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轡形団雪扇

響かふは呪わしき執と欲、ゆめもふくらに
頸巻く毛の温み、真白なるほだしの環
そがうへに我ぞ聴く、沈丁花たぎる畑を、
堪へがたき夏の灯を、狂おしき甘きひびきを。

                    白秋散人、「沈丁花」


 巷間の曰く、有為転変は世の習い、其の運動は繯(わ)のよう……と。されど、其の謂いは真のこと乎(か)。げに傍(はた)ゆ見遣れば、営みは標本化され、幾度も廻(めぐ)り、時空を折り返すひずみを現す……しかし、世の円環が色境の映しとすれば、作麼生。
 回答の一例として、主に天明・寛政期に活躍したある国学者の句を挙げることができる。

   思へらく無常と輪廻は目玉の戯

なお、別本では「目玉の戯」が「目玉の義」となっている。これを賸語(たわごと)と取るかは人次第であるが、いずれにせよ興味深い発句である。
 しかし通説のごとく、事業(ことわざ)を車輪と見做すことも理に適ってはいる。鬧市にて、どやくやと鳴る人籟の、飛び魚がごとくいきいきと、跳ねて、流れて、往ぬことも、五蘊の贍富に噯を出せる絢爛華麗な時分に、姸を争う貪欲を目の利く商人(あきんど)らが煽るのも、善悪と呼ばれるものらが渾殽と並存するも、すべて、間拍子のこまやかな差はあれ、今も昔も不変(かわらず)。やはり、世の中とは、人性(じんせい)のまわしなす車輪のごとき業(ごう)の動(どう)なのか。もしそうであるなら、恋路もなべて古川の、人の通いし水脈(みお)ではなかろうか。恋の新川なるものの、はたして、洵にこの世にてありけるや……殊に、此の、臀呫の秋津根にて。

 ——其れは、倭(やまと)の徐々にτὸ ὑποκείμενονを知り始めた時分。三都をはじめ、天下のなべて色と数寄とに狂いだし、丹波越えも東下りとなった頃。菩提は止水、教学は権柄尽(けんぺいずく)、義理はあっても道理はなく、師道の舗装のかたわらで、求道の莢草(しばくさ)は刈られもせず。このような時世では、六塵の観はかえって罪障を追認する方便(たづき)として使われ、無常は三毒を際だたす可り。世人(よびと)は「塵の世だもの」とうそぶいて煩悩をば肯(うべな)い、文殊も観世音も衆道ばかり知ろしめすなどと、天下晴れて嘲る始末。この状況に対し、同時代の真摯な緇流らは、

  いやいや増せる火宅の焔(ほむら)よ
  倭の国や無常を吹かす五濁沼

と、当時流行しつつあった前句付けを駆使して、後の川柳に通ずる辛辣な批判を投げかけている。たしかに、意気の一垢抜けた「諦め」が、仏道の四聖諦と同等に語られるべきであるかは、甚だ疑問である。そもやそも、この世の末に広がる「文化」なるものが、常に言われるように望ましいものなのかどうか。

