ロング・ロング・ロング・ロード Ⅱ 道東の霧 編 5
国道244号線は、俺を馬鹿にさせた。
果てのない世界に一本だけ通っている道。
他の乗用車やトラックが走っていなければ、独り相棒で走ることが恐ろしくなるような道だ。異世界感が満載だった。
青い空、白い雲、両側にある緑。それらが永遠に何処までも広がっている。
対向のトラックが吐き出す排気ガス臭がなければ、風の匂いさえも、現実とは違った香りを放っているのではないかと思わせるほどだった。
そんな景色も濤沸湖の終わりとともに薄らいでいったが、街を過ぎると広大な景色が続いていた。
何度か直線とカーブが続き、もう少しで天まで続く道になる手前で、急に俺のカンが働いた。ここを曲がれば楽しそうだと、道道769号線への入口でビビッときた。
だが目の前に梟の斜里町のカントリーサインが立っている。異世界感満載の小清水町と斜里町の境界線だ。カメラに収めてから車列の切れ目を待ってUターンした。
斜里町のカントリーサインと出逢ってから俺は津田の顔を思い出した。一緒に川口の顔も浮かんできたのは余計だった。
防風林を突き抜けるように道道769号線は真っ直ぐに走っている。視界が開けても直線の終わりは見えない。どうも、十勝よりも防風林の間隔が広いようで、視界の開け方が半端なくデカかった。道央や十勝とは明らかに違った。
舗装の悪さだけが玉に瑕だったが、この道も俺を馬鹿にさせた。安全に走行させる以外の思考機能が停止して、俺は“無”になっていた。
やがて随分先にチラホラと建物の影が見え始めた。
すると、俺の頭はフル回転を始めて、気分の良いことから悪いことまで思い起こさせた。
(何故、朝井は俺を弾いたのだろうか?)
いくら考えても、誰に訊いても理由がわからなかった。最後に沢木に会った時も、「わからない」と言うだけだった。
「もうお前は生まれ変わったんや。昔を捨てて前だけ見て生きろ」
そう優しい言葉を最後に沢木は俺の前から姿を消した。
不思議なことに、組の奴らや部下は誰一人見舞いに来なかった。来るのは顔馴染みの府警の時任だけで、連絡を取ろうにも俺のスマホは現場の混乱の中で紛失していて、時任も顔を見せる度に知らないかと俺にしつこく訊いた。
特別室だった俺は看護師に手伝われながら退院の準備をした。クローゼットに吊るされていた着慣れたスーツに身を包み、随分あちらこちらに余裕が出来たと、テレビ以外世間から切り離されていた入院生活を振り返った。
吊るされていたスーツの下、革靴の隣に置かれていたボストンバッグの中には財布と着替えが入っていた。昨日、退院の準備の為に中身を整理していた時、着替えの一番奥に俺が履くことなどなさそうな新品の白のブリーフが入れられているのを発見した。俺は捨てていこうとそれを取り出そうと引っ張ると、その中には何かが包まれているようだった。中にあったのは新品のスマホだった。アドレスが空なので誰とも連絡を付けるすべはなく、入院最終日にやっとネットが今までのように使える環境になっただけだった。それを最後にスーツの右ポケットに入れた。
これで準備万端と思っていると、手伝ってくれた看護師が反対側のクローゼットにも荷物があると言った。
それまで開けたこともなかった反対の扉を開けると、そこには見慣れたキャリーバッグがあった。俺が時々使っていた物だった。
看護師が言うには、すべて俺の会社の部下だという三十歳ぐらいの丸顔でがっちりした体格の“門倉”という男が運び込んだらしい。名刺を見せてもらったが、俺のやっている会社の一つだが、誰なのか思い出せなかった。
中を確認したかったが鍵がないので開けられなかった。どうせ家に帰ればこんな鍵など簡単に開けられる。ボストンバッグを載せて運べるのはありがたいと思った。
医師から今後の説明を受け、退院の手続きで会計係が部屋にやって来た時に、預り金で1000万円が入れられていることを知った。返金は740万円と少しだった。
俺はボストンバックに無造作に放り込んで病院をあとにした。
タクシーでマンションに着くと、金庫が見事に開けられていて、中にあった登記簿や実印、会社の通帳や銀行印などごっそりとなくなっていた。
スーツのポケットに入っているスマホが震えた。
