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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅰ 十勝の空 編 8

 坊主頭が、花押会の高峰と共に、エレベーターから降りてきたのだ。
 (どうして、あいつが?)
 もうずいぶんと会っていないが、はっきりと高峰だとわかったのは、左頬についている刀傷が昔のままだったからだ。
 その傷は、若い頃の出入りの時についた傷だと、高峰自身は自慢気に言っている。しかし本当のところは、抗争が怖くてシャブを打ち過ぎた兄貴分が、トチ狂って暴れた時についた傷だった。
 今、松村は尾塩組系列と付き合っているはずだ。銀盛会が二つに割れて、花押会と尾塩組は、いまや反目。俺の感じた松村の印象からは、とても二つの間でバランスをとって生きられるほどのタマだとは思えない。
 松村の印象?もしかして、津田は、このことを言っていたのだろうか?
 すると、徳永はガセを掴まされたというのか?
 まだ松村と高峰の間にしっかりとした繋がりがあって、高峰の指図で尾塩組、しいては東京の霜島組と繋がりを持とうということなのか?それとも、高峰自身か、花押会そのものが、反目に寝返ろうというのか?いや、高峰は多少金への嗅覚が強い程度で、それほどの絵を描ける能力も人望もない。どうして、わざわざ松村ごときのことで、北海道まで飛んで来ることがあるのだろうか?少しでも金になると踏んでのことだろうか?
 何か嫌な流れの中に、知らぬ間に投げ込まれた気分になった。
 ここはしっかりと見極めて、松村殺害の本筋を見つけなければならない。俺が俺らしく、俺らしい旅をし、気持ち良くこの身とオサラバするために。
 二人はエレベーターホールから通りに面した自動ドアに向かった。いつの間にか外には黒っぽい色のセダンが停まっていて、男が二人、高峰のところの若いのかこっちで世話になっている組の人間なのか知らないが、ハザードが点いた車の後部座席のドア横で、主人を待つべく傘をさして直立不動で待っていた。
 このまま出て行かれたら、今日はここまでだ。そう思いながら二人の背中を目で追った。すると、若いのが開けた後部座席のドアから車に乗り込んだのは高峰一人で、坊主頭は高峰の乗り込んだドアに向かって、雨に濡れながら九十度でお辞儀をした。
 坊主頭のお辞儀は、高峰の乗った車が発車してもしばらく続いた。
 俺は急いで自動ドアの近くまで移動して、傍にある観葉植物に身を隠し、坊主頭が入って来るのを待った。最初が肝心だ。上からいくか、下からいくか。こういう状況で、俺に一度やり込められた経験のある坊主頭には、上から咬ましたほうがことがスムーズに話は進む。
 坊主頭は、一仕事終えた後の、気の抜けた顔で自動ドアから入ってきた。
 「久し振りやなぁ」
 俺の声で振り向いた坊主頭は、ギョッとした驚いた表情を見せた。
 「な、なんやお前は」
 震え声の坊主頭は、ズボンのポケットに右手を突っ込んで、何かを掴むと薄っすらと安堵の表情を見せた。
 「こんなところで物騒なもん出さんといてくれよな」
 「な、何の用や」
 「俺に用があるのは、お前の方ちゃうんか?」
 坊主頭の頭の中は今、混乱をきたしている様子だった。
 「ちょっと付き合えよ。そこで飲んでるねん」
 俺は坊主頭が逃げられないような距離を保って、俺のテーブルまで誘導した。
 坊主頭はまだ混乱の中にいる。だが、表向きはイラついているぞとばかりにテーブルの下で貧乏揺すりをしている。
 なるべく穏便に進めたかったが、こんな時の初っ端は、相手が引くほど強引にことを進めるのが鉄則だ。
 「さっきの花押会の高峰やな」
 ギョッとした顔をした坊主頭は吐く言葉を忘れたようで、俺に視線をあわせたまま口を半開きにした。そして、少し頭を回転させて言った。
 「ち、ち、ちょっと、ト、トイレに」
