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もし願いが叶うならば、シオンの風吹くあの国へもう一度

エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。(詩篇137:1~6)

イスラエル留学のきっかけ

イスラエルは地中海に面する中東の国で、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地とされている日本の四国くらいの大きさの国です。IT産業が盛んでシリコンバレーに次ぐ「スタートアップの聖地」あるいはベンチャー大国として近年注目を集めています。

私が初めてイスラエルを訪れたのは高校二年生の夏、二週間の聖地巡礼ツアーに参加した時でした。私は祖父母、両親ともにクリスチャンの家庭に生まれ育ちました。物心つく前から日曜日には聖日集会に集い、賛美歌を歌い、聖書を読むことが当たり前の環境で育ちました。しかし毎週日曜日は友達と遊びに行くことも部活に参加することも許されず、小難しい信仰の話を聞かなければならないことは幼い私には面白くないことでした。イスラエルツアーに参加したのも熱心な信仰心からではなく、海外に行ける!(親の金で)という安易な発想からでした。しかしこのわずか二週間の日々が私の人生を大きく変えるものになりました。

長い長いフライトを経て飛行機がテルアビブ空港に着陸し、乾いた熱風と照り付ける太陽が私を歓迎した時私は見慣れない建造物、空気の匂い、耳に入ってくる聞いたことのない言葉にただただ「異国」を感じ、感じたことのない高揚感と緊張感にひたすら興奮していました。数日が経ち時差ボケにもイスラエルの灼熱にも慣れ始めた頃、浮足立っていた足元は徐々に地に着き始め、踏みしめる大地の感触とそのありがたさを実感し始めました。今自分が立っている大地は2000年の昔イエス様が歩いた大地なのだと、ダビデやソロモンが感じた風を今自分は感じているのだと。

今までただ「読んでたつもり」になっていた聖書の言葉がまるで違ったように自分の中に入ってくる体験をしました。実際にその奇跡が起きた地で読む聖書の物語は、イエス様が語る言葉は、私の足元から体全体に振動が伝播するように響き渡りました。この二週間の旅路の話だけでも語り切れない程の感動と自分の中での変革を体験しましたが、ここで肝要なのはこの時私はもう一度必ずこのイスラエルの地に戻ってくることを決意したということです。今度は最低でも一年、腰を据えて。

帰国した私はまず受験しようとしてた大学を変えました。九州で(当時)唯一ユダヤ思想やヘブライ語を講義する教授が在籍する大学です。しかし模試では常にD判定、E判定。私の学力では到底及ばない大学でした。しかしこの時幸運にも推薦受験する機会に恵まれ、面接でイスラエルを訪れたこと、大学でより理解を深めたいことを語り見事に合格を勝ち取りました。

大学に入学してからは高校までとは違う自由な生活や新しい交友関係、サークルやバイトなど、新しい世界に夢中でイスラエルは私の中で「いつか行ければいい」程度のものへと変わっていき、気づけば大学二年生になっていました。そんな折に「二つのレプタ」の物語を目にします。聖書に描かれる物語で教会に訪れたイエス様に多くの人が寄付や献金を進言する中でひとりのはしための女がイエス様に二枚のレプタ(当時の通貨)を手渡す。これをイエス様はこの場の中で最も尊い、どんな大富豪の多額の献金よりも神が喜ばれる価値があるといいます。この女性は一枚のレプタを神にささげもう一枚を帰路の費用にあてることもできた。しかし彼女はそうはせず、持てる全てを神に捧げた。後のことを顧みずただ全てを投げ出した彼女の信仰をイエス様は祝福した。この物語を読んだ時に私は自分も二枚のレプタをこの手に持っていることを自覚しました。しかし一枚を信仰に捧げる一方で、もう一枚は大学生活やバイトや自分の本願でないところに割いていることに気づきました。そこに思い至ってから実行まで時間はかかりませんでした。その日のうちに大学に休学届をもらいに行き、その後に両親にイスラエル留学へ行きたい旨を伝え、一週間後にはサークルもバイトも辞める旨を伝えました。その年の秋、私が所属するキリスト教法人が送り出すイスラエル留学グループの一員として、二度目となる聖地へと旅発ちました。勉強の妨げにならないよう携帯電話もパソコンも持たずに勉強道具とわずかな着替えと、そして聖書を携えて。