当たり前だが番号だけが並んでいた。
「はい」
「退院おめでとう」
沢木の声だった。
「ありがとうございます」
「あのなぁ、ぜんぶ俺が処分した。組もばらしたわ」
俺は沢木が何を言っているのかを瞬時に理解することが出来た。
「そこの家賃は残り四年分は払い込んであるんやろ。一本と片手、その引っ張るのに入れといたから、それで先ずは身体を直せ」
そう言って電話は切れた。
着慣れたスーツがかかっているのを見た時から何かあると思っていたが、ここまでのことになっているとは想像していなかった。たった一本と片手、キャリーバッグに入っているという1500万が、俺の最終的な取り分らしかった。
怒りよりも呆れただけだった。所詮ヤクザとはこんなものなのだ。今までも切り捨てられていった奴らを何人も見てきた。自分の身にも降りかかるかもしれないことは重々承知だった。
俺はキッチンに行って冷蔵庫の野菜室を開けた。中にある腐った野菜を取り出してごみ箱に捨てた。ほとんど料理などしない俺が、野菜を入れてあるのはカムフラージュで、野菜室自体を取り外すと、奥に空いた空間に隠して張り付けていた袋を取り出した。やけに軽かった。
中にあるはずの油紙に巻いたS&Wだけがなくなっていた。
朝井が手にしていた拳銃は、朝井が好んでいるグロックではなかったのは覚えている。とすると、朝井はここから持ち出したM39で俺を弾いたというのか。
やはり、朝井が俺を弾いたのも沢木の指金ではなかったのかと疑いが再燃していた。その思いは、徳永が東京から見舞いにくるまで続いたが、何か出来るほどその頃の俺には気力も体力もなく、ただ一日一日を過ごすだけで精一杯だった。
残りの通帳や様々なデータの入ったUSB達は無事だった。
だから今こうして旅をしていられるのだ。
走馬灯のようにそれらが流れたあと、道道769号線は斜里の街中を通り、知床斜里の駅前を過ぎて道の駅へと続いていた。
スタンプを押したあと、しばらくの間、水槽の中でクリオネの泳ぐ様を見ていた。
しれとこ斜里ねぷたの山車の前で、津田に連絡してこの辺りで美味い物はないかと訊くことを考えたが、態々連絡するほど腹は空いていないことに気がついた。体調が良いのか悪いのか、自分自身把握出来ない日があるのだ。
相棒のところへ戻って地図で再確認した。本来なら国道244号線から途中の国道391号線へ右折して、清里町札弦にある道の駅に向かう予定だった。それが惚け過ぎて斜里に来てしまっただけなのだ。
国道334号線で南下して、道道1115号線に入って道なりに行けばよかった。神の子池はまだその先にあった。一本道なのは曲がるところを気にせずに走れるので嬉しかった。
清里町のカントリーサインも無事撮り終えた。
それにしても北海道は、何処を走っても直線路があった。誰かが言っていた「眠くなる」という気持ちは理解出来た。
道の駅パパスランドさっつるでスタンプを押して、神の子池へ向かうためにパンフレットや観光地図を見ていた。すると道の駅の男性職員が近寄って来て、丁寧にも神の子池への行き方や、道道から入った先には凸凹道の砂利道が2キロほど続くこと、そして最後に「バイクは本当に気をつけて下さい」と言って送り出してくれた。
仕事とはいえ丁寧な応対だった。みんな、俺にはない秀でたものを持っているのだと、ふと思った。
神の子池までは気持ちの良いカーブがある山道だった。
ずっと先に行けば、裏摩周展望台があるらしい。あの美しく心洗われた風景を、今度は反対側から見ることが出来るのだと思うと心躍った。
男性職員が話してくれた通りで、神の子池へ入る道の入口には看板が立っていた。
アスファルトは道道部分だけで、すぐに砂利道が始まった。
タウシュベツ橋梁へ向かう砂利道も大概酷かったが、こちらの道も負けてはいなかった。何度も凹に落ち込んで、タウシュベツ橋梁の時よりも凹の削れ具合が深かった。
やっとの思いで駐車場に辿り着いた。車が二台停まっていた。旭川と札幌ナンバーのレンタカーだった。砂利の地面は不安だったので、スタンドの下に木っ端を置いて相棒を停めた。
俺は、鳥のさえずりと木の葉が揺れて触れ合う音しか聞こえない、今にも羆が現れそうなひっそりとした白樺の小径へ足を進めた。