 ここを離れて高峰に電話するつもりだ。
 「まぁまぁ、落ち着けや。このまま高峰に連絡したら、お前には都合が悪いんと違うか」
 「どういうことや」
 俺はウェイターを呼んでメニューとグラスを持ってこさせた。
 「俺の奢りや」
 俺は坊主頭の返事も訊かず、坊主頭の前に置かれたグラスにワインを注いだ。
 どう対応して良いのかわからないまま坊主頭は、おしぼりで頭を拭いて、それからメニューを開け、よほど腹が減っていたのか豚丼と十勝の幸ラクレットを注文した。高峰は相変わらずケチ臭い、飯ぐらい喰わせてやりゃあ良いのにと、俺は腹の中で苦笑した。
 「まずは乾杯しようや」
 俺が黙ったままグラスを掲げると、渋々、坊主頭は乾杯に応じた。
 「再会を祝して」
 じっと視線を合わせたまま一口飲んでから、迷いのある坊主頭に口火を切った。
 「俺が松村進を殺したってガセを、ポリに歌うたらしいな」
 昔取ったなんちゃらで、ドスの効いた声でさらりと言う。
 花押会の高峰を知っていることから坊主頭は、目の前にいる男がどんな人間なのか?自分が今どうすれば正解なのか?を自問自答している。
 「めっちゃ迷惑してんねやぁ。どうしょうか?」
 一瞬俺に睨みを利かせたあと、すぐに視線を降ろした坊主頭のこめかみに一筋汗が流れ、それがキラリと光った。
 「なんで今頃、高峰とよりを戻してんの?」
 顔を上げた坊主頭は、今度は不思議そうな表情を見せた。わかりやすい奴だ。
 「今、松村は、尾塩組のとこのヒューマニズム・オムの角脇と除染作業員を集める仕事してるんとちゃうの?」
 恐怖のどん底を見たような眼を俺に向けた坊主頭は、ガタガタと震え出していた。車のことなど忘れて、ノックアウト寸前ってところだ。
 (コイツは本当に知らなかったのか?)俺は自分の読みが外れたことに何故だか虚しさを感じ、目の前にいる坊主頭が単に図体がデカいだけの木偶の坊かと思ったら、なんだかやる気が失せてきた。
 店員が坊主頭の頼んだ豚丼を運んで来た。俺はもう一本ワインを注文した。
 「熱いうちに食いや」
 坊主頭は頷いた。箸袋から取り出す手が震えていて、やっと取り出した割り箸もなかなか割れないでいる。
 「落ち着けよ」
 坊主頭は片側を口に銜えてやっと箸を割った。やっとだ。俺は面白くなって吹き出しそうになったが、それをグッと堪えてグラスを口に運んだ。
 食べるのと考えるのが、時折ごちゃ混ぜになって、味を感じている暇もないのだろう。早くこの時間が無事にやり過ごせますようにと神に祈っているかもしれない。相変わらず手は震え、テーブルのあちらこちらにタレの染みた飯粒を撒き散らす。それでも坊主頭は、豚丼を口に放り込んでいく。
 「美味いか?」
 急に話しかけられてびっくりした坊主頭は咽返した。口を覆った両手には、食べかすがいっぱいついていた。
 どうしてこいつが、ここまでビクついているのか不思議に思った。単なる馬鹿が、馬鹿なことをして、馬鹿みたいに動揺している。
 (なるほどねぇ……)
 坊主頭の動揺で、ある程度、事の流れを整理し理解出来た俺は、これからどう料理していけば、うまい結果に辿り着くのかを考えながら、ゆっくりとワインを傾けながら、坊主頭が食べ終わるのを待つことにした。
 ワインとラクレットが運ばれてきた。店員の背中が写るガラス窓の外で、雨は一段と強く降っていた。
 野菜やハムにサイコロステーキがのった皿の上に、溶けたチーズがかけられていった。美味そうだ。腹が減っていたら俺が注文しただろう。
 坊主頭は腹を決めたのか、震えは収まっていた。目の前に差し出された皿を引っ手繰ると、ムシャムシャとそれを一気に平らげた。
 兎に角、俺は、目の前のこいつから、俺の知りたい情報をすべて聞き出すことに決めた。
 「満足か?」
 「はい」
 「お前、名前は?」
 「タキガワアトムです」
 「アトム?」
 名前は漢字で書くと多喜川亜斗夢と書くらしい。和也は偽名だったか?