 そんな季世の始まり——今は亡き御蔵奉行、山西行也(やまにしゆきなり)が後家すえは、所用を終え、媵(よう)侍(じ)を伴い帰途(かえさ)にあった。大きく髱を突き出した勝山髷、生えぎわのよく整えられ、伽羅の油に濡れた鴉鬢の、馥気を靡(な)ぶ。青眉は奥ゆかしく、豊肌は、下着に白絖(しろぬめ)、中に鼠に蘇芳の袷、上に縫箔の桃華を設えた淡黄・樺色の段染めを着てかるた結び、仕上げに燿霛(ようれい)を紱(まと)い居る。静淑な裾捌きから、さら〱と鳴る衣擦れは、清冽なる御御脚を、自然(じねん)仄めかす。妙齢の過ぎたる中年増なれど、新造に夢更輸さぬ﨟たけたる縹緻(きりょう)に、色好みは云うに及ばず、街行く男は誰も——久七、棒手振(ぼてふり)、陸尺、馬子、牛方、手代、御家人等々と、身上(しんしょう)の別なく、不覚(おぼえず)も一瞥する有様。「女(おんな)寡(やもめ)の姥桜、花は広がり、散るは青。すわ、末枯(すがり)を知らぬ年増かな。ちょいちょい」と、上機嫌な頓狂囃が、彼方(をち)の茶屋より流れ来る。幇間か、追酒に乗せられた大尽か知らぬが、「いや〱新造より年増がおもしろい」などと吐くのは、さだめし、斯様な好き心地なのであろう。男の徒し心は蛇蠍なる哉。くわばら、くわばら……
 藪椿、山茶花、水仙のあらましに槁悴(こすい)し、菜の花、桃、紅白の梅花、沈丁花の色づき、陽射しに啓蟄の温潤を匂わす睦月の下澣。花より団子、団子より美婦、江戸芳歳の情けの連嶂(やま)は、取り集めたる花盛り。有閑人(ひまじん)は髪長の値踏み、町の女は女形の真似と、徒し心に精を出す。文華は勘定の輪を広げ、気づけば町方は太鼓腹、街巷(まち)に人烟の鼎沸し、繋蔚する甍の、とくとくと、緝煕(ひかり)の露を垂(し)でる——宛も梅暦の流鶯、躍雀、目白の如く。而して経世済民を超えたる算用の夤縁(えにし)は、複雑に化成さるるほど自然と等しく成る耶。和煦に立てば、人も禽獣も草木も大差ない。人は自然に溶け、自然もまた人に蕩ける。街の春容は、縟麗たる見様であった。
 その人(ひと)叢(むら)のなか、商人、逸り雄にまじる仕出し女の洒落声、その綝纚たる見込みに、下燃える秘密の息急く。けけしく歩(あり)くすえなれど、心(うら)では、駘蕩たる春の陽気に緩み、今にも、洩らしかねぬ孕句(ひみつ)を、危ぶんでいた。
 其れは、色めき恋を知りし頃から、ただ女だけを款愛してきたことである。行也との間には二人の男児(おのこ)をもうけていたが、彼女は亡き夫を一度も「愛し」たことは無かった。孝行と貞淑の佳名高く、姑からの気受けもよい孀娥(やもめ)の、かけても明かせぬこと……町々に馳せる吉原や辰巳の嬌名、近頃流行りの町風呂における湯具の艶姿——立膝、腠付けのさまなどの噂を耳にすると、一目見たいとしばしば煩悶(やや)んだ。亡き夫の鍾愛した小草履取で、その義理堅さから今は中間(ちゅうげん)として召し使っている若人(わこうど)にひそかに買わせた、菱河が若衆の枕絵、また吉左衛門の美人画を、心許なき燭台のもとで忍び見ては、灯影のわななく宙の闇に、かつて見ぬ江城の大奥や廓三界を緬想(おも)い、身の護摩壇に焚き木を焼(く)べる。
『おゝ「若衆遊伽羅之縁」、おゝ「恋のみなかみ」、「恋の楽」、「組物」、「床の置物」、女づくしの取組は殊更めでたい。清信も負けず劣らず。師重は優しく肉筆がよい。師政は筆致がこまやかで、色遣いこそ妙なれ。懐月堂は優が足りない。あゝ』
 燃える念、熱する身体——漆絵が、好色物が、面懸を解き、銜を毀ち、意馬が跳ね、心猿が絹を裂いたように叫喚(おめ)く。心の水(カーマ)は堰を切って慾海に逩り、女護島に打ち寄す……其の四方を匝る、焔焔たる煩悩。護摩を焚くは、坊主姿の多化自在天とや。
 「男色は武門の花」と云う『男色山路露』、更に「お鉢米和尚はみんな釜に入れ」との破礼句(ばれく)もあるように、大公儀の御代にあって、衆道や取り合わせた恋というものは、なんら特別なことではない。しかし、それはみな男方(おとこがた)の話である。女が女を愛すること……その道に見通しを期待することはできない。神仏の道、程朱学のいまだ圽(うも)れざりたる折、苟も好色不義密通へ踏み入った女のゆくえは、三途の闇より何かある。寡婦は具体的な刑罰から免れていると雖も、儒者(ずさ)の家に生まれ、『和俗童子訓』や『女大学』のなくに、七去三従を叩き込まれて育ち、われと「婦人は、人につかふるもの也」の刻印を心身に帯びた筋金入りの貞女にとって、肆意に遊ばす心の筆の、乱れて描く姣らな夢、お山見(やまけん)じに悪所落ちばかりか、若き女郎を見受けし、恣に傅きたい抔と、光(ひかる)君(きみ)さながらの荒唐無稽。其れは言うも疎かな叶わぬ荀且(うたかた)、閫徳に悖る邪道、天魔の吐く垢塵であった。然れど、
『息子らが、いなければ……』
抔と、死水の無残に吐き出される。子息らは丈夫届にはつゆも縁なく、生まれた時より健やかそのもの。愛はあらねど、子は生せる。
「母者」
と、繊弱(ひわず)に、ひよひよ、此方に嫗煦(うく)を強いる、脳天刺しの五寸の眼差し、鳴る雛禽(ひなどり)の羂索。身に起きた現実に、想いの虚しさを知る——想いとは、なんと無力で、つまらぬものか。然れどこれだけが、草木禽獣と人との差であり、人文の源泉である。何時の世も人は想いというものの力を、かつ過大に、かつ過小に評(あげつら)ってきた。貞淑が其の好例である。其れは出離(ネッカンマ)ならで、戒(シーラ)の産物である。慣習は想いを撓め、重石のように圧迫し、終には想を不安に、不安を悪徳へと熟成させる。醇粋な想でも、醇粋な肉の駆動でもない節操は、罪業を育む糠床である。嘗て寂滅に達した比丘尼たちならば、この貞節と正思惟の差異を好く看破したことであろう。
『否、否、左様なことは。なんと恐ろしいことを。あゝ、御仏よ、この虫にぞ、平に、平に、慈悲をば垂れ給え。……』
闇夜の涕泠は、灯に濡れ、何処か、熱く。縦(よ)し梵釈が聞こし召さば、畏れ多くも、屹度斯う仰せらるべし、「燄燄不滅炎炎若何、南無三宝」

