見出し画像

障害を隠さなくていい世の中

先日、とある自然農法で米作りをしている農家さんのところへ行ってきました。
とても気持ちのいい農村。
いろんな刺激をもらってきました。
食べ物を作ることはやはり人間にとって根源的な営みだと改めて感じました。


もうすぐパラリンピック開幕、というタイミング。
全然意識していなかったんですが、何かシンクロしたのかこのテーマについて書きたくなりました。

先日、たまたまNHKのEテレでハートネットTVという番組を見たんです。


障害のある当事者の方がメインの番組なんですが、肢体不自由の方が出ていたんです。
話せるんですけど、どもりが強くて言葉が聞こえづらいわけです。
横にいた息子がふと「何言ってんのか分かんなーい」と言ったんですね。
そこにわずかな侮蔑の念を感じたのです。
その時「ガーン」というものを感じました。
「そうか、こやつら(うちの子どもら)は肢体不自由の方に会ったことが無いのか…」と気付いたのです。


私は学生時代、日赤のサークルに入っていて、肢体不自由の方や知的障害の方など色んな障害のある方と接してきました。
なので彼らがごく身近な存在として感じられるのですが、そんな自分の子どもが彼らに対して無意識だとしても侮蔑するような反応を見せたことに衝撃を受けたのでした。

ただその時は「話しづらい身体なんだよ」と言う程度に留めました。
やはり会って接してみないと肚では分からないと感じたからです。


それにしても…。
サークルを引退して早や20年弱。
その間に重度の肢体不自由の方に全然会う機会が無かったなぁ、ということに改めて気付きました。
街中を歩いていてもまずお目にかかりません。
接するどころか目にする機会すら無ければ当然身近に感じられるはずもないですよね。

詳しく調べたわけではないですが、日本では障害を「恥ずかしいもの」として隠すようにしてきた経緯があるように思います。
私の叔母は若いころから精神障害があってずっと家の中で暮らしてきました。
身体障害も知的障害も同じような感覚があったと思います。
そんな社会の中、開拓者的障害当事者が身体を張って声を上げてきた結果、障害者の権利が少しずつ認められてきた経緯があると思います。
(これらは多分に「こんな夜更けにバナナかよ」を参考に書いています)


LGBTが少しずつ認知され、多様性が認められつつあるようにも思います。
では障害のある方は…というと相変わらず街なかで見かけることが非常に少ない。
これは一言では表せない色んな要因があると思いますが、ざっくりいうとハードとソフトの両面があると言えるかと思います。

まずハード面。
色々な法整備などされてきたと思いますが街にはまだまだ障害物が多い。
普段は全然気にならない歩道の段差も車イスにはヘビーな障壁になります。
自走(自分でこぐ or 電動走行)ではなおさらです。
駅などでエレベータが増えてきたのはいいことだと思いますが、大きな駅ではエレベータを使うためにとんでもなく遠回りしなければいけないようなところも多々あります。
学生時代、エスカレータにウイリーさせるように車イスを乗っけていましたが今は安全上ダメでしょうね。
(当時もダメだったかもしれませんが…)
エスカレータを車イス仕様にして移動するのはとても時間がかかります。
実際に体感しないと分からないことです。
更に業務効率化により駅員がいない時間帯のある駅が増えています。
ますます車イスユーザーが外に出づらい状況になりつつあります。


そしてソフト面。
電車に乗る時、車イスの方が乗っていると「ジャマだなぁ」と思ったこと、あるんじゃないでしょうか?
それは自然な反応だと思います。
混んでいる車内ではなおさらです。
「そう思ってはならない」と考えるのは違うと思います。
これは差別に対する考え方と同じです。
詳しくは過去記事をご参照ください。
「差別はダメ」への違和感


たしかに車イスは幅を取る。
でもその人は必要だから車イスに乗っています。
自分が車イスを必要とする状態になった時「あなたは幅を取るから電車に乗れません」と言われたらどう思うでしょうか。
色んな考え方があっていいと思います。
その中で私は誰しもが極力自由に、自分の思うように生きられる社会を望みます。
なのでとっさに「ジャマだなぁ」と思ったとしても本人の選択を尊重します。
自分が自由でいたいなら他者の自由も尊重しないとフェアじゃないですよね。
その積み重ねが成熟した社会になるのだと思います。


ちなみによく障害を「障碍」「しょうがい」と表記するこどありますが、私は「障害」でいいと思っています。
本人がこの社会で生きる上でのハンデが「障害」なわけで本人自身が「害」なわけではないんですから。
なので「障害のある方」と呼んでいます。
「障害者」と言ってしまうと確かにその人が障害のように感じられてしまいますよね。
カテゴライズする感じもあり私は使わないですね。
世の中、心身の状態がハンデにならない状態になれば細かいこと気にしないで済むようになると思うんですけどね…。

もう一点書きたいことがあったんですが、長くなるのでまた次回にしたいと思います。
障害があろうがなかろうが、自分らしく生きられるフェアな世の中にしたいと心から思います。
自由の風、吹かせましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?