イスラエル留学の日々

イスラエルには「キブツ」と呼ばれるコミュニティがあります。個人資産を持たず全ての財産を住人で共有し、生産的自力労働、集団責任、身分の平等、機会均等の4つの原則に基づく集団で構成員はイスラエル人口の4~7%に過ぎないにも関わらず多くの指導者を輩出し、世界的にも注目を集めました。現在はかつてのキブツとしての体制を保っているものはほとんどありませんが、今なおキブツという名と開拓者精神はその住人に受け継がれています。私たちは「ヘフチバ」というキブツで半年間を過ごしました。毎朝日が昇る前に凍える手をこすりながら祈り場である洞窟へ行き、祈り合いその後清掃活動をし、朝食をとった後ヘブライ語の授業を受けていました。(授業は基本的に手ぶりを交えたヘブライ語のみ、どうしても伝わらない場合のみ最低限の英語、という感じでした)

イスラエルには「ウルパン」と呼ばれるヘブライ語学校が点在します。これは日本に在住する外国人向けの日本語学校とは少し趣を異にします。イスラエルという国は5000年以上の歴史を持つ国ですが、今あるイスラエル国家の形は1948年に樹立しました。これは2000年前にローマに滅ぼされ国を追われ、ディアスポラと呼ばれる離散の時代があったからです。そして2000年の時を経て民族の切望であるユダヤ人国家の樹立を成し、現在進行形でユダヤ人たちはかつての故郷へと里帰りしています。そんな2000年ぶりの帰郷を果たす同胞たちの為に民族の言葉と歴史とアイデンティティを学ぶ機関としてウルパンは存在します。

このウルパンでは授業だけでなく仕事も与えられます。私は牛舎で乳しぼりの仕事をしていました。当然日本人は私一人だけ。ヘブライ語は「ありがとう」と「こんにちは」程度しか知らない私がいきなりやったこともない酪農の仕事を現地人とともにするわけです。当然ミスもするし、ミスをすれば怒られる。しかし何を怒っているのかすらわからない。体力的にも精神的にも激しく消耗する日々でした。しかし学んだヘブライ語を実践する場としては最適でした。午前中に学んだ単語を手の甲や腕にびっしりと書きつけて午後の仕事中にも単語の勉強をしました。覚えた例文があればとりあえず仕事仲間に話してみました。そうして発音を訂正してもらったり、違う表現を教えてもらったりしながら仕事していました。

仕事が終わる頃には体中が牛のフンまみれでした。シャワーを浴びて一休みした後はミシュパハの家を訪れていました。ミシュパハというのは我々留学生を受け入れてくれるホストファミリーのことで、一緒に生活する訳ではないですが(我々は学生寮があるので)いつでも遊びに訪れてもいいという家庭です。4歳の娘のアドバーちゃんとよくトランポリンで遊んだり、母親にケーキと紅茶をご馳走になったりしていました。

夕飯を終えてからは自主勉強の時間です。長い時には午前2時近くまで勉強していました。そしてまた翌朝5時半には起きて勉強漬けの一日が始まります。大学受験の時もここまで必死に何かを勉強したことはありませんでした。出かける際には常に辞書を携帯し、持ち物や部屋の家具、壁にヘブライ語表記を記した付箋を貼り、ヘブライ語で日記を書いたりもしました。