 

 春の色香は淫雨によりて流れゆくも、人の情けはさもあらず。孟夏の芝神明参りも、衆芳に心乱され、息災の祈りにも身の不入(はいらず)。女懸りというものは常に春ざれなりて、絶えず気色ばんでいる。春には春の、夏には夏の晴れありと、不如帰(ほととぎす)の諭しを聞き入れもせず、人々は宛てもなく、恢恢と色網を広げる……惑業苦の縈回は、人間を胴慾の歯車に仕立て、それを自由と錯覚させるのやもしれない。つきづきの下衆どもは、主人の気も知らずに、またとない外出の機会にはしゃぎ、かの社や増上寺の門前にのび、甍を争う東海道の殷賑ぶりに、二つ目玉の捲かれ、貪(とん)発条(ぜんまい)を回していた。参詣の途上に見し、朝露に濡れた白躑躅の容が、思わずもみずみずしく甦る。
  
  たが脱きし白き躑躅の汗衫(かたびら)や
  なづまぬ露の宿りかがやく
 
 白い躑躅は襦袢を想起せしめる。涙か汗か解らねど、しっとり濡れた晒が、しどけなく床に乱れ、其処から裸の嫦娥が霞の如く朧げに立ち昇る。……
 近頃は版元より歌仙らの歌集抄も盛んに出版されてい、詩心かしましく嘶く。其れら古をのみ頼りに、師もおらで躬行歌を詠む。亡き夫はそうした専行の歌を気に入っていた。中々の数寄者で、如何なる心積もりか知らぬが、すえに歌や絵や舞台の話をし、漸次前方なる白脛(しらはぎ)を数寄へと進ましめた罪作りは、此の男。嘗ては共に詣でた芝明神も、今は独りで拝む。かたや絆しでありながら、かたや誘惑の張本人は、もはやこの世に在らず……今や悍馬の如くなった志が、砕ける先を求め、右に揺れ、左に揺れ、小腕ではどうにも手綱を引き得ず。顔も明瞭ならぬ女の幻影が、憑き物のようにすえの脳裏に貼り付き、思念の正常なる流れを妨げていた。

 出店・見世物がつらなり、甲(こう)張(ば)った裸(はだか)蟲(むし)の殸(こえ)が、啁哳と波紋する間を抜け、「奥様、御免くだせえ」と歯切れよく、鳶の者が横切る——ふと、目先に地紙売りの立っているのに気づく。
 月代(さかやき)のない、なよよかな若衆髪の、若紫の子持縦縞を走らせた木綿の大袖から、利き腕でか、右肩だけを抜きだし、燃え立つような緋色の襦袢が顕現(あらわ)。その肩には、乙にも置手拭がものし、帯は紺に曲輪繋ぎ、夏草履に置く足の、高崎足袋に包まれ、大袖の裾との間から、わずかに素肌の見えるのもなまめかしい。そうした単衣(ひとえもの)の重なりは、胸先でしどけなくなり、石榴の皮の粉末で磨いたのであろう、皧皧とした肌が、卵のように耀いていた。歳、十有五辺と思しき状皃(みば)の、その美しさに魂消(たまげ)、しばらく声も出すこと能わず。男(おとこ)衆(しゅ)とは、江戸中にありがたくもない命婦神のように贏羡(あふ)れ、少ない女を狙ってもてつく、競(きお)い肌の連中とのみ覚え、巷で評判の美男子を見かけても、とんと身心の縺れたためしの勿(な)いすえが、一期のはじめ、「男」を美しいと感じた……この緋の襦袢から覗く柔肌のごと、男の中に秘められたる真珠の如き女性(にょしょう)の具現——かの前髪が、音に聞く吉澤菊之丞や上村吉弥と同じく、生粋の女形であることを、見抜いた。
「鳥渡(ちょいと)。その、波に千鳥の地紙を」
急き心を肺腑の蔵にこめ、俄か拵えの封をし、呼掛ける。それまで手妻の妙技に見惚れていた下女や小者が、慌てて寄ってきた。
「ありがたく存じまする」
伊達を気取る江戸っ子の小人にない、繻子のような嬌声が耳を擦る。
「其処許、下りさんかい」
「さようにござりまする」
「いずこから」
「播磨は、室津より」
「うつくしい見目をしているね。舞台には上がらないのかい」
「われらは陰子にて、それはかなわぬこと。この通り、月代(さかやき)もござりませぬよ」
 鶴の骨笄の如き指の、手慣れた手つきが織りなす所作が、眹(ひとみ)を通じ、すえの表皮をなぞる。耳挟みされた前髪は、乱れ刃の湾(のた)れの若く優雅にしなう。江戸前の武骨な立役とは違い、物腰に愛嬌としとやかさとを添え忘れていない。引締めや投げ島田などに結い、大振袖を着てめかせば、新造以上の女性になろうかと思われるほどの閑雅である——惝惝と、肌膚(はだ)に恋慕の洶(わ)く。
「住まいは」
「葺屋町に。……奥様、仕上がりましてござります」
と白磁の指が、扇を見せる。指から水を湛えた甕の如く澄んだ頰迄の、幾重もの屈折と曲線が、其の複雑な美の骨子を透かして見せているかのよう。「まあ、出来だこと。お柒、御足を。咱(みずから)が渡す」
紙入を預かる媵人から銭をうけとり、手渡すと、指先の、掌に触れ、男はかすかに面を赧(あから)らむ。その婉麗たるや、男のたわやめ風といった貧相な印象とは一線を画す、言うも更なる媚態——地連れの、えやつせぬ洗練にて、また、人めかしき女郎に欠けがちな天真を兼ねた、おしなべたらぬ真似(まね)であった。
「名は、なんと」
「菊沢春之輔と申しまする」
 眽眽(ばくばく)と、重なる眸子に、浮き立つ春之輔の赭顔は、瀟洒で、くだくだしからず。男に対し松のように靡かなかった心のしゃら解け、柳よりも蕩漾と揺撼し出す……されど、これは男心ではない。かの色子の内に這う、まことの清艶に惹かれる、女の抱く女心であった——志は、水札(けり)に似て、鏃(するど)く。