 「和也ちゃうんか?」
 「それは、社長が亜斗夢とは呼びたぁないっちゅうんで、本名は亜斗夢です。あのう、おたくさんのお名前は?」
 「知ってどうする?世の中には知らんでええことがある」
 「はぁ……」
 「多喜川。お前、選択を間違えたな。上が割れた今、花押会と尾塩組は反目や。それはボケたお前でも知ってるよなぁ」
 多喜川は、俺を情けない顔で見たあと項垂れた。腹を決めたと見えたが、こいつにそれだけの度胸はないようだ。
 「あーっ、何で俺はいつもこうなんや」
 それを言う奴は、自分が今何処にどう立っているのかがわからず、ハムスターのようにクルクルと同じ処で動いているだけなのだ。
 やっぱり、俺はおかしくなってしまったみたいだ。目の前の坊主頭を見て、笑いが止まらなくなるだろうと思っていたのにその逆で、坊主頭への同情心が芽生えてきている。こんなはずじゃなかったと、お馬鹿さんがよく言う言葉が、口から零れ出そうになっていた。
 「松村から聞かされてなかったんか?」
 項垂れ頭を抱えた多喜川は、首を縦に何度も振った。やらかした事の重大さの本当の意味を、目の前に座っているコイツは、わかっているのだろうか。
 「会うたことはないけど、ヒューマニズム・オムの角脇さんのことは社長の電話のやりとりで知ってました。けど、それが尾塩組の人やなんて……。社長もそれやったらそうと言うといてくれたら良かったのに」
 多喜川は煽るようにグラスを空けた。俺はその空になったグラスに無言で注いだ。コイツはまったくの間抜けだ。これ以上ない馬鹿で木偶の坊だ。そう草葉の陰で松村は嘆いていることだろう。
 「昔、よう社長に言われたんです。もし、俺になんかあったら、花押会の高峰さんに電話せいって。だから、もしもの時やと思て電話したのに」
 忠実な大間抜けだ。松村も、コイツに何も話さないんじゃなくて、何も話せなかったのだと俺は思った。
 「松村の下には、お前の他に誰がおるねん?」
 「いません。俺だけっすよ。三年前までは奥さんが電話番や事務仕事してたけど、今は俺一人っすよ。他は登録している一人親方ばっかりで、あと足らん分は下請けの工務店に回すんです。そん中でも借金でどうにも首が回らん奴や、身寄りのない一人もんで金が欲しい奴を、社長がピックアップしてもう一つの方へ。でも最近は他でも稼げるから、送る人数が足らんようになって」
 「足らん?」
 「俺もよう知らんのですけど、社長が電話で言うてました。放射線量が蓄積して規定量をオーバーすると、稼げるとこから稼がれへん他の除染作業に回されるんですって。そやから、稼がれへんねんやったらって、辞めたり勝手に飛んだりしよるそうなんですわ」
 そういう裏があるのか。北の大地に気が済めば、海を渡って東北に入る。その時にどんな目をもって見ればいいのだろうか?
 「それやから、社長も付き合いを広げて、近畿や関西だけやのうて日本中の業者と付き合うようになって」
 「北海道に付き合いのある業者はおらんの?」
 「どうやろう……。それは死んだ社長しかわかりませんわ」
 「そのことをポリには話したんか?」
 「いえ、言うてませんよ。そっちの仕事のことは、社長からは口留めされてたから……」
 そのせいで、俺が警察に疑われていることを、多喜川はこれっぽっちも気にしていない。コイツは、自分こと以外は考えられない自己中心的なタイプか。それに、これでは犯人探しには程遠い。
 込み上げた苛立ちをぶつける。そうしたいところなのだが、この状況では気晴らしだけの行動に出ることなど出来ない。グッと我慢するより他はない。今のところ多喜川だけが頼りの綱なのだ。
 それに、今さら多喜川が、松村のもう一つの仕事のことを警察に話したとしても、すぐに俺への嫌疑が消える訳ではない。対象から外すには時間がかかるし、それなりの物証と確実なアリバイが必要なのだ。そして、法律は曖昧なものには網をかけられない。角脇の半グレ集団を調べるにしても、しっかりと事実を固めてからでないと手が出せない。もし、勇み足でもしようものなら、逆に角脇から警察が訴えられる。そこが暴対法のあるヤクザとの違いだ。その辺を巧く活用していた俺が言うのだから間違いない。人権派を称する弁護士が、ヤクザの人権を守ろうなんて掲げるほど、暴対法を盾にした警察はやりたい放題なのだ。その法の網を掻い潜るのが、一般的に半グレ集団と呼ばれるもの達なのだ。
 早く犯人の目星をつけないと、気ままな旅が遠退いていく。宿の予約が終わる明々後日の朝から旅を再開するには、俺が犯人を見つけるしかないことは、未だに変わらないことだった。
 「そういえば多喜川、お前の車のことで、俺に用があったんやろ?」
 「えっ、はい。車は、はい」
 本当にわかりやすい奴だ。何か知られてはいけないものが車内にあるということなのか?
