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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅰ 十勝の空 編 11

 予報通り、午前五時半の帯広の空には小雨が舞っていた。
 さっきコンビニに朝飯を買いに行く時に見えた西や北にある遠くの空は、早く流れる雲の向こうで晴れていた。
 あと小一時間もすると、この十勝の空は晴れ渡るのだろう。
 今日は、上士幌町にある糠平湖の奥にあるタウシュベツ川橋梁に行く。
 糠平湖は、発電用ダム建設に伴い造られた音更川の人造湖で、多くのツーリング本や、ガイドブック、ネットに載っているいくつもの写真の中で、湖に浮かぶコンクリートアーチ製の朽ちかけた橋の姿がとても美しく印象的だった。俺はそれを見に、かつては士幌線がその上を走っていたタウシュベツ川橋梁に行くのだ。
 今の時期、橋梁の辺りに水が張られていることは少ないという。陸の上に幻想的で荒廃したその全容を現しているのだろう。
 今日の上士幌町の降水確率は、三時間前から日が変わった明日の昼までずっと0%だ。
 雨の上がるのが待ち遠しい。昨日、恐怖を感じるくらいデカい雲が覆っていたこの広大な十勝を、もうすぐ綺麗な青が覆いつくすのだ。
 窓から見える薄いグレーを帯びたところがすべて、眩いほどの色に変わる様子を想像することなど出来るはずもなかった。今まで、部分部分切り取られたものしか見てきていないのだから。
 湧き出し過ぎた期待感を鎮めるように、俺はシャワーを浴びた。

 昨日は、もう多分、この旅では足を運ぶことがないであろう、何もない最果ての風極の地・えりも町を、しっかりとがっつりとゲップが出るくらい堪能した。
 何もないと謳いながら、素晴らしい風景を見せる襟裳。緑の上に散らばっている小さな黄色が、吹く風に小刻みに揺れている様が、ふらりふらりと風に揺られて着地して、ずっしりと俺の気持ちの端っこに根を生やした。そういう生き方もあるのだと。
 ホテルに戻って、高岡ちゃんから借りたスマホで徳永に電話した。やっと容疑者から外されたことを報告し、詳細は東京に立ち寄った時に、酒でも飲みながら話すこととなった。最後に高岡ちゃんへの伝言を頼んだ。このスマホを暫く借りておくと。これからの長い旅路、用意は周到でも足らないぐらいだ。直接高岡ちゃんに電話しても良かったが、それをするとやきもち焼の徳永の機嫌が悪くなる。これが一番賢明なやり方だ。
 津田との約束は、夜になり、屋台で飲み始めてしばらくしてから、俺がマスターの尻を叩いてやっと履行出来た。
 通報から三十分ぐらいしてやって来た見知らぬ刑事二人は、カウンターにいる俺を見つけると軽く会釈した。
 マスターにそれを見られていたので、俺は勘定を済ませ、屋台村のトイレで用を済ませてから、気に入っているバーに河岸を変えた。
 捜査対象から外れ、津田との約束も無事に果たし、気分良く店のドアを開けると、出迎えたバーテンダーに「お待ち合わせですか?」と訊かれた。
 すぐ脳裏に嫌いな顔が浮かんできた。俺は「いいえ」と言い、それを察したバーテンダーの案内に従った。
 俺は、気配を消しながらバーテンダーのうしろを歩き、店内すべての客を確認した。血の気の引いた顔の多喜川が、長いカウンターの手前隅で飲んでいた。あの様子では酒が不味いだろうにと、素直に心の奥底で惻隠の情を示した。