 朝(つとめて)、仏壇を前に堅実心合掌をし、悲智円満に想いの梓弓を引き絞る——折に聞く、織金網を引っ掻いたような螽斯(きりぎりす)の声。扞(ひ)き絞られた想念の矢先はあらぬ方へ放たれ、颯と空を裂き、仏間から広縁、そして庭先へ矢通間を貫くも、意気の萎えたか、庭の茂みで急に下降し、赤紫に燃えたつ紫陽花の前に頽(くずお)れる。須弥山、曼荼羅を髣髴とさせる霊妙に、信心を再び奮わす。時代は可成り下るが「必ずしも白蓮に観音立ち給い、必ずしも紫陽花に鬼神隠るというのではない」と言った散人もいるくらいである。真個、阿弥陀如来の花、菩薩の台座は蓮華でも茄子でもなく、紫陽花こそ相応しい。併しこの、妖しさ……おのずから、あの春之輔が、陽炎のごと立ち現れ、媚態が熅(いき)り、なまめく。
  
  神や知る仏もや知る紫の
  不思議ぞあると燃ゆる陽炎

 この奇しき相は、神仏諸子もぞ知らぬ異郷の陽炎か。其処より立ち出でたる春之輔とは、畢竟、紫陽花の外法箱より遣わされた神巫なのであろうか……等と、耽美に戯れる。
「春之輔」
 湑(した)む呟きの芳醇は、葡萄の罅(は)ぜらんばかりに、千の経文、万の偈頌にも優って、其の、甜き抒情に、唇のうち震える。刹那——恰も其の惑溺に感応したかの若く、彼方、紫の須弥より、鎌鼬がとく押し入り、映日果のように熟れ切った心を、一刀両断。ト、図らずも、俗なる褻涜の言、出仏身血の悪しき種が、飛び出す。
『尻食い、観音……』
其の卑しき、不敵な言の葉に驚破(すわ)と聳動する。然れど冥加も定かならざるに、斯様に毎日まめまめしく合掌する己を矢張り訝らざるを得ず。紫陽花、春之輔が、神仏の、朱子の廓から外へ招いているのであろうか。けれども、この息も詰まるほどの濃密な煩悩の快楽は、まさにこの廓にありてこそ味わい得るものではなかろうか。苟も大法、或は天網なくば、うつしみの悩みの妙味もあるまい。凡て平らかなる世に、なべて轡の取り除けられた世に、まこと甘美なる、まこと魂を潤す、まこと度し難き業の蜜の沼が、尚ありうるや。
「尻食らい、されど、ましまさねば、つまらぬ……」
天魔(マーラ)の手管に、魂は糜爛し、あえなく崩れる徳目の、其の筋目を、御仏前、背徳に酔い痴れながら、淑女は感じていた。

 