 「何積んどるねん?シャブか?チャカか?」
 「ち、ち、ちゃいますよ」
 多喜川は目一杯引き攣った顔をしながら大声を上げた。
 俺は口に一本指を立てた。
 「そ、そ、そんな、おかしなもん。もし捕まったら、人生終わりですやん。俺には嫁も子供もおんのに。嫌ですわ」
 今度は小さすぎる声量で話し出した。多喜川は案外、真面な感性も持ち合わせているようだ。
 「ほんなら、死んだ松村のことよりも、なんで車のことを心配するんや?」
 「そらぁ娘の動画が入ったSDカードがいっぱい載ったままやからですわ」
 「娘の動画?」
 「そうです。生まれた時から、初めてハイハイした時、初めて伝え歩きをした時、初めてパパって言うてくれた時……」
 そう話しながら、多喜川は瞳を潤ませた。
 しかし、多喜川が最後のところで何かを思い出したのを、俺は見逃さなかった。
 まったく、子煩悩で善良な父親面もいい加減にしろ。だったら何故、松村と共に、襟裳岬で俺に絡んできたのか?善と悪を自分の都合に合わせて使い分けて生きている。こういう自分本位な奴が、俺は一番嫌いだった。心の中のシャッターが、ガラガラガラと閉まる音が聞こえた。そして、昔からいる俺が、攻撃目標に設定した。
 「あのう、ホンマに社長を殺したんやないんですね?」
 「俺が、松村を殺して得はあんのか?どんな得があるっちゅうねん。言うてみろや」
 「それは……、そ、そうです。ないです」
 「もし俺がやるとしたら、松村が見つかった場所に、遺棄なんかせんなぁ。雨で川の水が増水するのを計算に入れたんかもしれへんけど、結局は流してくれんかった」
 多喜川の顔色、表情が少しずつ変わっていく様がとっても面白い。
 「あんな無造作に河原に置くなんて。そんなもん、アホの骨頂や。こんだけ山があんのに、俺なら運べるとこまで運んで、どっかに埋めるな。埋めるんは、浅くてもええねん。なんやったら埋めんと転がしてたらええ。そのうちに腹減ったクマが食ってくれるやろ。食い残しはそのうちに骨になる。それより、何より、松村をやるんやったら、そこにおった全員をやるな。そしたら今の俺みたいに、警察の嫌疑がかかることもない。誰も言葉が喋れんのやから。なぁ、多喜川、そう思わんか?」
 多喜川の目が恐怖で慄いている。これは、本物の悪を知らない奴の目だ。
 「もう一回聞くぞ、松村を殺して、俺に何の得があるねん?」
 「い、いや、まったく得なんてありません」
 「フン。いくらお前に無実やってわかってもろても、ポリはそうはいかんのじゃ。オドレのせいで、こっちはえらい迷惑しとんや」
 多喜川の顔からまた血の気が引いた。
 「ホンマすんませんでした。襟裳の時は社長がイッタから仕方なかったんです。調子乗って、ホンマすんませんでした。けど、ここは北海道です。旅行に来てるんですよ。いきなり知らん土地で社長が『襟裳で会った奴に会いに行く』って言うて出掛けて、殺されたってなったら、真っ先に揉めた相手のこと言うに決まってますやん」
 声を殺しながら、多喜川は泣き声で震えていた。
 『襟裳で会った奴に会いに行く』確かにそれだけを聞けば、俺のことも当てはまる。しかし、引くことはない。引けば一気に多喜川がつけ上がる。
 「それはお前が、後先読めんアホやからちゃうんかい。そやから反目の高峰にお前は電話した」
 坊主頭の顔から一段と血の気が失せた。何度となく見てきた光景だったが、これほど見事に血の気の失せた奴は初めてだった。
 「それに、お前のせいで、ドンパチ始まったら、どっちに捕られても、簡単には殺してもらえんやろなぁ」
