『頭の中は自宙』
「イヤですねぇ、今宵の月鼓は死唄かしらん」
車窓から注ぐ月光を男の眼鏡は拒絶していた。
拒絶と云うか反射なのだが私にはそう見えた。
きっと男は心に何も映さないポリシーなのだ。
本稿は隣に座った人との交流を綴った連載で、
原則として隣の人とは知合いでなく赤の他人。
全く知らないその人が私と隣合う確率に盃を。
天の川の底が白くなった頃男は話掛けてきた。
「愛や金や銘誉よりも真実が欲しいですか?」
搭乗するなり呑んでいたから呂律は怪しいが、
詩人の言を引くあたり中々の酔狂人であろう。
「御免なさい、やはり月鼓は哲学の水ですね」
男の異様な語彙力を前に無学な私は身構える。
「愛の無い真実なら不観音であると考えます」
物書きからすれば実に魅力的な好々爺である。
「月に兎を見る国もあれば桂馬男の国もある」
中国は月に桂男を見ると以前何かで読んだが、
相変らず特異な男の言語観に私は翻弄される。
「何を見ても自宙なのに何も見ないだなんて」
この旅は従順なる聞き役に回れば充分だろう。
「月に何も無い事が真実なら私は虚魂します」
月鼓の音が近付いて腹の底までぽぽぽと響く。
望外の風流に男の酒も愈々進んで手元不如意、
先程から袴の桜をちろり濡らしては朝露の感。
「お恥ずかしい、壁渡しも壁から落ちます故」
男の謙虚に心惹かれつつも壁渡しとは果して。
「壁渡しを説明するには先ず柱家からですね」
男と波長が合って来た様で私も思わず月鼓呑。
「天高く伸びる柱の上に暮らしておりました」
頭に不可思議の種を次々植えられていく感覚。
「丁度このカクテルグラスの様な形状で以て、
美酒に満ちたこの逆三角形部分こそ我らが城」
男の云う天空の土地は存外巨きく国さえ在り、
やはり住居は日当りの良い側面が人気らしい。
「其処で家と家を繋ぐ為の職業として壁渡し」
酒と奇譚が溶け合って星夜の旅情は趣を増し、
男が老練壁渡しと聞き分厚い手にも畏敬の念。
「然しもう壁渡しとしては生きられんのです」
唐突に泪を浮べた男は懺悔するように呟いた。
「内地を往来出来た方がやはり便利ですから」
近年の掘削技術発展で仕事が激減したらしく、
失業の波は社会を飲み込み戦後最大の恐慌に。
「そこで掘削反対運動を一念発起した私です」
転んでも起き上がろうとする者が歴史を作る。
男の率いるその運動は壁渡しの為だけでなく、
実際的に国を守護する大義も持合せたと云う。
「心土竜が動き回らば心柱は空と成るってね」
全く知らない諺だが文脈から察するに恐らく、
土地の空洞化が柱との平衡を崩すと云う訳だ。
「然れども掘削は止まず暖簾に糠を塗る思い」
気付けば私は異国の窮状を痛切に憂いていた。
「何処の国でも金は天下の黒船嬢と云う様に」
一部の貴族と悪徳企業が利益を独占する為に、
反対の声も何処吹く風で掘削事業を続けてた?
壁渡しだけの問題じゃないと遂に国民総決起、
それは正義の振舞いの様で実は終りの始りで…
「やめようじゃないか!やめようじゃないか!」
国民総出で王家の庭にて念仏踊りの狂い咲き!
流石の王家もこの狂乱に掘削中止を言い渡す!
されどその時既に遅しで何やら地響き轟轟と!
億の民衆が空洞の土地で一斉に舞った震動で!
元より平衡揺らぐ国家はぐらり大地へ真逆様!
その時丁度響いた月鼓もぽぽぽと死唄にて候」
終着を告げるベル音が月鼓と妖しく重なった。
「やっぱり愛の無い真実は不観音でしょう?」
確かに虚実は重要でなく虚でも実でも愛さえ、
と初めて返答を試みるも男は既に居なかった。
酒も車窓も何も無くただ月が私を照らすのみ。
否はじめから月すら無かったのかも知れない。
そもそもこんな連載も無いが頭の中は自宙だ!
※次号「さよならオナラマンin奈良」に続く
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