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拝啓、最愛なる貴方へ

死にたいと思う夜はないが、自分を殺してやりたいと思う夜は何度もあった。

眠れない夜は悪夢にうなされてでも眠れた方がまだましなのではないかと思えた。

人の幸福を祝福できない時、自分がこの世で最も醜いものに思えた。

一年前の今日、私は自分自身へ宛てて手紙を綴った。

拝啓、最愛なる僕へ

普段は目を背けている自分のネガティブな面と初めて真正面から向き合った。一年の月日が経った今も、相も変わらず私の抱える劣等感は大きい。

だが私はこの劣等感と共に歩んできた。拭えぬ劣等感も、ポジティブを黒く塗り潰すネガティブも、どれも「私」を形づくるものだから。だからこそ一年前の今日、私は私に向けて愛と感謝を述べた。

ある友人が言った、「後ろを向いて後退すればそれは前進しているのではないか」と。屁理屈に聞こえるかもしれないが私には妙にストン、と腹落ちした。

私もそうやって歩いてきたのだな、と。

私は虚弱だから鍛えようと思ったし、醜悪だから美しくありたいと願ったし、無知な自分が嫌で本を漁った。嫌われたくないから繋がりを求めて人を愛したし、手に入れた物を失いたくないから強く握りしめてきた。

もし私が根っからのポジティブで、高い自己肯定感の持ち主だったなら、ありのままの自分を受け入れて、それ以上己を磨くことも、がむしゃらに何かを愛すこともなかったかもしれない。

「今のままの自分でいることに耐えられない」という暗澹極まるネガティブが私を突き動かしてきた。原動力は常に劣等感のはきだめの中から噴き出してきた。

世間は貴方に語りかけるかもしれない。「ポジティブであれ」「コンプレックスすらも愛せ」と。それができないのがネガティブという価値観であり、どうしても愛すことができないものを我々はコンプレックスと呼んでいることも知らずに。

今これを読んでいる貴方がもし、「ポジティブでなれけばいけない」という呪いに押し潰されそうなら、劣等感のはきだめに足をとられて抜け出せないなら、その場にしゃがみ込んだり、後ろを向いたりしてもいいんじゃないかと私は思う。

無理に「ネガティブ」を殺さなくてもいい。無理に「劣等感」から目を逸らさなくてもいい。誰かに押し付けられた「貴方らしさ」に縛られなくてもいい。

私はネガティブだから行動してきたし、抱えきれないほどの劣等感を抱いてきたからこそ、それらを抱えたまま歩けるほどに逞しくなれた。

ここまで一貫してコンプレックスを、ネガティブと劣等感を、手放す必要は無いと主張してきたがこれらを払拭できる手段があるとすれば、それは「他者からの愛」だと思う。自分ではどう足掻いても愛せないからこそ、劣等感は膿のように目障りにつきまとう。

私はかつて、小学生時代からコンプレックスを抱いていた自分自身の部分について、とても大切な人から、自分が忌み嫌っていた「それ」こそが愛おしいと伝えられた。それ以来私の「膿」は完治した。というより「膿」と思っていたものは何でもない私の一部に過ぎないと気付くことができた。

今日は多くの人から愛に溢れる言葉を贈ってもらった。次は私が愛を注いでいきたい。前を向けない日が、胸を張れない日が、自分を愛せない日が、貴方にもきっとあることだろう。その時は私が貴方の代わりに伝えたい。貴方を愛してると。

拝啓、最愛なる貴方へ。これからもどうぞよろしく。




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