 少しだけ嘘を混ぜ込んだ。これほど血の気のない肌の色をした人間がいたのかと、俺はまじまじと多喜川の顔を見つめた。死体と変わらぬ蝋のような色をしていた。とても面白かった。どうやら坊主頭は、頼り処を180度間違えたことに気がつき、自分のせいで、二つの間で抗争でも起こったら?そんな無用な心配を抱いている。確かにことは重大だ。それは、これからこの坊主頭に降りかかる災難のことで。花押会と尾塩組、延いては銀盛会と龍盛会の抗争が起きる訳ではない。コイツごときで抗争など起ころうはずはないのだ。坊主頭は、大物ぶった誇大妄想馬鹿野郎なのだ。待っている現実は、高峰からとことん詰められて、軽く殴られ蹴られしたあとは、相手との揉め事は俺が動いたおかげで収まった。だから金をよこせと催促される。まとまった金が作れなければ、今までよりも安い賃金で、今までどおり働かされる。死ぬまでずっとだ。これは、すべて坊主頭が悪いのだ。坊主頭のこれまでの生き様が引き込んだことなのだから。他の誰が悪いわけでもない。けれど、頭の違う部分でいきなり、徳永の言葉が蘇った。これじゃあ駄目なのだ。
 一口、喉に流し込んだワインが喉で熱く燃え、頭の中とは違う部位が燃えていることを自覚すると、ゆっくりと今の俺を取り戻した。
 「まぁ、お前が俺の質問に全部、正直に答えるんやったら、俺が上手い立ち回りの仕方を考えたってもええねんけどな」
 坊主頭の顔に微かな希望が浮かんだ。だが、相変わらず血の気は戻っていなかった。
 場所を変えて話をするために、俺は色々頭の中で思索した。多喜川の部屋への出入りはまずい。もしこのあと、多喜川が殺されでもしたら……。確実に人目があって、尚且つ話を他人に聞かれる心配がないところ。初めての帯広で、俺の中には昨日行ったバーしか思い浮かばなかった。焼鳥屋は、背凭れが高くて視界が悪かった。万が一を考えると視界が開けている方がいい。
 店までの道中、傘に当たる雨音が、好き勝手に叩いている下手な鼓笛隊の太鼓叩きのようで、会話が出来る状態ではなかった。
 運良くテーブル席の一番奥と二番目が空いていた。
 俺は店の人間に万札を何枚か握らせ、テーブル二つを借りた。これでゆっくりと多喜川から話が訊ける。
 多喜川が松村工務店に入社したのは七年前。その頃は、花押会の高峰の息のかかった不動産屋と組んで、小さい規模の宅地を造成し住宅を建てていた。それが、三年前にその不動産屋がパクられると仕事が半減した。松村工務店にいる職人達をうまく使えないか考えた松村は、職人達を独立させ一人親方にすると、助っ人として人手の足りない現場や工務店に松村工務店の人間として派遣した。そして規模が大きくなり、その頃に松村は角脇と知り合ったようで、除染作業員を集める仕事をやり始めた。
 松村進は、三年前に離婚してから、松村工務店の会社兼住居で独り暮らし。家事は家事代行業者が週に一度。決まった女はいなくて、一緒に旅行に来ていた若いキャバ嬢を口説いていた最中だった。
 今、多喜川が引き継いでいる表向きの仕事は、ここ何年もトラブルらしいものもなく順調だった。
 今回の北海道旅行は、もう一人いたキャバクラの女性オーナーが提案したもので、今まで行っていない襟裳や十勝を巡るろうと提案したものだったらしい。
 俺と同じ六日前の夜、多喜川は京都の舞鶴からフェリーに乗り、丸一日近くかかって小樽に着いた。着いたその日は小樽のホテルに泊まり、翌日、午後一番に千歳空港に着く松村達を迎えに行った。空港内にある美味いと評判の立ち食い寿司で遅い昼飯を食べ、そのあと施設内を散策した。夕方、支笏湖の高級ホテルに泊まり、次の日の朝、豪華な朝食を堪能してから襟裳岬に向かった。そして昼過ぎに俺と出会った。その後、豊似湖に寄ってから温泉付きの帯広十勝ホテルへ。その夜は、ジンギスカンを食ってから屋台に行って、そのあとキャバクラを二軒梯子した。
 そして、次の日の早朝、六時半頃。松村は、いきなり多喜川の部屋にやって来て、車を貸せと言い、「襟裳で会った奴に会いに行く」と言い残して出て行った。