 俺は、長いカウンターの真ん中の少し奥側の席に通された。トイレへの動線に近いのが気になりつつ、席に着く前に横目で確認すると、ちょうど多喜川は両手で頭を抱え込んでいて、俺の存在にはまったく気づいていない様子だった。
 サイドカーを頼んで、まだ気になったので、チラリと多喜川の様子を伺ったが、二人の間には一組のカップルがいて、それがうまい具合に衝立代わりになっていて、多喜川の姿は見れなかった。ちょっとは落ち着いて飲めそうだ。
 サイドカーは極上だった。そして、今日のチャームも豪華だった。なかでも、生のイチジクの中にクリームチーズを挟み、それを生ハムで巻いたピンチョスが一番旨かった。
 サイドカー、ロブ・ロイときて、このネバダで今日は〆て帰ろうと思った時、運悪くトイレに立った多喜川に見つかった。
 「なんで電話くれんのですか?」
 酒は飲んでいるのだが、やはり酔えずにいたようだ。
 「お勘定お願いします」
 俺は近くにいたバーテンドレスにそう言ってから、多喜川を手招きして耳元に囁いた。
 「ここじゃまずいから、表出ようか」
 多喜川も会計を済ませ、二人揃って店を出た。
 多喜川がトイレに行っている間に消えても良かったが、俺には今回の帯広の夜が、まだ一晩残っている。今日撒いても明日もこの店に来るかもしれない。俺の心地好いと思える場所を多喜川に教えたのが拙かった。後悔は先に立たないのだ。
 店を出て、傘をさすことなく西に歩いた。多喜川がどう動こうと大丈夫な距離をとりながら。
 西3条通を過ぎると街は灯りをなくして暗くなる。まだしばらく歩くと、右手に公園が見えた。ここなら気兼ねなく話が出来る。街はくまなく歩いてみるものだ。
 公園の横の雨に濡れた道を、時折車が通り過ぎる音がするだけで、あとは虫の音が静かに鳴っていた。
 「車見つかったぞ」
 「えっ。ホンマですか。どこにあったんですか?」
 まだ警察から連絡はいっていないようだ。
 別に津田から口止めされたわけではない。多喜川にどこで見つかったのかを話して聞かせた。
 「車は無事でした?ぶつけたりしてませんでした?社長、運転荒かったから、傷ついたりしてませんでした?ほんで、SDカードはあったんですか?」
 川口の言っていたように、多喜川には、松村の死などはどうでもいいように考えていると、俺の目にも映った。
 「いいや、最初に見つけたのが刑事やったから、車内に入れんどころか、見ることも出来んかったわ」
 「そうですか……。けど、すぐに車は返してもらえるんですよねぇ。車乗って帰らな、嫁も娘も悲しみますわ」
 光量の乏しい中で見えた多喜川の表情は、真剣そのものだった。コイツはどうしようもない馬鹿なのか、それともまったくの無知なのか。馬鹿ならまだ可愛げもあるが、無知は今の世の中では罪に等しい。ここにも違った正義があるというのだろうか?多喜川なりの大義名分があるのだろうか?
 「お前さぁ、松村が死んで良かった?」
 急に何を聞くのだと、理解出来ないという顔を多喜川はした。
 俺は多喜川に、松村の死に対する凛とした感情がないことに虚しさを感じた。義理や人情なんてものは時代錯誤なのだろうか。
 「花押会の高峰には、知らぬ存ぜぬを通すしかない。そうしとけば、何とかやり過ごせる」
 「そんなん当たり前のことですやん。よう考えたら、俺、いきなり無職になったんですわ。そやから、もっとパッとする、儲けれるようなやり方はないんですか?」
 「ないな」
