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#76 生死を意識する時

昔から生きるとか死ぬとかそういうことを考えることはあった。人より多分死ぬことに魅力を感じたり、生きることへの倦怠感を抱いたりすることは多かった。
より身近に意識するようになったのは、うつ病を患ってからだ。

ニュースで政治家の不祥事やくだらない下世話話を見た時。人間の汚い部分に触れた時。自分の至らなさに気がついた時。通帳の残高を見た時。
今でも死ぬことを意識する瞬間は、数え切れないほどある。

きっと、死ぬことに対して恐怖や周囲への申し訳なさが消えた時にそういう決断をすることは簡単だろうなと思う。

一度だけ友人から心配の意味を込めて「なんでそんなに死ぬ事を考えてるの?」と聞かれたことがある。確かその時は、あまり深い話はせず誤魔化したと思う。
でも、答えは簡単で生きることへの執着がそんなにないからだ。なんなら生きているだけで付きまとわれる感覚から逃げたいだけかもしれない。

何かにがっかりするあの感覚も
過去のことを思い出して後悔する感覚も
先々のことを考えてため息を吐く瞬間も
誰かと比べて自分を卑下して絶望する感覚も
全てが面倒くさくて真に受け止めすぎて苦しい。

それら全てを無視して楽しめる瞬間だってもちろんある。生きてるからこそ良かったなと思うこともある。ただ、なぜか足りない。
さらにコントロールが出来ない。
うつ病になってから余計にコントロールが効かなくなったし、生きてるから良かったと思う感覚さえ薄く感じるようになった。


amazarashiの「僕が死のうと思ったのは」
という曲の歌詞に
「僕が死のうと思ったのは
きっと生きることに真面目すぎるから」
という一節がある。

そして、秋山黄色の「SCRAP BOOOO」
という曲の歌詞に
「楽しいやつに限って
『どっちでも良くね?』とよく言ってる」
という一節がある。


きっと僕は、amazarashiの歌詞の人に近くて、秋山黄色の歌詞の人には遠い。

僕が生死を意識する瞬間は、きっと生きることを真面目に捉えてる時なんだと思う。

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