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天酒

天酒

いつも不機嫌そうなその人は私にとって父親という存在以上で、何十年も経った今も彼の思い出が毎日頭の中をよぎってどうしようもないのでした。

「ヒロミツ、おい酒もってこい」

「お父さん、もうすごい飲んでいるよ」

「るせぇ。酒もってこいって言われたら酒もってくりゃいいんだ」

「はい。わかりました」

その人は酒乱で酔うと暴れまわって手がつけられないのです。

私が酒を運ぶ係でいつもこき使って私に酒をもってこさせます。

とても苦痛でいつ拳が飛んでくるかと冷や冷やしながら過ごしていました。

家は私にとって安全地帯ではありませんでした。

「ヒロミツ、この酒うまい、うまいよ」

「そうなんだ。よかったね」

「おかわり」と、低い声で言うとその人は10秒ぐらい固まってこちらをぎろりと弁慶みたいな目で睨みました。

「おかわりって何をすればいいの」

「酒もってくるに決まってるだろ」

「また酒、もう嫌だ」

「口ごたえするのか」その人は椅子に座って布巾を私に投げつけました。

私の顔に生乾きの布巾がかぶさります。この時、私は18歳で親に反抗的な態度を取りたくなる時期でしたから、何度も何度も拒否反応を示していました。

その人は、私の行動を制限するような父親ではなく、高校に通わさせてくれました。一応立派な定職についていて、自分もお世話になっているので文句が言えませんでした。

ただ酒を飲んだ時だけ人が変わったように暴力的になるのです。私は、困りました。本当に悩んでいました。母は酒を飲み始めると逃げてしまいますし、妹や弟は小さすぎて何もわかりません。私だけが酒の相手をしなければならないのでした。

私は、20歳を迎えるのがとても怖く、これからの人生に不安を覚えました。

私は、家を出ていく日を夢見るようになりました。

そのためにアルバイトを始めました。

高校は禁止事項が多いところでバイトも禁止項目に入っていました。

私は初めて禁止されていることを破りました。

だからと言って悪くなってと言うわけではなく、勉強もしっかりしましたし、家のお手伝いもちゃんとこなしました。

普段の父は本当にいい人でした。

明るく元気でよく働く。

酒さえなければ平気なのになと思っていました。

ある日父が仕事から帰ってきました。

「ヒロミツ、俺、酒やめるよ」

「どうしたの」

「すごい具合が悪いんだ」

「何かあったの」

「頭が痛くて熱があるんだ」

「大丈夫だよ、ゆっくり休んでいなよ、俺が働くからさ」

父は青ざめていて本当に具合が悪そうでした。それから1ヶ月父は寝込んでいました。

私は、瓦割りの工場にバイトに行きます。いくつか掛け持ちしているうちの一つです。ハンマーで瓦を破り続けると言う地味な作業ですが、とても学ぶことの多い仕事でした。そこにいる鈴木さんという人が私を良くしてくれていて、たまに唐揚げをおごってくれたり、ジュースをくれたりします。

その日も作業が終わり汗だくになっていると、鈴木さんはタオルを私にくれました。

私は顔の汗を拭きます。

「お父さん、まだ具合悪いの」

「ええ、とても悪そうで寝込んでいます」

「俺にできることがあったらなんでも言ってよ」

「分かりました。気になさらないでください」

「いや、心配だよ、ヒロミツ君よく働くからさ」

「これも家族のためです」

「瓦割りは慣れた」

「少しは。次の日、筋肉痛で」

「もうすぐ高校卒業だっけ」

「そうです」

「その後は、どうするの」

「うん、2年ぐらいお金貯めて設計技師の資格取ろうかなって思ってます」

「じゃあ、うちで働きなよ。他の仕事もあるから」

「えっ、いいんですか。ぜひ」

「これ、お父さん回復したら飲ませてあげて」

「なんですか、これ」

「天酒。これ飲めば、元気になるよ」

それは、黄金に輝くようなパッケージのすごい見た目の酒でした。私は、酒が原因で父の具合が悪くなったと思っているのでもう酒は見たくないと思っていましてが、お世話になっている鈴木さんとの縁を大切にしたかったのでもらうことにしました。

「ただいま、あれ」

「ヒロミツ、おかえり」

「今日元気なんだ」

「なんか不思議と元気なんだよ。酒でも飲もうかな」

「もうやめときなよ」

「やめねえよ、生きがいなんだ」

「はい、これ天酒」

「天酒。天酒、ってお前それまさか」

「どうしたの」

「それはやめたほうがいい。俺が飲めるレベルの酒じゃねえ」

「鈴木さんが元気になるようにってくれたんだよ。飲めばいいじゃん」

「天酒は世界で一番偉い人が飲む酒だ。お供えものになるぐらいのもんだ」

「そんなすごい酒なの。回復するんじゃない」

「しょうがねえ、これもなにかの吉兆だ。飲むか」

というと、父は普段あまりしないのですが、元フランス料理のシェフだった腕を生かして、シタビラメのムニエルやテリーヌなどをこしらえはじめました。その日はなぜかフルコースでした。

「ヒロミツ、ありがたく思え。天酒が食卓に並ぶんだ。お前も飲め」

「えっ、まだ大人じゃないし」

「これはお屠蘇みたいなものだ。平気だ」

父は、トックリに入れた天酒をトクトクトクトクと私のグラスにたっぷり注ぎました。父は楕円形の見たことないお皿に天酒を注いでいます。

「さあ、乾杯だ」

私たちは天酒を飲みました。嗅いだこともない高級な香りに蜂蜜のような味、トロリとした舌触り、突き抜ける米の刺激、すべてが今まで経験したことのないものでした。

初めて飲んだ酒が天酒だというのは自慢になるかもしれません。

私は2つ目のタブーを破ってしまいました。

父は、お皿を担いで角度を傾けて注ぎ込むように天酒を飲みます。

「プハア。しあわせだ」

というと、父は、フレンチには一口も手をつけず、寝込んでしまいました。

私は、いつもの酒癖だと思い、ゆっくりフルコースを食べました。

翌朝起きると、寝室に父の姿がありません。

リビングにいました。

「お父さん、行ってくるね」と言って、父を起こそうとすると、冷たくなっていました。

父は、向こう側に隠れてしまいました。

一説によると天酒とは不老不死の酒、あちら側とこちら側、天と地をつなぐ酒と言われているようです。

父は、天酒によって向こう側に旅立ったのでしょう。

不思議と悲しくはありませんでしたが、涙がポロポロ出てきました。

やはり唯一の父親だったので、
今までの思い出——といっても酒を汲んだ思い出が大半ですが——が蘇りました。

父は、写真を撮らない人だったので、
肖像写真は1枚しかありませんでした。

私は、この酒瓶を持ちながら笑っている写真はとても美しいと思いました。

そして、私は、瓦割りをやめました。

その後のことは誰にも喋っていません。

2021.04.15

木下雄飛


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