 まったくコイツときたら、自分の立ち位置が微妙なところに立っているのを認識していないのだ。高峰が直々に北海道まで来ているのだ、話は松村がどうのこうのというレベルではない。多喜川と高峰の直の話にレベルは上がっているのだ。安易にヤクザを使おうと思うからこうなる。松村が残した金目のものはすべて高峰に持っていかれる。多喜川にはそれを守る権利も技量もありはしないのだ。ただ、知らぬ存ぜぬで多喜川自身が高峰から距離をとるしか、愛する家族を守るための打つ手はない。欲を出せばカタにはめられて、杯ももらえぬ半端もんとして、一生いいように扱き使われるだけだ。
 「何やねん。そんなもんでアイツから逃げれるわけないやろ。今でも、『俺がこんなとこまでわざわざ足運んでんねや、それなりのもんがないと引けんとこまで来てるから』って言われてんのに……」
 「だから、知らんっちゅうとけや。俺は社長から言われてたことをしただけやからって、お前は綺麗に身を引け。嫁かお前の田舎に引っ込んで、大人しゅう暮らしていけ。色気出さんかったら向こうも突きどころがないんやから」
 「そんな簡単な話しちゃうわい。なめてんのか。おい。こっちは切羽詰まっとんねん。ええ。しょうもないこと言うとったら本気出すぞ」
 そう言って多喜川は、俺のタンカースジャケットの胸倉を両手で掴み、自分の方へ引きつけた。
 俺はそれに逆らわず多喜川に身を寄せて、勢いのまま両手で多喜川の首を完璧にホールドすると、体重を多喜川の首にかけて、多喜川の上体が崩れた空間にある鳩尾に右膝を斜め上にぶち込んだ。自然に身体が反応しただけだった。
 ウッと呻きながら腹を押さえて後退りした多喜川は、そのまま濡れた草の上にゴロリと倒れ込んだ。そして、「アー。アーッ」と、苦しそうだが何とか呼吸をしていた。
 「なめてんのはオドレやろ。ド素人が。守りたいもんがあるんやったら、それを死ぬ気で守らんかい。自分の都合良く世の中を渡ろうとしやがって。度胸も頭もないのに調子乗ってイチビってんちゃうぞ」
 大人気ないと思ったが、しようがなかった。自然の成り行きだった。
 坊主頭には掴み上げる髪の毛がない。だから俺は片耳を引っ張った。
 「ええか、嫁と娘が大事やったら、大人しゅう、ひっそりと、普通に暮らしていけ。車はどうせ乗れんやろ。松村は車内で殺されたんや。殺された時に漏れ出た糞尿で、車ん中はアンモニア臭が沁みついとったわ」
 俺の言葉を聞いていた多喜川は、力なく呼吸だけを整えていた。

 初の音更町だ。
 十勝川に架かる斜張橋の十勝大橋を渡り、木野の表示の先に、温泉に浸かっている女性と花時計を描いた音更町のカントリーサインはあった。
 バックミラーに映る空はまだ灰色をしていたが、前方に見える空は青で、その中にフワフワの白が浮かんでいた。
 建物と建物との空間に余裕のある街中をスッと進んで行く。
 音更の街は、郊外の街といった感じだった。
 道東自動車道の手前にある道の駅おとふけで、午前九時半の開店を少し待ってからスタンプを押して、すぐに先に進んだ。
 国道241号線が音更川を渡り、国道241号線と合流し一つになる。
 ここから先は牧歌的な風景の中直線の道が続く。
 頭の上にはもう青空が広がってきていた。
 空しかないような壮大な景色に浸っていると、コミカルなホルスタインが描かれた士幌町のカントリーサインが突然現れた。
 すぐに中士幌の町がやって来て、またすぐに牧歌的な風景に戻っていった。
 ドンドンと青さが広がっていき、ドンドンとそれが空であることが信じられなくなっていく。
 広大な世界にポツリと、道の駅ピア21しほろはあった。
 ここにはパスポートで食べられる「しほろ牛丼」があったが、時間的、腹の減り具合が合わず、スタンプを押すだけとなった。
