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入棺体験、あるいは愛と葬の輪舞

 東京都・森下にある「終活スナックめめんともり」にて、入棺体験をしてきた。以下は、レポートというには自分語りが多すぎる文章なので、気をつけてほしい。

 入棺体験なるものを知ったきっかけは、Twitterのおすすめタイムラインに、真空ジェシカの番組のツイートが流れてきたことだった。番組の内容が、入棺体験についてだった。真空ジェシカは好きだし、かねてより死関連に興味があったので視聴した。番組では、入棺体験ワークシートなるものを記入した真空ジェシカのふたりが棺に入り、自分で書いた弔辞を読んでもらっていた。二人の弔辞は、一般的に悲しいものとされている弔辞にしては面白おかしく、滑稽味のある内容だったというように記憶している。番組で書いたものだから、視聴者向けに面白おかしく書くのは当たり前かもしれないけれど、私もそういう雰囲気の弔辞を書きたいな~と思った。

 「私も弔辞を書きたい」というのが、一番根っこにある衝動だったかもしれない。

 それから「終活スナックめめんともり」で、入棺体験ワークショップをやっていることを知った。「いつかやりたいな~」と思っていた。それは「いつか」であって、具体的にいつ頃とか、そういうのが思い浮かんでいるわけではなく、「いけたらいくわ」程度の気持ちだったのだが、当時読んでいたジャンケレヴィッチの『死』という本に、「死は飛躍である」というようなことが書いてあったので、「私もいっちょ”飛躍”してみますかぁ~!」と思って、思い切って、申し込みをした。

 申し込みをしてから当日まで結構時間があって、弔辞に何を書くかという思いを巡らせてみたことは何回もあったが、文字にすることはなかった。
なぜそれまで書かなかったのか、少し考えたけど、弔辞という文章を書くには、書く環境というものが重要なのかもしれない。そもそも、弔辞は故人に対して書くものなのだから、「書きたい」ではなく「書かなければならない」から書くのだろう。そこにはある種のひっ迫感、必然性、そんなものがあって、普段ぼ~っと生きている私の生活にはそういう精神性が欠如していた。だから、書く気が起きなかったというのがあるのではないだろうか。

 それと、「めめんともり」のチーママであり棺桶デザイン・製作などをされている布施美佳子さんがデザインしたパーカーが販売されているというので、出店されている原宿まで買いに行った。原宿で迷子になり、半泣きで購入した。入棺体験で着ていこうかな~、とぼんやりと思っていたので、無事に買えてよかった。

 実は、入棺体験に何を着ていこうかというのは結構悩んだところである。実際に死んだら着せられるのは死に装束一択だろうけど、幸運にも生きている私は、何を着て棺に入るのか選ぶ自由がある。

 私は、自分の葬式についていろいろ考えるのが好きで、無論どんな姿で棺に入るかについても考えることがある。一貫しているのは、「最も美しい姿で棺に入りたい」という点で、ゴスロリが着たいとか、変なTシャツがいいとか、チャイナドレスがいいとか、ウエディングドレスみたいな死に装束をオーダーメイドで作ってほしい、とか。そのときどきで思い浮かべる姿はさまざまである。妄想なら何を着ても自由だが、実際に棺に入ると考えると、思い浮かべたものを購入して着用するのは、いささかハードルが高かった。そもそも私は、着るものについてあれこれ考えるのが苦手であり、最近は自分専用の制服を作り、毎日着用することを許されたい、などと考えているぐらいだ。だから、布施さんが製作されたパーカーがあるのなら、それを着ていくのがいいんじゃないかな~と思ったのだ。自分の願望と現実のうまい折り合いをつけて実行するのって、「理想の自分の葬式」を成就させるためにも必要なことかもしれない。

 当日、私は気合を入れて早く起き、化粧をした。「セルフ死に化粧(笑)」など考えていた。

 会場であるスナックめめんともりには初めて行った。きらびやかでおしゃれな空間で、「すげ~!」と思った。参加者は偶然にも全員女性で、20~60代らしかった。
 ワークショップは初めに、「あなたは誰ですか」と5分間問われ続け、答続けるというものから始まった。私はTwitterで信じられないくらい自分語りに慣れているので、わりとぽんぽん言葉が出てきた。普段から自分について考えまくっている成果が出たのだろう。

 次に、弔辞を書くことになった。書き手は自由に設定していいらしい。あて先はもちろん故人である自分だ。架空の人物を書き手として設定してもいいらしく、二次元の好きなキャラや三次元の「推し」に書いてもらうことも考えたが、やめた。シンプルに思い浮かばなかったし、私は、誰より私を愛する人に、私へ弔辞を書いてほしかったからだ。私は彼らを好きだけど、彼らは私のことなど知らないし、好きでもない(当たり前だが)。私が彼らに弔辞を書くならまだしも、彼らが私に何を書くかなんて、想像するのもおこがましいという気持ちがあった。少しの逡巡を経て、私は弔辞を読む人として「自分」を設定した。以下が、実際に私が書いた文章である。