留学生活では問題や衝突も多々ありました。我々は遊びに来たわけでもただの語学留学にきた訳でもなく、聖書と信仰を学びにはるか遠いイスラエルの地にやってきました。皆真剣に必死に生きているからこそぶつかり合う事や相容れないこともありました。本当に毎日が苦闘でした。一日一日が死に物狂いで、困難や問題との闘いの連続で、歯を食いしばって、折れそうな心をなんとか踏ん張ってようやく一日を乗り越えていました。そんな日々だったからこそ育まれたものがあったし、大変なはずの日々の中に常に感謝がありました。

神の宿る国

すべてエルサレムを愛する者よ、彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ。すべて彼女のために悲しむ者よ、彼女と共に喜び楽しめ。(イザヤ書66:10)

なぜイスラエルはこれほど私を惹きつけるのか。一番はその「神聖さ」です。イスラエルは聖地として有名ですが多くの場合それは首都であるエルサレムを指します。そしてその中でも最も神聖とされているのは「嘆きの壁」あるいは「西の壁」と呼ばれる場所です。この場所がなぜそれほど神聖視されているのか。ここにはかつて「神殿」と呼ばれる聖所がありました。

皆さんが信仰心を持っているかどうかは置いておいて、「神様」とはどこにいると思いますか。天国やそれに類似した天上世界というのが一般認識のように思います。しかし聖書の中に唯一地上でありながら神が「宿る」とされている場所があります。それこそがエルサレムの神殿でした。嘆きの壁はその神殿を囲っていた城壁の一部です。神殿そのものはバビロン捕囚の際とローマ軍侵攻により二度、崩壊し現在は存在しません。

神殿そのものでもない。それを囲っていたに過ぎない城壁の、それもほんの一部。それでさえユダヤ人にとってはこの地球上で存在するなにものよりも尊く神聖なのです。

あるユダヤ人はこう言いました。2000年の間エルサレムは、嘆きの壁で祈ることは月に行くことよりも遥かに遠い道のりだったと。この言葉はいかに当時のユダヤ人たちが差別と迫害に苦しんでいたかを如実に伝えています。はるか遠い先祖の故郷エルサレム、自分自身は訪れた事も無い魂のふるさとへ帰る日をユダヤ人は2000年もの永きに渡って夢に見て、異国の地にいようと喜びはエルサレムと共に喜び、ユダヤ人のものではなくなったエルサレムの為に嘆き続けました。敬虔なユダヤ教徒は嘆きの壁に背を向けることなく、祈り終わった後はあとずさりして帰る人もいます。

エルサレムという町は法律で全ての建物はエルサレムストーンという石で外観を建てることが定められています。嘆きの壁は、朝露に濡れた壁面に朝日が差すとまるで神殿の崩壊を嘆き涙しているように見えるからその名で呼ばれているといいます。白く淡い石の装いをその身にまとったエルサレムの町が朝日を受けて目を覚ます様は例え信仰心の無い誰であろうとその心を揺さぶるほどに神秘的な美しさです。

エルサレムには「シオン」という別名があります。これはあくまで個人的解釈ですがエルサレムとはその土地の名を指し、シオンとはそこに存在する信仰的、霊的な街の概念のように思います。神の寵愛を受けた、ユダヤ人と神の共存するその「存在」の名を「シオン」と呼んでいる気がします。このエルサレムとシオンという言葉は聖書の中に数えきれないほど登場します。エルサレムを愛する言葉が、懐かしく回顧する言葉が、熱烈に切望する祈りが、時には悲哀が、歌となり詩となり登場します。

旧約聖書にはたくさんの物語が、奇跡が描かれています。その物語が実際に起こった地を歩き、見て、触れる経験は他の国では得ることのできない、不思議な感動を私に与えます。

ユダヤという民族

イスラエルの魅力はそこに住むユダヤ人という民族のユニークさ抜きには語ることができないでしょう。ユダヤ人は世界人口の0.2%にしか過ぎないにも関わらずノーベル賞受賞者の25%がユダヤ系だという事実やロスチャイルド家をはじめとする世界的な富裕層の多くがユダヤ系だともいわれています。