 パスポートに載っている食い物を片っ端から食おうと思っても、色々と条件が噛み合わないと駄目なのだと認識させられる。旅はタイミング次第なのだと実感し始めていた。
 そんな小さなことはどうでもいいと思えるほど、十勝は壮大だった。
 熱気球の絵のカントリーサインがあったのは、ピア21しほろから十分ぐらい走ったところだった。
 上士幌町に入った。俺はこれから十勝西部森林管理署へ行って、タウシュベツ川橋梁まで行くための、糠平三股林道の入口にある門扉の鍵を借りなければならない。
 国道が241号線と273号線に別れるホクレンのガソリンスタンドがある交差点の手前を左折すれば近道だったが、十勝というものに惚け過ぎていたせいで通り過ごし、上士幌17区・上士幌2区の交差点を、国道273号線へ左折した。
 二本目を左折して右に曲がったのだが、少々手間取って、やっと森林管理署へ辿り着いた。
 講習を受けて署名してから、糠平三股林道へ入るための門扉の鍵を借りた。
 係の人から、道がかなり荒れているので気をつけることと、クマが出るかもしれないのでそのつもりでと言われた。
 森林管理署を出る時に、念のためにガソリンを入れておこうと思ってさっきの交差点まで戻った。これから先、地図にスタンドの表記がなかったからだった。
 国道273号線の9キロある直線路を、のんびりと日向ぼっこしながら進んで行った。
 山が近くなった左カーブで糠平温泉の看板が現れた。これから先、大雪山国立公園の山の中へ入って行くのだと腹を決めた。
 『ヒグマに注意』の看板が、北の大地を旅してる気分を盛り上げる。
 標識に“上川”の文字が現れた。街なかで見た時には感じなかったが、この道をそのまま行けば一番走りたい三国峠が待っているのだ。けれども、俺の中で、上川側から十勝方向へ道を進みたかった。三国峠は俺の中で、北海道旅のメインイベントと位置付けていた。だから三国峠は、今日はお預けだった。
 鱒見トンネルの少し手前の右手、川の向こうの断崖絶壁を背にした石碑のような物が気になったが、停まる気分ではなかった。
 泉翠峡トンネルが終わって目の前が一気に開けた。右手に見えるコンクリートの巨大な塊が糠平ダムだった。
 糠平トンネルを抜けると温泉街が待っていた。糠平温泉だ。
 温泉街を過ぎると丁字路だ。右折が国道、直進が道道85号線・パールスカイライン。冬になると湖面に露天風呂が出現する然別湖に向かう道だ。
 今の俺の旅には関係のない道だった。
 白樺が道の左右に並木のように茂っていると信州の道を思い出した。しかし直線の抜けが信州とは違うところだ。 
 どんどんと山に入って行く。初めの方は、単なる山道に入っただけだと思っていたが、走るにつれ、山が深くなるにつれて、ここは北海道なのだ思える感覚になっていった。道の広さとどこまで続くのかという直線の長さがそうさせるのだ。
 人々が命を懸けて開墾したこの広大な土地で過ごす時間が増えるほど、この手つかずの豊かな自然に触れ合ううちに、ドンドンと俺の中に溜まっていた毒気が抜かれていく。
 法定速度で走っていると、何台もの車に抜かれていった。
 それで良かった。素晴らしい空間を堪能する時間が、俺には幾らでもあるのだから。
 心地好さが俺の身体を蝕んでいくのを感じていた。もう昔の俺には戻れないのだと、角度の違う悪と呼ばれる正義を、今はもう胸を張って貫けないのだと、善と悪の中間の少し善寄りに立っているだけなのに、俺の中に悪を嫌う気持ちが産まれていた。
 見るものすべてが、今までに見た物とは違う。そう思わせるものは何なのだろうか?