 恐るべきは愛染の火輪であり、それが盛りを極めるときには、匹夫匹婦をしてすら、常軌を逸する行為へと駆り立ててしまうのであるから侮れない。殺害、放火、心中など茶飯であり、そこまで紿(いた)らずと、当事者たちの周りに既に築かれていた人間関係を羈鞅(きおう)として厭い、破壊してしまうのも、決して珍しくない。泰西の大聖人は「それ律法は怒を招く、律法なき所には罪を犯すこともなし」とも「律法の來りしは咎の増さんためなり」とも解き給うたが、不義はお家の御法度の戒めも、今のすえには羈絏ならずて恋をいっそう焚きつける薪や油の類となっていた。
 すなわち、卯月の参詣以来、顔を合わせることはなかったものの、春之輔の姿を想い出さない日はなかった。仲人はわらじ千足とはよく云ったもので、かつて亡き主人の道楽を輔翼し、陰間茶屋にも顔が広い例の中間の、文字通り中使いとなって葺屋町の回し方や亡八らに尋ねまわり、到頭春之輔の居所を突き止めると、忍びの文をそめぞめと書き澄まし、送りあうこと数多となった。すえは己の心に従い、春之輔を「お春」と呼び、自身を「姐(あね)さま」とか「ねえさま」、あるいは女郎のように「方様」と呼ばせたりした。それは、出雲の大社(おおやしろ)もゆかしがるような、健気で、睦まじく、そしてあやしい因(ちな)みであった……さしながら、vœu du la sœurにも似て。
 
 夜、姑も、子らも、小者共も皆寝静まるなか、独り枕許にて掻き臥し、轡虫の間拍子に思いを預け、身は漂泊の椰子の実のよう。透かした障子より、青白い月影が涼風を伴い、独り寝の寂寥に綏綏と塩を塗る。濡れ縁も、竪残も、畳表も、涼しき光に澇(こ)み、障子紙は蒼潤の波紋にうちふるえる。警蹕(みさきおい)の虫の音の、其の身も絡繰りなりと颺言すれば、唐庇の無常が、肺腑に直付け。
『華美と虚空は、紙一重』
生きるも、死ぬも、豪奢も、貧窮も、悉皆苦しとあれば、などてか恋も然あらざらん。秋は病気(やまいけ)を去らせず、之を固め育む。草木は霜に萎るれど、情けは其の気配なく、我ながら呆れるほかない。鬱々たる心の沼に、先達てお春に遣りし文につけた歌が、燐火の若く、烟(けぶ)るばかりで。

  心あて待つ秋風にさよふけどなおまどわせる白菊の花

返し、

  朝露はなづむ泪や白菊の共音に啜れこの常しなえ

 嫋々と、しかれど時雨の如く力を込めて書き付けたる手から滲む恋の気迫……御は文字に迚も二度見のかなわず、さりとて無下に文殻にも出来ず。かつて良人から、慈童出立と菊花の紛紜する『枕慈童』の情景を聞きし折に、思わずも感じた、あの優なる驩欣を、お春との果たせぬさ寝(ね)ぬの幻に重ね、身は朧げにゆめうつつ。あれこそ極楽浄土の片鱗。男も、女もなく、只管に佼しい美童の、甘く、鮮烈なる影向が、十万億土の径庭も一ト跨ぎして、穢身をば彼岸へと至らしめる。
「具一切功徳慈眼視衆生。福寿海無量是故応頂礼」
法悦に絳唇の緩み、銚子の底に揺蕩う残酒(のこり)のように、黒き歯から、経文が数滴——蒼く瞬いて、零れる。

  ……ありがたの妙文やな。すなわちこの文菊の葉に。すなわちこの文菊の葉に。ことごとく現わる。さればにや。雫もこうばしく滴も匂い。渕ともなるや谷陰の水の。所は酈縣の山のしただり、菊水の流れ。泉はもとより酒なれば。汲みては勧め。すくいては施し。わが身も飲むなり飲むなりや。月は宵の間、その身も酔いに。引かれてよろよろよろよろと。ただよい寄りて。