私が愛してやまないユダヤ人の慣習に「安息日」があります。金曜日の夕方から翌日の夕方までいかなる労働も禁じられ、安息の時間に身をゆだね家族との時間を過ごします。安息日は花嫁に例えられ花嫁を迎えるごとく、喜びと晴れやかさの中で安息日の訪れを祝福します。ユダヤ人には聖別された「場所」と「時間」があり、聖別された神聖な場所はエルサレムであり、聖別された神聖な時間が安息日です。この安息日は旧約聖書の天地創造の「7日目に休まれた」という記述に基づいており、この安息日をユダヤ人はどんな国に離散していようと守り続けました。心の中に常にエルサレムを抱き、安息日を守り続けたからこそユダヤ人という民族性は2000年の間保たれました。「ユダヤ人が安息日を守ったのではない。安息日がユダヤ人を守ったのだ」と人は言います。

ユダヤ人は「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の5つの書、通称「モーセ五書」と呼ばれる聖書の箇所を一年かけて読みます。毎週決められた箇所を。日本では桜やひまわりや紅葉や雪や夕立や虫の音や風の匂いや色々なものを通して「もうそんな時期か」と季節の移ろいを感じますが、ユダヤ人たちは読む聖書の箇所で「もうレビ記のこの箇所を読む時期か」という風に時の経過を感じることもあるそうです。そして一年かけて読み(研究し)終わったらまた最初から一年かけて読み直します。これを一生続けます。しかし去年全く同じ個所を読んだのに必ず新しい発見があるといいます。ユダヤ人のこの聖書との向き合い方がどこまでも興味深く好奇心を惹きつけます。『トーラーの知恵』という著はユダヤ人がどのように聖書と対話し、その知恵を生活や日々の機微に活かしているかということがよくわかる本ですがその中で紹介される言葉に私の大好きな言葉があります。「ユダヤ人たちは聖書を遠く離れた異国に住む恋人から受け取った恋文のように読む」と。そこに書かれてある言葉は何回読んでも変わらないが受け取った人間はその言葉選びや行間から少しでも愛する人からのメッセージを汲みとろうとする。そして書いてある文字は同じでも時に勇気を与え、時に慰め、その時々に違ったように語りかける、だからこそ何回でも読み直してその恋文を通して恋人に想いを馳せ、少しでも近しく感じるように努力する、そのようにユダヤ人は聖書を読むのだと。

ヘブライ語

ヘブライ語という言語もまた非常に面白いのです。ヘブライ語というのは歴史上、地球上で唯一「一度絶滅したのに復活した」言語なのです。長い離散の時代の中でコミュニケーションの媒体としての言語ヘブライ語は息絶えました。ユダヤ人の祈祷の際に口にされる聖なる言葉としてかろうじてその存在をとどめていました。しかしユダヤ人国家樹立に際して民族固有の言語が必須と考えたエリエゼル・ベン・イェフダーは決起し、自らの子供をヘブライ語のみで教育しました。このとき、この息子は「世界中でたったひとりのヘブライ語を母国語とする人」として過酷な人生を歩むことを宿命づけられたのです。しかしこのエリエゼル・ベン・イェフダーが起こした運動を発端に各地でヘブライ語を復活させようとする動きが始まりました。ユダヤ人はこれに皆賛同するかというと決してそういうわけではなく、聖なる言葉を日常みだりに使うことは冒涜だとする反発する声も多く、難航しました。しかし今現在ヘブライ語はユダヤ民族のアイデンティティとして、国語として話されています。

建国の歩み

あなたがたが願うのならば、それは神話ではない。-テオドール・ヘルツェル-

イスラエル建国こそまさに現代に起こった奇跡でした。建国の父と呼ばれるヘルツェルは、同胞ユダヤ人が自由と安全な生活を得るためにはユダヤ人国家の樹立が不可欠である、との信念に突き動かされ、世界中を奔走し、あらゆる人たちと交渉し世界中のユダヤ人の説得に尽力しました。