池に近づくと女性の声が聞こえた。そして、もっと奥から子供が父親を呼ぶ声も聞こえてきた。
珍しく日本語だけだった。
神の子池は碧く澄んでいた。
クルリと一回りして写真を撮ったあと、気に入った場所から俺はその碧を眺めた。
純粋に綺麗だと思える自分に驚いた。
昔なら、こうやって綺麗なものを観ていても、すぐに多くの現実がその前を横切っていた。純粋さなど微塵もなかった。押し寄せる現実に、どう巧く対処対応していくか。それが俺のメシの種で、俺自身そのものだった。今は何も押し寄せてくるものはなかったし、その場その場で凌げばそれで良かった。ただ、空っぽの自分の中に、こうしてじわじわと侵食してくる今までにはなかったもの達に、少し怯え、少し楽しく、少し喜び、日々を過ごすだけだった。
ガラ携を取り出して時間を確認した。アンテナは一本も立っていなかった。
凸凹道を巧みにハンドルとアクセル、クラッチを操作して、転倒することなくアスファルトがひかれた道道まで出た。もう砂利道は懲り懲りだという思いを胸に刻んだ。
クラッチの音がキュルからキュルキュルへと進化していた。
もう俺にも相棒にも、裏摩周展望台へ向かう気力は残っていないようだった。そろそろ相棒を修理に出さねばと思った。
来た道を返し、国道244が334と合流する交差点で燃料を入れて、俺は天に続く道・国道334号線を知床半島に向けて相棒を走らせた。
知床半島に入ると道は海沿いに走っていた。
気持ちが良かったのだが、海風が俺の身体から熱を奪っていった。
途中、オシンコシンの滝の茶店で堪らずに暖をとった。店内は暖房が効いているのか暖かかった。ホットコーヒーと甘いお菓子を買ってそこで休憩した。
身体に熱が戻った俺は、滝を見学した。
アイヌの民も見惚れたのだろうかと、舞う飛沫を浴びながら考えた。そんな考えたところで答えの出ないことに思考の領域を使えるなんて、なんと愉快なことだろうと笑えてきた。
階段を下りる途中で、何故か不足していた力がチャージされているように感じた。不思議な感覚だった。
そこからウトロまでは海と緑に挟まれた中を走った。
道の駅でスタンプを押してウトロの街を軽く流した。
どこもかしこも俺を楽しませてくれた。好きになれそうな気がした。
宿へ向かうとホテルとは名ばかりの民宿風だった。
部屋は小綺麗で、ユニットバスもあって良かったが、荷物を運ぶのに狭い廊下と階段があって苦労した。
白いペンキを塗りたくったようなテーブルの上でPCを開けて、相棒の修理が出来そうなショップを選んだ。
一番近いのはタイヤを交換した帯広のディーラーだったが、ディーラーは余分な在庫を極力置かない。ここは個人店のショップの方が中古部品でも早く直る気がしたので、天気予報を見てから本格的に探すことに決めた。
明日、道東以外は雨。明後日、知床は雨。明々後日は、朝から道内全域晴れ予報だった。
調べると、旭川にショップが多かった。帯広よりも30キロ遠かったが、もう北海道の距離感に染まっていた俺には大差がなかった。
電話を入れて、一先ずは開けて見てからだの結論に至ったのは当然だった。
これで取り敢えずはOKだった。もし途中で止まっても、レッカーで最寄りのディーラーへ運ばれる手筈は、旅の前に整えていたからだった。
PCを閉じてカバーを閉じようとした時、何かがカバーに引っ付いて、ベリッと剥がれる音がした。見ると、この旅のために買ったばかりの黒いカバーに薄っすらと白いペンキがついていた。最悪だ。昔なら宿の主人を呼び付けて、詰めて詰めて、落とし前をキッチリとつけるところなのだが、もう俺にそんな面倒を楽しむ気力がなかった。持ってきたウェットティッシュがなくなるまで拭きまくっても完全には落ちなかったので諦めた。
この宿の周りには食べ物屋も居酒屋もなく、相棒を休ませるためにもこの宿のレストランで晩飯をと思っていた。しかし、ここでこれ以上一円も落としたくはないと思ったので、晩飯の仕入れのために相棒に火を入れた。道の駅は閉まっていたのでセコマでワインとツマミを買って帰った。
呑みながら明日と明後日の宿を探した。
ここにも空きはあったが、ここに泊まるのは嫌だった。ゲン直しに、ゴジラ岩のうしろに見えた大きな観光ホテルで贅沢しようと思った。