『仮令其れが烏頭(うず)であっても、構いはせぬ……お春、お春』

 慈童(アビルーパ)が、甘蔗(かんしょ)弓を構え、菊の矢で、射抜く。五つの傷口よりた赱る漏(アースラヴァ)の露は甘(うま)く、布団と括枕とは、甘露(アムリタ)の湖に横たわる島嶼と見えた——天空より瓔珞の垂れ、伽羅の異香の籠める中、著莪の衵、牡丹の五衣、鉄線袴、薔薇の裳、卯と橙の禿、河原撫子の小櫛、鈴蘭の簪、野萓草の表着、罌粟の扇、山吹の半玉、鳳仙花の新艘、金縷梅の元結、檉柳の笄など、美々しき衆芳の圃園は広がり、其処で、傍目なく、お春と。或いは、花も亦女性(にょしょう)ならば、紜(みだ)れる恋の数珠繋ぎ。芍薬のような純情をもて、燃えるような柘榴の接吻を……髄脳の拵えた裏浄土、罌粟にも似た其の痹れを、倹約に疲れた直身の灰燼に帰すまで、叨と喫(の)み、喫んで、喫み干す。闇に沈める眼前に、欲界の裏浄土はいま立ち現れ、魂の火達磨は、灰も残らぬまで、粉を散らして吹き荒んだ。
 ……夜、謐然。漛(なみ)は已み、風も吹かず。彼岸の夢は咽喉焼く焼酎、焦がしも一瞬冷めも一瞬。菊の凋瘁(しお)れ、牡丹の罪も、芍薬の財も爛れ、墓場もなく野晒に。膏の削がれた島の血塗相をなお抱(むだ)き、身体は愁色に窶す。利(と)気(げ)無く、空見した虚空に、天の白毫が、悲しげに相好を緩め、夜風に一言「一切皆空」と添えて、憂愁のうちに瞼を重くする額を、優しく撫でた——幻は、儚くも、長羅宇(ながらう)の煙管から漂うように虚空へと消え、微睡みの帷となって、眼瞼に垂れ掛かる。其の、重く閉じつつある瞵の裏に、思い出る、梅雨葵や、木槿の、凄気なる様。咎め立てする眼差しのごと、暗く心を刺し、意の沈降に、深く、感傷の音色を添え置く。留め処なく流れる露は、御青女への、白商素節への、力なき懺悔。

 

 冬は朝と云った清女の言葉に、嘘はない。障子を開けば、握り潰しの寒威が、うんと体をつかんで離さない。徒跣(かちはだし)のまま、引っ張られるように、濡れ縁に出でれば、土蔵の楣(ひさし)、柿や桃の木、冬葵などの土毛、垣根に、紛々と、数多(すうた)の雪氅の折り重なり、冬枯れとはいえ、気色覚える。履む檜は石甃のように硬く、冷たく、袘(ふき)のすき間から、寒苦の蛇が水入(すいり)し、思わず身体の縮こまる。併し、燃える心の炭石は、雪に放り込まれたとて、消えるどころか、己の其の熱を益々激しくし、為ん方無い。
 諸恋の、羽打ち着させし斎(いわ)い児、餮饕(てっとう)の沙汰か、稀有なる頼みあり。中間の抜かりなきもてなしに、湯立つ鍋釜を真手(まこ)に持つ勢いで、綣繾の随意(まにま)、撒き心の黒袖頭巾、戸の面(も)を私(わたくし)歩(あり)き。退(の)かぬ仲、雪も寒さも足を掬い得ず、強ちの早邌(はやねり)にて、思惑の許へ——街衢には、皚き六花に埋もれて、息をも殺す銀世界。「江戸の市街が雪によりて随処にその美観を増すは人の知る処なり」と、何某散人の評も、言い得て妙である。
 貸座敷は、雪のうちに静寂(ひっそり)と睡り、人気の無い千尋の秘境の趣。門に立つ賤しき老爺の、曨曨と、余所目にうそ咪(え)み、
「お連れ様がお待ちで、へ、へ」
と古木に泊まる怪鳥の、塩辛声で持て成す。
先途(せんど)は悪趣か、然れど悔いは無い。春之輔とは已(い)今(こん)当(とう)の契りにあるが故。心の臓の騒ぎ、縁を軋ませ、
「此処でごぜえます」
 魔の眷属の促すままに、はたと腰障子を開けば、漆絵を欺く、振袖姿のお春が端座——白無垢に、鴇色の花紋に吉弥結び、凝る血反吐の丹襦袢、其の可愛ゆき容子は梅のよう。男性(だんせい)は鳴りを潜め、女性(にょしょう)が、夾雑物を排し立ち現れたる仙姿玉質の娃鬟(あいかん)の、此処に在り。娑婆は失せ、仏土の童子にも見紛う、其の麗しさ。墨色の羽織を肩ゆ外せば、ひたとお春の近寄り、羽織を預かるは、さながら若夫婦。
「姐さま。姐さま」
座り、冷えた手先を、和良紙(やわらがみ)のごと、真手で包む。
「ようやく見(まみ)えることが叶いました」
「どんなに、どんなにかこの時を待ち侘びて……お春や」
 頬を、額を近づけ、気息の鯔のごと天に弾み、音声(おんじょう)は黄鐘調に高鳴る。「仕舞までとは、参りませぬか」
哀願の風情は、雨に濡れたる海棠。帯とともに差別(しゃべつ)もほどけ、わななきは髄脳をば狂わす。
「時など忘れ、ただ啜っておくれ。この唇を。そちのその美しい丹花で」
言うや否や、のどみもあえぬ歯車の、がっちりと噛み合う儘、絡繰の腕の背(そびら)に抱きつき、奈落に引き摺り込むようにして、床に僵仆(たふ)る……朱唇に滲(し)む和三盆、愛欲の泥沼に、清らなる蓮華の、あやしく咲き誇る、見よ、影向(ようごう)しますは第六天仏、夢想の浄土へ誘(わかつ)り給わんと、直々の御引接。五蘊の梵鐘、骨肉(こつにく)鼓(つづみ)、衁(ち)の荒れ増さる銅拍子、縈絆(えいはん)する魔炎、烈々焞々、炎氛(えんぷん)のうちに鳴く迦陵頻。魔ほど優しき者はなし。魔ほど有り難き者もなし。至極の随喜、涙(なだ)万斛、閼伽の滂沱と、愛楽の任(まま)、陰より溢(あぶ)る。
 意は茫漠と、彼方此方の懸隔も無く、四肢は忍冬の乱れざま。腹内(はらぬち)には異安心の滾りて、汗ばみつつ豚児を想う。雪が、一隙を埋め、声は届かず、遠く鹿鳴のように、寒風が淋しく吹き付け、児らは昏き空に消えゆく。朧に響くは婬楽の音、声ある春之輔の梵唄ばかり。吾が君、吾が仏……すえは、自由(モークシャ)を、体得した。