 昼まで待ったが松村は戻って来ず、スマホに連絡をしても電話に出ることはなかった。その日は車が無いので予定変更して、昼に「はげ天」へ豚丼を食べに行き、六花亭でお茶をしたあと、女達はタクシーで「十勝千年の森」に行って、ホテルに戻って来たのは暗くなってからだった。その間、多喜川はホテルの温泉にのんびり浸かり、夕方から居酒屋に行って松村からの連絡を待っていたそうだ。しかし、夜の十時頃に若いキャバ嬢のスマホからかけた時、電源が落ちていて呼び出し音も鳴らなかった。
 すると、オーナーが怒って、多喜川にレンタカーを用意するように言うので、翌朝から残り三日間、旭川空港返却のレンタカーを、前夜キャバクラの払いのために預かって返し忘れていた社長のカードで決済した。
 朝になっても松村は帰らず、スマホも通じなかった。
 出発の予定時刻が迫っていたが、女達は現金なもので、金を払い込んでいるのだからもったいないと、二人は富良野や美瑛を楽しむために、予定時刻に向かったという。
 「しゃあないですわ。ウチの社長はケチで、狙っている女の分は払ったけど、オーナーは身銭切ってますから」
 多喜川は呆れたように言った。
 チェックアウトに一時間と迫った午前十時、念のためもう一度松村のスマホにかけると、着信音が鳴り、松村とは違う男が電話に出た。それは帯広警察の刑事で「松村が遺体で発見された」と言った。多喜川がすぐに「車は?」と訊くと、「車は見つかっていない」と言うので、一瞬パニックになって、トイレの便器に座りながら、しばらく泣いたという。
 そのあと多喜川は、ホテルに事情を説明して五日間の延泊の予約を取り、さっき行ったばかりのレンタカー屋に行ってもう一台車を借り、帯広警察署まで行った。
 そこで聴取を受け、松村が言った「襟裳で会った奴に会いに行く」から想像出来たのが、あなただったと言った。
 「他に襟裳で誰かに会わんかったんか?」
 「ずっと一緒にいたけど、会うてないですわ」
 「そしたら、松村が一人になることは?」
 「ないです。トイレも俺がついていきました。その時に色々と、もっと、ああせい、こうせいと指示があるんで」
 本当に俺しか会っていないのか?それなら何故、松村は「襟裳で会った奴に会いに行く」などと言ったのだろうか?俺が犯人ではないのだから、必ず誰かと会っているはずだった。
 「あっそういえば、様似湖で、俺と社長は離れましたわ。ハート型の湖で、ミリアちゃんと二人でデートしたいからって、オーナーがトイレに行ってる間に先に行きました。俺はオーナーをなんとか引き留めて、たいへんやったんすよ、ホンマに。ガミガミうるさくて、他の観光客に笑われたんですから」
 「その時や。それしかない」
 「でも、離れて見てたけど、他の誰かと会うてるようには……」
 「すれ違いざまに挨拶された。それだけやったらどうや?別に会話してない、単なる挨拶。それもその時には、松村自身は気がついてなかった」
 「ほんなら会ったことになりませんやん」
 「夜になって相手から連絡があった。屋台で飲んでる時にあった電話や」
 「あっ……。でも、なんでそれを?あんたいったい何者なんですか?」
 「だから、それは、お前が知らんでええことや」
 多喜川の顔から、急速に酔いが醒めたように見えた。
 「それで、車の車種は?写真とかないの?」
 「あっ、あります」
 多喜川はスマホを取り出して、自分の車の写真を何枚か俺に見せた。残念なことに、そのすべてに、多喜川の崩れた顔をそのまま小さくしたような女の子が写っている。車は白のセダンだ。
 「俺も昼間探したんですけど、北海道は広過ぎますわ。それにまったく知らんところやから……」
 「もっと、ナンバーが写ってる写真はないんか?前からと後からのがあったらええな」
 「ちょっと待って下さいね」
 多喜川は人差し指を動かして、画面をチェックしていく。
 「あ、これと……、これなんかはどうです?」
 画面には正面から写したものと、後部から写したものがあったが、どちらも車の横に、子供を抱いた多喜川の嫁が満面の笑みを浮かべて立っていた。