上手い具合に空きはあった。二泊で五万円オーバー。それでもここでの嫌な気分が張らせるならと思ってクリックした。
朝から天気が良かった。
部屋は一階で、カーテンを開けっぱなしで寝たので、海岸を散歩する人達には丸見えだったと気づいたのは、外にある階段を下りて来るおじさんと目があったからだった。
俺はカーテンを閉めてシャワーを浴びて身支度をして宿を出た。
暖機しながら荷物を積んでいる最中、少し異音がするのに気がついた。探ってみると前のマフラーステーの溶接部が外れていた。昨日の神の子池までの悪路で、知らぬ間にマフラーを突いたのだろうと思った。
兎に角ここを出ようと思った。
空の青は少し霞んでいるようだったが、知床半島を巡る観光船に乗ろうと決めた。
観光船の発券所でチケットを買ってから、二晩世話になるホテルに行って荷物と相棒を預けて身軽になった俺は、郵便局で軽くなった財布に金を入れた。銀行と郵貯に分散するのも忘れていなかった。銀行やコンビニのない町でも郵便局だけはあるものなのだから。
朝飯はまたセコマだった。味付筋子のおにぎりとビールが今日の朝飯だ。
コンビニの前で飲食するなど高校生以来だったが、筋子のおにぎりがとても旨かった。サッポロクラシックも心地好く喉を流れていった。
観光船乗り場まで、ビールとワインとツマミが入ったコンビニ袋をぶら下げながら、俺はのんびりと歩いて行った。今日のゴジラ岩も立派で、ゴジラ岩の上には海鳥が何羽もとまっていた。
知床岬の航路の出港までは少しあったが、ウトロの街並みを見ながら乗船出来るのを待った。
のんびりと往復四時間近くの船旅だった。俺は乗り込むと右舷のサイドデッキの席を陣取って、知床を満喫することにした。
いくらバイクに乗る時と同じ服装だといっても、出港すると寒いのではないかと危惧していたが、道北・道東対策の服を着ていたのでそんなことはなかった。カムイワッカの湯の滝を過ぎてヨウシペツの滝が見えた頃には、ほとんどの年寄りが「寒い、寒い」と船内の席に移っていった。
寒さを感じてきたら呑もう。そう思ってセコマで買い込んだサッポロクラシックやワインが心強かった。
俺はもう二度と見ることはないであろう知床にシャッターを切りまくった。
まったく便利な世の中になったものだ。SDカードの許容量が許す限りドンドンとシャッターを切り、あとでゆっくり選別をして消去すれば問題がなかった。一枚一枚が勝負になるフィルムの時代は、とうの昔に過ぎ去ってしまっていた。
俺は写真を撮ることに夢中で聞きのがしていたが、「羆が見えます」と放送があったらしい。
何人かがドアを開けて、風流れるサイドデッキに出てきた。
俺は出てきた人達の会話から羆を探した。
確かにいることはいるのだが、俺の持っているコンデジでズーム一杯にしても、「ああ、いるな」程度の大きさだった。岸までの距離があり過ぎた。
「見えますか?」
不意に声をかけられた。どこか聞き覚えのある声とイントネーションだった。
のろっこ号の白いダウンを着た彼女だった。今も白いダウンジャケットを着ていた。
「ああ、こんにちは」
そう言うしかなかった。まさかもう一度巡り合うなど予想だにしなかったことなのだ。
「奇遇やね」
奇遇はわからない様子だった。
「見る?」
俺は上手く羆に照準を合わせて、モニター越しの羆を見せた。
彼女から薫る髪の香りはシャンプーの良い匂いで日本人女性と何ら変わらなかった。伽奈の最後のひと抜きがなければ、俺は冷静ではいられなかっただろうと思った。
「あっ、これね。小さいね」
「距離があるからね」
モニターの左上のバッテリーが赤く点滅をしていた。
彼女も満足したようで、羆のいる方向を裸眼で見つめた。
俺は急いで予備バッテリーに交換した。しかし、予備バッテリーは充電されておらず、残りひとメモリだけだった。
昨日、あのペンキの一件で、充電することをすっかり失念してしまっていたのだ。充電のアタッチメントも置いてきた荷物の中にあった。ますます、あの宿が嫌いになった。
気がつくと、横に座った彼女が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫」
そう俺が言うと、彼女は満面の笑みを俺に投げてくれた。怒りの感情はどこかへ消えていった。