 ……裂ける充足、緩み切った眼の、俄に引き絞られるような、疑わしき有様。春之輔の背後より重なるは、かの中間——鼻を刺す黄蜀葵の香り、通和散を塗り込み、罌粟の如き翳りを笠に着、騎虎之勢に猛る野偶。水芙蓉は散り、顔ばせは、烏藍婆拏(ウランバナ)と、有頂天とにひび割れて、醜く歪む。
「奥方様、お許しを、どうか。此奴めが、あんまりにも、可愛いもんで。溜まりかねて。奥方様には申し訳ねえ。ああ、そうだ、悪いのは此奴です。此奴なんです」
然う述べども、目つきはうつらうつらと現無く、一度たりともすえを見ず。春之輔も、悒悒と狂悖に呑まれ、息を切らすばかり。
「あァ、フウフウ、ひぃ、ひぃ」
「こいつは、ああ、上豚だ。なんて菊座をしてやがる。いい、いいぞ」
女性と男性との打ち烟る調和は、うつたえに失われ、闇雲な二者の屹立と相反が、渾敦に目口を空けるが若く無造作に鬩ぎ合い、三悪道に堕する春之輔の、様は正しく餓鬼か畜生。
 漠たる識に、案の外なる三つ巴、もはや何が誰のものとも区別の付かず、卍巴の乱脈に、恋のけたゝましく千切れゆくのを聞く。度を弁えぬ増長に、張り裂けた自由、破れから、自在天が顔を覗かせ、
『汝(うれ)が、この豚に見ていたのは何ぞ』
『……』
『言わぬのか。口を開かぬか。頑迷の龍め』
『………』
『ならば、おれが口に出すまで』
『…………』
『己であろう。己ならずて、なんであろうなあ』
『………………』
『無徳よのお、無明よのお』
快哉と、嘲繥(あざわら)う。
 衆合に落ちる心地して、想い馳せるは、繇繇と——幼き頃、父の書院にて、屢々瞧(ぬすみみ)た『老子』の一節、
「谷神不死是謂玄牝。玄牝之門是謂天地根。綿綿若存用之不勤。」
隠約なる這個(この)言葉に、すえはいかばかり狂わされたことであろう。夫の誘惑はたかだか、徳目の縄に縛られ、黒甜に甘んじていた性をば、目覚めさせたに過ぎない。
『牝こそ天地の根……なんと、脳髄(なづき)を愚(お)る、酩酊の心地。綿々と存する玄なる源、それが女性、それは、畢竟、わたくしこそ天地を司る者、死なぬ女神ということよ………………』
下樋の沈殿(おどみ)、終に噴き出す。
 死せる身にて、斯様な戯言を冥々思うが人の常。娑婆こそ地獄道。死せる神々の有象無象。其の浅ましき交合は禽獣と変わらず、亡き夫との唾棄すべき記憶が、骨を得、肉を纏って甦る……忌むべき卍の果て、現形するは、憤怒に顔を顰めた、火生三昧の東照大権現。
『お止めくだされ。御覧ぜられるな、東照大権現様……』
愛欲に焼き切れた竜と、苦楽に喘ぐ豚と、没義道な修羅の、凍える雪下、火鉢よりも熱く、塵芥吹かし、漏に悶え居る。矗矗と、憍の内より突き上げて、此の身は生ける刀葉林。陰より手招く嫦娥らは、仮面をつけた髑髏。ああ、褻涜の剣樹地獄よ、お前の其の自足の驕慢が、仏を無みするのだ。……