 俺は画面を操作して、ナンバープレートの部分を拡大した。京都ナンバーだった。素早くナンバーを暗記する。
 (ん?)何か胸の奥でチクリとしたものに引っ掛かった。
 「探してくれるんですか。写真、送りましょうか?」
 「いや、念のために写真撮っておくわ」
 多喜川は不思議そうな顔をしたが、俺がズボンのうしろポケットからガラケーを取り出すと、ああ、と納得してから、「ガラケーって」とポツリと言い、俺の表情を見てから、「すみません」と、小さく頭を下げた。
 前方からのものと後方からのもの、そしてナンバーを拡大したものの三枚を撮影した。
 さてこれで俺の用事は済んだ。あとは部屋に戻って明日からどう動くかを考え、シャワーを浴びて、ゆっくりと眠るだけだ。
 「あのう、俺はどうしたらいいでしょうか?」
 自分から興味が離れたことを感じとったのか、多喜川が顔に似合わない猫撫で声で訊いてきた。娘と接する時はもっと気持ちが悪いのだろう。
 「ああ、花押会と尾塩組の件か」
 どうせヤクザだ。どうなろうと今の俺には関係ない。今のご時世、これっぽちのことで抗争になることなどない。高峰ごときが上を動かせるはずもないのだ。俺はもう、どうでもいい気分だった。が、小さな子供が不細工に笑う写真を見てしまった。こんなつまらないことのせいで、不幸にはなって欲しくはない。
 「電話番号教えろ。非通知でかけるから、取れるように設定しなおせ」
 多喜川が言う番号に184をつけた番号に発信し、すぐに切った。これで番号は発信番号通知の中に残った。
 「高峰には、なんて話した?」
 「社長が死んだこと。それが誰かに殺されたかもしれんこと。昔、社長から、なんかあったら高峰さんに電話しろって言われてたこと。それに、あなたのことも話しました」
 なんともまぁ、面倒を広げる奴だ。しかし、高峰には、そいつが俺だとはわからない。
 「高峰は、松村工務店の仕事内容や、誰と仕事をしてるのかを訊いてきたか?」
 「はい。俺のやっている仕事の方だけですけど」
 詳しく多喜川に話を訊くと、どうやら多喜川は高峰には用無しのようだ。高峰は松村工務店の上澄みを啜るようだ。多喜川が枚方に帰る頃には、工具も何も、もぬけの空になっているかもしれない。
 「角脇との仕事の方は?」
 「それは社長から、誰にも言うなって言われてたから言うてません」
 「なら良かった。お前は角脇のことは知らんことにしとけ」
 「はい。それでいいんですか?」
 「高峰からの電話には必ず出ろ。そして、話したこと以外は知らぬ存ぜぬを通せ、ええな。今晩含めてあと四泊やな。それまでには、お前がどう立ち回れば、可愛い娘が不幸にならへんかを連絡する」
 「お願いします。ありがとうございます」
 多喜川は涙を流しながら、頭を下げていた。よほど切羽詰まった状態でいたのだろうか?単に娘に対する思いからなのか?俺には読めなかった。
 「そのかわり、今の仕事はやめて、謙虚に生きろ」
 「けど、俺には今の仕事が……、家族もおるし……」
 「お前が枚方に戻る頃には、下手したら会社の中のもん、一切合切、全部持っていかれてるかも知れんぞ」
 「えっ、そんなこと……」
 「お前にはヤクザ仕事は務まらんねん。死んだ松村もお前も、チンピラ以下やねんから。そうやろ、いらん高峰なんかに連絡入れるヘタ打って。もっとクレバーで狡猾な奴はなんぼでもおるねん。そんなんと闘われへんのやったら、潔く引かなあかん。それと、車にあるのは娘の記録だけやないやろ?」
 少しカチンときた様子だった多喜川の顔に、意外だった言葉が俺の口から放たれて、動揺が浮かんでいた。
 「松村から預かってるものがあるんやろ?」
 またこめかみに汗だ。
 この期に及んで、どういう魂胆だ。自分に都合良く考える奴は、どんな時にもそうなのだろう。ダンマリを決め込もうというのか?