 地図で調べ、ググって調べ、曲がる場所は間違えない。音更川を渡って次の砂利道を右に入る。
 荷物を積んでいたら相棒のショックがいかれるんじゃないかと思うほどの凸凹道だ。
 紅い塗料の禿げた、横に長い両開きの鉄扉が姿を見せた。
 十勝西部森林管理署で借りた鍵で南京錠を開け、鎖を解く。その途端に左の鉄扉が自然に奥へ開いたが、蝶番が逆向きだったので中途半端に止まった。右の鉄扉は動かず止まったまんまだ。
 俺は左の鉄扉を手前に目一杯引っ張り開けて動きが止まったのを確認すると、相棒を門の中へ走り入れた。
 扉を閉めて鎖を巻き付けた。鍵はどうしようかと考えたが、鎖を巻き付けただけで動かなかったのでかけないことにした。
 そこから先の凸凹道は半端なかった。
 スピードなど出せる訳もなく、凹を出来るだけ避けながら駐車スペースに向かった。舗装などされていない駐車スペースには二台の車が停まっていた。俺は相棒を駐車スペースの前の硬い路面に停めて、降りて木っ端を拾って相棒を停めるスペースに置いた。上手く操って、相棒のステップを木っ端にのせて停めた。これでステップが重みで地面に埋まり、相棒が転倒する可能性が少なくなった。
 ミラーに被せたヘルメットが落ちないように、顎紐をしっかりとハンドルとブレーキレバーに通して固定して、グローブをその中に入れてシールドを閉めた。
 タンクバッグからペットボトルのお茶を取り出して、薄暗い森の、元は線路が敷かれてあった荒れた小径をタウシュベツ川橋梁へ進んだ。
 昨日までの雨で小さな川が流れているような道を、まだおろし立てのブーツがなるべく汚れないように気をつけながら歩いた。木漏れ日が感覚をおかしくした。
 もう少しでお天道様が降り注ぐ空の下に出ようかというところで、前から小学生の男の子を先頭に父親と母親の三人家族がやって来た。
 男の子はとても元気で羨ましい限り。俺は「こんにちは」と返すのが精一杯だった。
 やっと森の小径から抜け出て光の元に這い出てきた。
 右手先に糠平湖の湖面が見え、目の前は普通の河原があるようだった。
 歩みを進めると、砂利の敷かれた鉄筋が剥き出しの橋が現れた。いや、元からそこにあったのだが、カメレオンの擬態のように景色の中に息を潜めていたのだ。
 根元まで姿を現した橋梁の下には、ほとんど干上がった河原とチロチロと流れる川があった。
 川の上流側から橋梁を眺めると、干上がった川底部分に人が何人か歩いていた。
 ボーッとただ眺めた。
 それから荒廃したその姿をカメラに収めてまわった。
 流石に川底まで下りると上がってくるのが大変だ。疲れがまだ抜けきっていない状態で無理は禁物だ。土手から少し下りたところでシャッターを切った。
 湖側からもシャッターを切る。見たかった景色がここにあるのだ。
 近づいて、力石徹や矢吹ジョーのような白い橋梁に手を触れた。俺は少し興奮していた。気持ちは子供の頃のような昂りだった。
 水のある下流とは違い干上がった上流の湖底には、無数の切り株がまるで墓標のように存在していた。
 俺は何故だかその切り株達が気になって、少し大きめの石の上に腰を下ろし、左手のタウシュベツ川橋梁とその切り株達を交互に見ながら喉を潤した。
 ボトルを傾けると素晴らしい空があった。
 しばらく俺はそこから動けなかった。何を考えるでもなく、何を思うのでもなく、ただ、空っぽになっていた。
 さっきすれ違った男の子と同じ年頃の男の子と女の子の兄妹が、キャッキャキャッキャと話す声で、俺の静寂はかき消された。
 「そろそろ行くか」
 独り言を言って、俺は腰を上げた。
 何故だか俺は涙を流していた。
 ポケットからバンダナを出して涙を拭いた。
 小径が一層暗く見えていた。
 帰り道、上手く凸凹をやり過ごして鉄扉にはしっかりと施錠した。施錠してあったからだった。
 昂りはすでに沈静化していて、来た道を返す時も、心の中は無であるかのようだった。ただ、気になっていた断崖の前の石碑で、相棒の記念写真だけは撮った。
 上士幌の十勝西部森林管理署へ鍵を返してナイタイ高原牧場へ向かった。
 腹が減っていた。コンビニでトイレを済ますついでに食事を済ませても良かったが、ナイタイにあるテラスで昼食を食べることに決めた。