当時ユダヤ人国家の樹立というのがいかに現実からかけ離れた絵空事だったか、ユダヤ人は自らの国土も時に人権すらも持たず、差別と迫害の時代を歩んできました。例えば今の日本にアイヌ民族の国家を取り戻そうと言っても無謀でしょう。しかし、ユダヤ人国家の樹立はそれよりもずっと非現実的で遥かに無謀だったのです。しかしたったひとりの男の情熱が、行動が、誠意が人を動かし、国を動かし、社会を動かし、時代を変えました。彼の燃える使命感が神話を実話にしたのです。彼の生涯をかけた切願であるユダヤ人国家イスラエルの樹立が現実になったのは彼の死後から半世紀が経った後でした。

建国の歩みは想像を絶する過酷さでした。マラリアや疫病が蔓延する作物の育たぬ沼地を法外な値段で買い取り、アラブ人の襲撃により殺害されることも頻繁にあるなかで地道に地道に開墾を続けたのです。この開拓時代に「日本的な国家を作る」ことを掲げたユダヤ人指導者がいました。名をヨセフ・トロンペルドールと言い、日露戦争で日本の捕虜となった人物でした。捕虜の身でありながら懇切丁寧に扱われ、収容所内での新聞の発行や教室を開くことなども許され、日本の高い文化的水準に感銘を受けた彼はイスラエル建国に際しても「日本を手本にした」建国を目指しました。国境での開拓に従事しどんな激戦にも勇猛果敢に闘い、片腕を失ってなお戦線から離れることなく、ゲリラ襲撃により絶命する際にも「国の為に死ぬことほど名誉なことはない」と叫んで息を引き取りました。彼の残した言葉に「私は鉄の塊だ」というのがあります。「釘が足りなければ私が釘になろう。くわが足りなければ私がくわになろう。」そう言って彼は戦士としてだけではなく、大工として農夫として教師として文字通り鋼の意志を持ってイスラエルの国を息絶えるまで守り続けました。イスラエルの北の国境はまさに彼の愛国心によって引かれているのです。

祈ったのに聞き届けられなかった、そういって信仰を失う人は少なくありません。しかしユダヤ人は国を失い、世界中がユダヤ人を殲滅しようと取り囲み、一縷の希望も差し込まない窮地に幾度となく立たされてようとも、それでもなお彼らは信仰を捨てませんでした。どんなにつらく苦しいときにも神の前にただ喜べと歌いながら、より雄々しく立ち上がってきました。たった一度祈ってそれが叶わなかったからなんだというのでしょう。彼らは2000年もの間、故郷へ帰ることを世代を超えて祈り続けて、そしてその祈りは聞き届けられたのです。

シオンの風

私がイスラエルを愛してやまない理由は、かつてあれほど熱烈に人生を謳歌した日々はなかったからです。挑戦し、挫折し、乗り超え、勝利し、突破する生涯の糧を掴んだからです。イスラエルを愛してやまない理由は、かの地では人が聖書に生きているからです。彼らにとって聖書は過去の物語ではない。天地創造の昔から今なお連綿と続く壮大なストーリーの中に彼らも登場人物として息づいている。聖書に語られている言葉は「かつて語られた言葉」ではなく常に「語り掛けてくる言葉」として存在している。かの地では「シオンの風」が吹いている。聖地でしか感じることのできない神秘の風が。言葉では表現できない「シオンの風」が、イスラエルではまざまざと感じられるのです。

イスラエル留学を終え5年の歳月が経ちましたが未だにあの乾いた風と灼熱の太陽を恋しく思います。苦闘した日々が、何事にも死に物狂いで挑戦したあの日々が、今の私を支えます。イスラエルという土地と、そこに住む人々とそこに横たわる歴史と、そこに根付く文化と、そこで得たかけがえのない体験と想い出を、私は愛してやまないのです。

主にあがなわれた者は帰ってきて、その頭に、とこしえの喜びをいただき、歌うたいつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びとを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35:10)

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