 「まぁええわ。俺には関係のないことや。好きにしたらいい」
 俺は席を立って会計を支払い、店の一角を借りたことに礼を言ってから店を出た。
 雨はもう止んでいた。けれど、空が雲で覆われているのか、星は一つも見えなかった。
 俺は南9丁目通を東に歩いた。2ブロックほど歩いたところで、うしろから追いついて来る足跡が近付いた。
 「待って下さい。全部言います。全部言いますから、待って下さい」
 俺は少し振り向いて、顎でついて来いと促した。
 銀座通りを左折して、アーケードを通り抜け、駐車場が並ぶ中の一つに足を踏み入れた。
 俺は黙ったまま多喜川をじっと見る。
 「車にあるんは、あんたの言うとおり、社長から預かった小さいSDカードです。多分、裏帳簿かなんかやと思います。スマホに入れても開けられへん。俺はパソコンをよう使わんから、中身は知りません。ホンマです。警察に見つかっても中身は知らんって言える。ホンマに知らんのやから。けど、あんた、車を探し出すつもりでしょ。SDカードを手に入れてどうするつもりですか?どっかに売って金にしますか?俺だって金は欲しいんです。七年もの間、下で支えてきたんやから、表に出せん金を俺が貰ったところで罰当たらへん。ちゃいまっか?」
 本物の馬鹿だ。
 「多喜川、もしSDカードの中身がお前の思う金になるだけのものやったら、お前に返したる。好きしたらええ。けど、俺の身の潔白を証明出来るものやったら、警察に渡す。警察がお前に返すかどうかは知らんけどな」
 俺はそれだけ言ってその場から立ち去った。
 ホテルに帰らずに、ウロウロと歩いた。多喜川がついて来ていないか、警察に尾行されていないかを確認するために。
 部屋に戻って、貸し借り帳を開いてみるか。それを見ながら、明日からどう動くかを考えよう。
 今日は疲れた。
 馬鹿の相手は疲れることを再確認した。
 コンビニに寄って、ウイスキーの小瓶とチェイサー代わりのビールを買った。店を出たところで、津田の携帯に電話した。津田は三十秒ほど鳴ってから電話に出た。
 「どうしました?」
 「多喜川に会ったよ」
 「そうですか」
 「今、別れたところだ」
 「何か掴めましたか?」
 「松村は、豊似湖で誰かと会ったんやないかなぁ?」
 「豊似湖ですか」
 「一つ教えてくれ」
 「私が獅子王さんに話せることは少ないですよ」
 「俺が渡すネタや。調べた結果ぐらい教えてもええやろ」
 少しの間、津田は黙った。
 「どんなネタですか?」
 「松村が殺される前日の夜、公衆電話からの電話が、松村のスマホにあったよなぁ」
 津田は黙っている。
 「その会話の内容が少しわかったんや」
 「何故、公衆電話から電話があったと思うのですか?」
 「そら、俺に任同(任意同行)かけたからや。トバシ以外の携帯や固定電話なら、すぐに身元はバレる。トバシの携帯やったら範囲がバレて、追跡されてそのうち身元がバレる。周りやボックスの上のカメラさえ気にしておけば、公衆電話が身元を隠して通話するのに最適や」
 「流石ですね。わかりました。えりも町の何処の公衆電話からかけられたのかをお教えします」
 「ほう、流石やねぇ、津田さんは。松村の言葉は三つ、『今は旅行中なのに仕事の話はしたくない』と、『明日、会おうって、こっちは従業員連れて楽しむために来てるのに』と、『ちょっとだけなら』この三つや」
 「松村が標準語で話していたわけではなく、あなたが話を訊いた人が、そう話していたのですね?」
 「そういうことや」
 「誰から訊いたのか、教えてくれますね?」
 「その前に、何処か教えろ」
 「……、庶野郵便局の前にある公衆電話です」
 「ありがとう。庶野ね。明日、夜になると思うけど、本人から警察に連絡を入れさせる」
 「一日無駄になりますね」
 「そう言いなや。その証言の裏は、犯人を捕まえるまで、取りようがないやろ。その店には松村の名刺もあったし、店に行ったことは多喜川にも確認出来てる」
 「わかりました。また何かわかったら連絡を下さい。早く容疑が晴れることを祈っています」
 「ふん、ありがとうって言うとくわ」
 「無茶はしないで下さいね」
 津田の言葉を最後に、俺は電話を切った。


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