 ナイタイ高原牧場は最高な見晴らしだった。十勝がすべて見渡せる感じがした。人気があるのも頷けた。
 それに天気が良かった。俺の脳味噌は北海道ボケを起こしかけているようだった。
 ランチを食べて、そよ風に吹かれながらソフトクリームを食べていると、スマホに高岡ちゃんからメッセージが続けて届いた。時間は午前中のものだったが、今までWi―Fiが繋がらなかったらしい。
 『スマホ貸しときます。お金はいらないです』
 『一つだけお願いがあります』
 『旅の途中で、俺の実家に寄ってきてもらえませんか?』
 『青森に渡ったら場所教えます』
 『返信不要』
 俺はスマホをしまい、ガラケーが鳴らないのが気にかかった。
 一つ何か気になると、今まで見えていた景色がすべて違う景色に変わって見えた。何もかも色褪せていた。
 山を下りながら、俺はここにまた来たいと思った。
 道道806号線から道道337号線を通って帯広に向かった。
 途中にあった有名な白樺並木は砂利道だったので走らなかった。もう今日の砂利道走行はお腹いっぱいだった。
 国道とは違い所々で路面状態の悪さが目立ったが、さっきまで気にしていたものは、牧歌的な風景の中を走っていると、すべてどうでもよくなった。今、俺は北海道・十勝を走っている。ただそれだけで良かったのだ。
 この清々しい空間が、俺の過去までも綺麗に洗い清めてくれるとは思わないが、残り少ない予定の人生は何かしらの懺悔を込めた償いをすべきであろうことは、何となくわかってきていた。
 帯広新得線・道道75号線まで行って右折した。明日の予行演習だ。調子に乗って、夜中にポチッと、トマムの高級リゾートホテルを予約してしまった。対象から外れたのと、酔いと、多喜川への怒りの解消がそうさせたのだ。
 日高山脈を見据えながら直線路を走って行く爽快感。そして、所々にある緩やかなカーブに、俺の人生でこれ以上の心地好さはないのではないだろうか、旅の終わりと共に死ぬことが正しいのではないかと、色々思いを馳せた。
 然別川を渡ると反対車線には音更町のカントリーサインがあったが、こちら側には何も設置されていなかった。
 芽室町に入っても、会社の名前や表記には帯広の文字が使われているものがいくつもあった。道内でも全国区でも、芽室の名前はネームバリューに乏しいということだろうか?俺は芽室の町も好きだった。
 清水町のカントリーサインは突然現れた。
 町の鳥であるウグイスのキャラクターが描かれたカントリーサイン。カメラに収めて先に進む。反対の車線には芽室のカントリーサインがあった。
 カントリーサインを越えてすぐの十字路、道道734号線を左折する。
 国道38号線を突っ切り、神戸にある駅名と同じ“御影”駅のロータリー手前で右折。清水大樹線を突き当りまで進み左折して、清水円山展望台へ向かった。
 清水丸山展望台は清水町営育成牧場の中にあった。
 途中から砂利道になった。ここまで舗装路を通ってきたせいで、また砂利道を走ってもいいかと思えた。なんとも現金な思考回路だ。清水円山展望台は、俺の旅の目的地の一つだったからだ。
 タウシュベツ川橋梁へのあの凸凹道を制覇したあとだったので、凸凹が少なく砂利がふかふかして滑りやすい以外は、特段気に病むことなく目的の展望台に着いた。
 人っ子一人いないここからの眺めは最高で、ナイタイ高原牧場ほど標高は高くはなかったが、とても落ち着く素晴らしいものだった。俺はすごく気に入った。この景色を全て独り占めしている贅沢は、代え難いものなのだと思った。
 コンロを出してコーヒーでも、と一瞬脳裏に過ったが、火気厳禁にした方が良いだろうと、飲みかけのペットボトルと上士幌のコンビニで買ったお茶で景色を堪能した。
 何も考えられなかった。何も考える必要がなかった。
 ただボーッとしているだけで良かった。
 その静寂を劈くようにガラケーの着信音が鳴った。津田からだった。
 昨夜遅く、厚岸の宿にいた高橋吉雄を逮捕して、今朝から帯広署で取り調べたところ、高橋はすべて自供した。そう津田は言った。