「釧路以来やね」
「はい。そうです。釧路以来です。あなた何してますか?」
何してますか?なんて、どう答えればいいのだろうか?俺は少し考えて、彼女にもわかってもらえるように、身振り手振りを大きく使って会話することにした。
「バイク。オートバイでトリップいや、ジャーニーしています」
「おお、スズキですか?」
俺はスズキが彼女の口から出てきて驚いた。彼女の好きなアニメの中にスズキが出てくるのだろうと思った。
「スズキではありません。ハーレー・ディビッドソンです」
「あーあ。すごいですね。一人ですか?」
彼女はどこで怪我をしたのか、北海道でいうサビオを巻いた人差し指を立てて言った。
「そう、一人です。あなたは、何処へいっていましたか?」
「ああ、ワッカナイへ行って……。いや、アサヒカワ?へ行って。稚内へ行って。今日は知床を見て、バスでネムラ行きます」
なるほど、知床を横断して根室までか……。そう思っていると、彼女は不安そうに俺を見詰めた。
「ああ、根室に行くんやね」
「そうです。ネム、ロ行きます」
そんな会話がしばらく続き、彼女は俺のことを根掘り葉掘り聞いたので、俺は丁寧に質問に答えていった。
「あなたお金持ちね」
それが一般的な感想なのだろう。金持ちならこの旅の終わりに、自分自身をどうケジメをつけるかなど考えないものだ。
「そんなことはないよ。すべてを捨てて旅をしているだけ。お金は持っていないよ」
「すべて、捨てて……」
少し黙り込んだあと、俺の言葉を理解した様子で、彼女は親指を立て、
「ワタシも同じ」
そう淋し気な笑みを浮かべた。
彼女のその表情がどういった類のものなのかはわからなかったが、俺はそのままやり過ごすしかなかった。
俺は、横にヒップバッグと一緒に置いてあったコンビニのビニール袋から安ワインを取り出してスクリューキャップを開け、そのまま一口分、ボトルに口をつけずに流し込み、そのまま口内から喉に流し込んだ。
彼女はそれを見て、「ワタシもいいですか?」と言うので、俺は彼女にボトルを渡した。
彼女は俺を真似して、器用に瓶口に唇をつけないように口に流し入れた。
それでも少し量が多かったようで、俺は準備していたバッグの中にあった手拭で彼女の口元を急いで拭った。彼女の白いダウンジャケットは赤ワインから守られた。彼女は恥ずかしそうだった。
「ありがとうございます」
「良かった。服が染まらなくて」
彼女は少し考えてからニコッと笑った。
「ちょっと待ってて」
俺は彼女にそう言って船内に入り、売店で紙コップをわけてもらった。
戻って来て、彼女に紙コップに注いだワインを手渡した。
「ありがとうございます。優しいですね」
俺ももう一つの紙コップに注ぎ入れると、彼女は乾杯してきた。
紙コッブが唇に当たる感触に味気なさが湧きたったが、彼女と並んで呑んでいるからか、喉ごしは爽やかで美味く感じた。
それからは時折会話するぐらいで、人の踏み入れない知床の自然を眺め、バッテリーを気にしながら写真を撮った。
カシュニの滝が現れてきた。もう少しで知床岬の先っちょだ。来た後ろを振り返ると知床岳が綺麗に姿を見せていた。
彼女もすべてを見逃すまいと必死のようだった。
木々の茂った台地が続き、いきなりそれが終わると草原が続いていた。これが知床半島の、北の大地・北海道の先っちょの一つだった。
よく見ると、その先っちょを守るかように、海岸には無数の大きな岩が乱立していた。
俺は夢中でシャッターを切っていた。
しかし、彼女はただただ、その景観を眺めるだけだった。
俺は、彼女が死のうとしているのではないか。何故かそう思った。
先っちょを充分見せたあと、船は旋回を始めた。
「向こうに行きましょう」
彼女がそう言って俺の腕を掴んだ。
彼女に促されるまま、俺は荷物と紙コップを大事に持って、左舷のデッキに向かった。
彼女は俺の腕を離さなかった。
左舷のデッキに着くと彼女は俺の腕を離し、荷物と空になった紙コップを椅子に置いた。
「一緒に写真。いいですか?」
そう俺に言った。
「う、うん」
俺は彼女の圧に負けた感じだった。
彼女は素早く鞄からスマホを取り出すと自撮り棒にセットし、俺に腕を絡ませて並んだ。
