来の夢はね、世界一美人の劇作家!
椿ちゃんすごいね。具体的な夢持ってて。

難しそうだけど、がんばるね。
私、椿ちゃんの夢、応援してるよ!
ありがとう、そんなベニーが好きよ。
私も、椿ちゃんのことが世界で一番、大好き、どんなことがあっても志貫いてよね。
わかった。結婚式には呼んでよね。
当たり前よ、親友なんだから。
その翌日、椿の携帯に電話があった。
3コールで手に取ると、雨の音と啜り泣く声が聞こえていて、ベニーの母が彼の携帯から電話していた。
椿ちゃん、椿ちゃん、ベニーが・・・

こんばんは。どうされましたか?
カフェで事故に遭って...

その先の言葉に詰まって、絶句していた。
「すぐに向かいますから、病院の場所を教えてください。」電話の直後、椿は駅前でタクシーを拾いベニーのいる都内の病院へ向かった。車内でもう一度電話をかけると、ベニーの父が電話に出た。事情を詳しく聞いてみると、カフェのテラス席でコーヒーを飲んでいると、飲酒運転した乗用車が彼の座る席へ衝突したそうだ。運転手は幸い助かったものの、ベニーは重体で集中治療室で緊急手術をしたが、帰らぬ人となってしまった。椿は、昨日の記憶が鮮明に刻まれ過ぎて、彼が亡くなったことが俄かに信じられなかった。唯一の心を許せる友達であり、最愛の親友が居なくなってもう会えないのだと言うことが花の心に深い傷をつけた。彼の目に映る風景は、海のような青い色から、血のような赤い色へと転換し、グロテスクなまでに蝕まれていった。今までは楽しくなくても、辛くても、笑わないで過ごすことができたけれど、これからは切実な人生の痛みを悟られないように無理に笑うようにしようと誓った。ベニーがいた頃の椿の写真を見ると、青年の快活な微笑でとても美しかったが、唯一無二の友人が胸の奥だけに存在する友達に変わってからの彼のカメラに映る姿は、マリオネットのようなぎこちなさに埋め尽くされていた。その日を境に、人間が変革されたかのように椿は、必要不可欠な用以外で出歩かなくなった。まるで虚無僧(コムソウ)みたいに修行に明け暮れ、強くなる努力をしていた。人によっては、椿さんは軍隊式格闘技をしているんだ、とか、椿さんは政治家になろうとしているなどと、陰で揶揄するようになっていた。それから、10年経ち、勤めていた会社では、超大型の華型プロジェクトを運営する責任者になれるかどうかという所まできた。彼はここから自分で独り立ちできる自信もついてきてるところだった。このまま、とどまるか、それとも前進するか、それは企業戦士として働いてきた彼にとっては重大なミッションだった。何故なら、サラリーマンにとり、会社は自分の存在意義を確かめる場所であると共に、自らのの家族以上の運命共同体であるからだ。たとえそれが、想像上のものであったとしても、会社から出ること、イコール社会的な死を意味する。転職で、上手くいくか、という保障も終身雇用制度がまだ幅を利かせていたかつてとは異なり、今の時代にはないようなものであるし、未だかつて、これほどまでに安定と安全と安心が守られる傘のない世紀は人類になかったのではないだろうか。彼は、歯車になる気持ちなど毛頭ない状態で会社に入ったのであるが、いつしか交換可能な部品になってしまった。すべての給料によって働く人々を彼は否定しているのではなくて、自由という倫理を求める一個人として戦うための牙をゆっくりと外されているマンモスになっているのが許せないのだった。椿は、世界に向けて、船を走らせることを決意した。嵐は、彼を襲うだろうが、絶対に転覆しないエンジンが彼の心にはついていた。椿はマストを広げて、大海原に立った。そして、崖の上で、ベニーから貰ったペンダントを首からぶら下げた。世間とは全く違う、彼らが信じていないことをしようとしていることは目に見えていた。でも、この海の向こうには新しい大陸がある、いつかそう教わった。自分の他にも、その大陸を目指している人はいると聞いていた。これは、フィクションではなくて、現実の物語だ。ファンタジーや、御伽噺に聞こえるかもしれない。でも、椿は、ベニーのために劇作家としての道を叶えることを決心した。そして、原稿用紙という大陸を前に筆を執った。タイトルは、『実在の華』とした。テーマは、ファッションとジェンダー。自分のメンズバージョンにしようと思った。どう言う結果になるかわからないけど、期待感はあった。今から、書き始めたら、5月には書き終わるとメドがついた。ベニーの堕ちてしまったFAKE WORLDの話にすることにした。今の閉塞感漂う世界を明るい花で満たそうって思った。待っててね、ベニー。私も、そちら側に行くから。きっとベニーともう一度、偽物の世界で一緒に半分の月を眺めるから。待ってね。忘れないでね。私も...きっと...
椿はナミダのツブを金剛石にして眠りの中に沈んで物語へと堕ちて行った。


















































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