「いや~死んだね!ついに!今までお疲れさまでした!弔辞を読んでくれる人が見つからず、結局自分で自分に読んでいる。(笑)
私はそういう人間で、そういう人生だったね。
最後まで”真実の愛”(トゥルーラブ)を見つけることはできなかったみたいだけど、ついに死とひとつになれたのなら、オールオッケー!私は幸せです。
私はさ、死って絶滅だと思ってるわけで、つまり弔辞を自分で自分に書いたとて宛先は”無”なわけだけど……。でもこれが死んだ人間に対するマナーだというなら仕方ないよね。無に対してよびかけるのは飽きたから、参列者のみなさんにメッセージいいですか?(笑)でも弔辞ってそういうものじゃない?うーん、俗世は厳しいね。私っていつもそう。エゴイストで、自分のことに夢中で、私のことしか考えられない。そうやって死んだんだし、もう未練とかないよ。マジで。
あ~でもトゥルーラブを見つけていたら、その愛する人に読んでもらいたかったかも?な~んてね。愛する人を見つけるより先に死んでしまったわけだ。これってある意味愛に生きたってこと?わかりませんけども……。
とにかく私、おつかれさまね!最愛の私より、私だったものへ♡」

 ここまで書いて思ったが、私は弔辞のことをラブレターだと思っているのかもしれない。愛と死をほぼ同一視している。なんだか恥ずかしい。

 弔辞を書き終わってから、いよいよ実際に棺に入るフェーズに入った。棺に入り目をつむり、参列者が入った人のまわりに花を添えた。いくつか写真を撮ってもらい、棺のふたを閉める。棺の中で弔辞が読み上げられ、参加者の方々が自分について話すのを聞いていた。
 私はなぜか弔辞で「トゥルーラブ」なぞについて触れてしまったため、列席の方々にそれを言及され、棺桶のなかでニヤニヤしていた。私は、あまりに愛と死を同一視してしまっていたことに気づいた。どう考えても、愛する人に、愛とともに葬られたいし、私も今まで出会ったひとに最大限の愛を伝える葬式がしたい……。私って、愛に生きて愛に死ぬのかもしれない……。

↑すみません、こんなことを言っていますが、私は孤独死予備軍です。私について言及してくださった方がおっしゃっていたが、私って、愛に対して設定しているもの、望むものがあまりに高すぎるのだろう。人生経験の浅さゆえだろうか。なんなのだろう。愛について教えてほしい。誰か。

 かなり脱線した。棺のふたが開けられて起き上がったところに話を進めよう。私は、「あの世」が存在しない、生まれかわることもないと考えているため、「死んで生き返る」という経験を他の人ほど真摯に捉えられていなかったなとは思う。

 私にとって入棺体験は、「”死”を疑似体験する」というより、「”葬られる”を疑似体験する」というものだった。かねてより死への思慕の念を抱き、ここ数年死生観やら葬式やらについての本を読んだ私が課題として考えていたのは、「葬における他者の必然性」であった。前述したように、私は孤独死予備軍であるため、私が死んだら死体は放置され、行政の手によって荼毘に付される可能性が高い。それはそれでひとつの生の終わり方だろうが、それは私の理想とする「葬」、生きるモチベーションである「私の理想の葬式を挙げる」とは程遠い。
 葬式は、ひとりではできない。ひとりでに死ぬことはあっても、ひとりでに葬られることはできないのだ。私は今回の体験で、「他者性を排した葬儀が不可能であること」を思い知った。頭の中で漠然と膨らんでいた問題意識が、自分の身体を通して顕在化した。

 私はどうしても、認めたくなかった。私は、ひとりで死ぬのだから、ひとりで葬られる必要があると思っていた。でもそれは不可能なのだと思い知った。薄々感じ、言ってしまえば拒否感さえ抱いていた「葬における他者の必然性」を、今回の入棺体験を通して受け入れることができたように思う。
 
 ひとは、ひとりでに葬られることはできない。それならば、私のような人間でも、ひとりでに死ぬと思われるような人間でも、他者に「葬ってもらえる」ようなシステムを確立することが、私の理想を叶えるひとつの手段なのだろう。
 「私が葬ってもらいたい!」ばかりを考えるのではなく、自分がまず他者を葬る者であるということを忘れずに、今後も死や葬儀について考えていきたい。



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