 「あなたの推測どおりでした。公衆電話を使ったのはスマホの状態が悪く、しかたなく庶野の公衆電話を使ったそうです。待ち合わせ場所も豊似湖でした。思っていた以上に朝から観光客が多くて、しかたなくあの場所に移動したと供述しています。日頃から松村に対して良い感情は持っていなかったが、殺す気など毛頭なく、今回作業中の事故で負傷した者の処遇を巡って揉めたのだそうです。そして、今回の事故の原因をその負傷した者のせいにされ、その上に迷惑料を請求された。それが殺害の原因だそうです」
 「そうですか」
 松村らしい死に方だと思った。弱者も追い詰め過ぎれば牙を剥くのだ。
 「松村は高橋に言ったそうです。都会と違って田舎は生きるのに金はかからないだろうって。悔しかったと高橋は言ってました」
 「そうですか」
 「あと、高橋が、あなたに危ない思いをさせてすまなかったと言ってました」
 「やっぱりあの道に右折した時に、俺やって気づいていたんですね」
 「そうです。あなたのバイクが前から来るのがわかったので、うしろにあんな奴がついて来てることも忘れて、見られてはいけないと急いで曲がったのだそうです。砂利道でゆっくり走っていたのは、あなたが転倒していないか心配になったからだと話していました。あなたにあの交差点で見られていたので、こうなることはわかっていたとも言っていました」
 俺はただ黙って聞くだけだった。
 「どうしました?体調が良くないのですか?」
 「いや、俺はいらぬことをしたんやないかと思ってね」
 「けど、あなたが動かなければ、あなたの嫌疑も晴れなかった」
 「うーん。それはそうやけど……」
 「あなたが動かなければ、こうも早く、事件は解決しなかった。動かなければ、高橋さんはずっと、後悔の念に絡み取られて生きることになっていたのですよ」

 コンビニでサッポロクラシック500を三本と安ウィスキーを一瓶買って、今夜はホテルで一人飲みだ。
 ツマミは、満寿屋パンで買ったチーズパンとカレーパン、高橋まんじゅう屋で買った大判焼きチーズと肉まん。
 別に帯広の夜はこれで最後になるわけではない。これからの旅の中で帯広には幾度か泊まることになるだろう。北海道をくまなく旅しようと思うと、ハブ空港的な役割が、札幌、旭川、帯広、釧路、函館のそれぞれの都市にあるように思うのだ。
 PCを立ち上げて、デジカメから画像を送った。
 北海道に来て最初の船の中から撮ったオレンジ色の苫小牧東港から、今日の最後に撮った満寿屋本店の写真までを見返した。
 俺の心の動向が見て取れる写真の並びだった。徐々に北の大地に感化されて、昔だったら撮らない、いや、撮れないと思えるショットまであった。
 時系列で並んでいるから、すべての出来事が写真と共に蘇ってくる。
 彩香(サヤカなのかアヤカなのか?)とウトナイ湖の道の駅で出会った時のこと、何故彼女に魅かれたのかはわからない。
 松村も生きていて、中途半端に粋がっていた
 高橋だってあの時は殺人犯ではなかった。
 たった一週間ほどの旅で、これほど多種多様な出来事に遭遇するなんて想像だにしなかった。
 俺はこの旅で何を学ぶのだろうか?
 思考や思想、生き様や感覚なども、撃たれた前と後のように変化するのだろうか?
 相棒と断崖絶壁の前にある石碑の2ショットだ。
 上士幌町のHPに石碑の説明がなされてあった。
 音更山道碑というらしい。
 十勝開拓の建設資材を得るために、多くの囚人が行った難工事を記念して建てられた碑。糠平湖底の大樹海を釧路監獄の囚人の斧によって伐採し国道糠平街道は誕生する。伐採された木々は十勝開拓の建設資材にあてた。と、書かれていた。
 俺は干上がった湖底に現れていた切り株達が、墓標に見えたのは間違いではなかったような気がした。
 明日からも、世界は何事もなかったように動いていくのだろう。
 ウィスキーも空になった。
 俺は明日から富良野・美瑛を楽しむ旅だ。もう面倒はこりごりだ。
 イイ感じに、今日は酔えている。
 携帯がチロンと鳴った。ショートメールが届いた音だ。
 『今日、髪を切りました。見て欲しいから写真送りたいです。彩香』
 俺は、明日、起きてから考えようと思った。




   ロング・ロング・ロング・ロード 十勝の空 編   fin

ロング・ロング・ロング・ロード Ⅱ 道東の霧 編へ続く


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