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ここがタメになった「生きる 小野田寛郎」1/⑦

太平洋戦争が終わってからもフィリピンの離島で30年間サバイバルをしながらゲリラ活動を続けていた日本兵のお話です。
日記のような形で淡々と語っているので、盛り上がりのあるドラマチックな作品という形ではないのですが、誰も真似できない個性的な内容が目をひきます。戦前の日本人の価値観を持っているため、現代の私たちから見ると理解しがたい部分は多いです。
生きるというテーマにしたのは、日本に来て講演するテーマが毎回生きることについてだからです。野生同然の生活をしてきた自分自身の体験から何かを汲み取ってほしいとのことです。

ネットでは小野田少尉は、中野学校で軍人教育を受けたエリートというイメージが強いのですが、本を読むと無鉄砲なことを試すけっこううかつな人でした。徹夜で働いてやろうとして倒れたりします。スパイ教育はしっかり学びましたがサバイバルの知識はゼロなので戦争が終わってから部下に学びはじめる。それでも試行錯誤してきちんと学習しているから結果を出せています。そのためかきちんと論理立てて物事を説明するのが上手でした。

著者は共同生活において、かばい合うことを重視していました。おぼっちゃん的な無能メンバーが一人いたのですが、そのメンバーの体力を基準にして物事を進めることを選びました。そのおぼっちゃんはわずか一年で逃亡しましたが、その後も方針を変えていません。
組織の無能メンバーは切り捨てるのが良い論が最近活発化しています。ビジネスにおいては有効だけど、それ以外では逆の方が良いのではないかと私は思います。
ただし今の日本社会でその考えを取り入れるとなんでも無能基準にして、変な方向にビジネスのかじ取りを向けるかもしれないので注意が必要です。

~~以降は内容説明~~

生きるためには目的がはっきりしていることが第一です。まずそれがあり、目的に向かい実行を続けること、その実行中に頭脳を支えるために「健康」を意識して大事にするように説いています。この例として、著者はルバング島に上陸した時に「夜も寝ず活動をしまくろう」と誓い実行したら3日目で体が言うことを聞かなくなりました。やはり健康を最優先にしないとどうにもならないという単純なことを身をもって知りました。

終戦を知らされてもなぜ戦い続けたのかと疑問視されることがよくあります。終戦の前から戦況が悪くなっていることは軍隊全員に知らされていました。数年以内に反撃をするのでそれまで潜伏してゲリラ活動をしてほしいという命令がありました。そのため捨て身で戦ういわゆる玉砕も禁止でした。日本兵の人数が少なくなっても基地や現地の飛行場の牽制にはなるため、生き残る事だけでも重要であると師団長たちから言われていました。

8月15日に終戦を迎えたらすぐ敵の飛行機が山中にビラをまき、終戦を呼びかけ投降をするよう呼びかけていました。そのビラを読むと至る所に間違った言葉が書いてあり信じ難いものでした。その後もビラをまかれ続けますが内容に誤りが多く騙すための活動にしか感じませんでした。当時の戦争でドイツ軍が相手側のスパイに偽の情報流し戦争に勝ったことがあったので情報とは常に疑うものでした。

終戦して最初の一年でほとんどの日本兵は投降しましたが、著者率いる四人だけがサバイバルの生活に入りました。四人で共同生活をいかに健康にするかを第一に考えて仕事の割り振りしていました。一番体力の弱いものを基準に共同生活をしないと長続きしないことがわかっていて、お互いいたわりあうのが当然と考えるようになり、きつい労働を代わることもしました。

4人のうち3人は一般兵士で、著者だけがスパイ任務を命じられていた特別な兵士でした。スパイ活動の教育は受けていたのですがサバイバルの知識は一切知らないため、島田というメンバーに数年かけて教わっていました。

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