俺は彼女の身長に合わすように屈んだ。
二人のバックは綺麗に見える先っちょだった。
俺の右頬が彼女の左頬と触れた。少しドキッとした。
彼女が確認しながら何枚か撮ったが、最後の一枚は、右頬に当たる感触がさっきまでとは違った気がした。
「撮った写真、俺のパソコンに送って欲しい」
「? スマホないですか?」
俺は横に置いたヒップバッグからガラ携を取り出して彼女に見せた。彼女の反応は、日本人のそれと同じだった。
彼女にアドレスを教えて写真を送ってもらう約束をした。
帰路は山々に霞がかかっていた。海霧が上ったものだと、隣のじいさんが横のばあさんに話していた。
行きは綺麗に見えていた知床硫黄山、南岳、羅臼岳の山々も頭を隠していた。
そのかわり、十分ほどイルカの群れが船と並走してくれたり、チャカポイ岬の断崖絶壁の上には肉眼で見える羆がいたりして、十二分に船旅を楽しませてくれた。
もちろん、俺の隣の彼女のお陰が大半だったが。
楽しい船旅は幕を下ろした。
彼女が乗るというバスまで見送った。ツアーバスのようだった。
バスに乗り込む前に、彼女はアクセルを開ける真似をしながら、「気をつけてね」と言った。
俺は、「ありがとう。また何処かで」と言った。
俺は他の上客が少しずつ乗り込む中、彼女の席が左側だと確認して手を振ってから駐車場をあとにした。
俺は小走りでトンネルを抜けてゴジラ岩の近くで彼女が乗ったバスを待った。
バスはすぐにやって来た。
俺は彼女が座っている辺りを目掛けて大きく手を振った。
しかし、光の加減でガラスが光っていて、彼女がちゃんと見ているのか確認どころか影すら認識出来なかった。
それでも俺は彼女のバスが見える間は手を振った。
わからないが涙が流れた。
もう二度と彼女の笑顔に会うことはないのだろうと思ったからだと考えがまとまったのは、カモメがすぐ上を飛び交う、宿の露天風呂に浸かっている時だった。
ホテルは値段の割に部屋がお粗末だったが、この屋上の露天風呂は気に入った。夕食の時間までをここで過ごした。
腹を空かせてビュッフェへ向かった。
海外の旅行者がほとんどだった。一度皿にのせたものを、量を減らすために元に戻すのを見てとても嫌な気分になった。
ひと通り少量ずつ食べてみたが、それほど旨いと思えるものはなく、旨くはないがステーキだけは肉というだけマシだったのでそれをビールで流し込んだ。
部屋に戻るとガラ携が光っていた。
伽奈だった。五秒の着信とショートメールが三通きていた。一通は船に乗っている昼時、二通目は風呂に浸かって飛び交うカモメをボーッと見ていた頃、着信と最後のメールは飯を食っている最中のものだった。
――すみません。いつでもいいので連絡待っています――
――どうですか?これ、誠さんの携帯ですよね?ちょっと不安で、ちょっと怖いです。連絡待っています――
――彩香さんとは連絡がつきました?許してもらえるなんて思ってはいませんが、どうしてもちゃんと謝りたいので伝えて頂けますか。連絡待っています――
俺はセコマに呑み足らない分を買い出しに向かった。その道中、伽奈に電話をかけようと思ったが、まだスナックの準備係をやっている時間だったので、彩香に電話をかけてみた。
2コール目の途中で出た。俺はびっくりした。
「もしもし」
――はい……――
「誰かわかる?」
――うん、わかる……ウェーン――
文字だとカタカナになるような泣き声だった。
「彩香どうした、何かあったんか?」
――サヤカって呼んでくれた、アーッ――
彩香がちゃんと言葉を発せるようになるまで、俺はセコマでサッポロクラシックの500を一本買って、じっくりと呑みながら待った。
半分ほど喉を通った頃、やっと嗚咽が治まってきた。
「大丈夫?」
――ごめんなさい。かかってくるなんて思ってなかったから、ヴェーン――
やっと泣き止んだと思ったら、彩香はまた泣き出した。
昔の俺からは考えられなかった。女が泣こうが喚こうが、俺は俺の用事を、ただ済ますだけだったのだ。
まったく俺はどうなっていくのだろうか?
最後の時に未練がましくなりたくはない。そう思っていた。
よろしければ、サポートお願い致します。全て創作活動に、大切に使わせていただきます。そのリポートも読んでいただけたらと思っています。