 老翁の、刻を告げに来しきざみ、座敷のうちは落花狼藉の体。返す返すも、度し難きは此の糞土哉。

 

 恋は目口開(はだ)かる自賛と知り、瞬く間に冷え、操を連れ戻す。寄る辺なき春之輔、あらゆる手立てで頻りに文を送るも、眼を通すこともなく文反故に。其の内、役者としても目が出ず、結句江戸から居なくなったと、風の便りが、耳朶をかすめた。
 うつし心を失っていた、例の中間には、亡き夫との三世の縁があるとはいえども暇を出し、家から追放した。何も知らない姑や小間使いの者らは突然の決断に此れを訝り、二人の間に何か良からぬ事があったのではと邪推し、証拠もなくに、陰で苛辣に非難した。周囲の聞こえは悪くなり、肩身も狭くなる一方。彼は遠方に旅立ち、其処で程なく自刃したとか。……
 其れでも幾重と四季は巡り、年を追うごとに、曾て以上質素になり、軈て女への情念も色褪せ、滅尽しつつあった或る孟春——つい先だって、長子の元服が済み、其の素襖姿に、安堵と頼もしさという、燃え滓の如き感情が月並みに生まれ、魂の焚き殻より、極彩色の香煙の消えて、尽きかけた心の僅かな起伏は、愈愈専ら仏にのみ差し向けられていた。
 縁側で、晦と朔の忙しさにほつれた心身を休め、空をうち眺む。庭の梅の、命の凝縮した紅色と、漂いくる芳香、春の兆しを予感させる真白き日の光に、擦り減った魂の輪灯に、纔かに、火が——。
 すると、彼方の茂みから、聞きなれぬ物音がした。確かめる間もなく、颯と、獣の影が飛び出したかと思えば、みるみる大きくなり、人形を成した——如何にも賤しきなぐれ者なれども、よく見れば面様の端正で、褪せた髪を若衆髷に紫帽子を付け、美男の気配がほの薫る。
「姐さま!」
突如として、沈黙を貫く咆哮。呼び掛けは、面打つ平手のよう。
「姐さま!」
撞木の二度突き。銖鈍に仮寝する心に、俄かに泉の甦る予感が駈ける。
「お春かい?……お春なのかい?」
「姐さま。」
萎れた花に置く露の、日影のゆるやかなる流れに合わせ、落ちる。
「お春、おまえ、息災だったんだね」
い寄るべく立ち上がろうとすれば、それより速く、春之輔の駆け寄り、すえの膝元に縋りつく。
「姐さまに捨てられて、わたくしは、わたくしは、もうすっかり心も乱れて、芸に身の入らず、本子にも成れず仕舞いで、江戸を去り、今は旅子として露の身をしのぐばかり……猪武者、芋侍、出女どもに弄ばれ、それでも、いえ、それだからこそ、姐さま、あなたさまを思わない日はございませんでした。一目、せめて一目だけでもと思い、矢も楯もたまらず、此処に。ああ、姐さま。わたくしは、嬉しゅうございます。しかし、しかし姐さま、お捨てになるとは、あんまりにもひどい。むごい仕打ちではございませんか。すべては、あの奉公人(つかうまつりびと)様の御横暴。わたくしの咎にはござりませぬ。けれどあなたさまは、手紙一つ受け取ってくださらなかった。お目に通してもくださりませぬ。故に、わたくしはこうして、盗人のごとき真似をし、あさましき今の身の上を晒す恥を忍んで、それでも、あなたさまに、重ねて、お会いしとうございました……」と、絞るように言い終えれば、あとは顔を膝にうずめて、歔欷(すすりな)くばかり。
 少し黒ずめど、変わらずの湊理に、しっとりと膝の温み、恋の草分け衣から、やせ衰えた襟首の、沈鬱な後れ毛のこぼれたものが、御髪とともにふるえているのも、転たいじらしい。変わり果てた姿形——併し、あの時幻滅した醜い姿はつやつや無く、あえかに、潮垂れるさまに心地違う。さりとて、輝かしき女性の顕現の翳り、嘗てのようではないのも又確か。這箇(この)、わりなき感情(かんせい)の細波に、鬼籍に入った古恋の蘇り、扠も、今更どうすることも出来ず、もだもだと、手の遣りどころにも困り果て、うじつく。
「姐さま、わたくしはもはや、生きていたいと思いませぬ。どうせ叶わぬ恋でございます。どうか、わたくしを殺してくだされ。あなたさまの手にかかれば、次は椿や牡丹となって、あなたの御許で咲き誇りましょう。これ以上のことは何も望みませぬ。不届き者として、あなたの手で、殺してくだされ」
見上げた目には、凄まじき執心の焚き荒び、すえを魂消(たまぎ)らす。開(はだけ)た衿から取り出されたのは、執心に光る抜身の懐剣——最早、観念する他なく、すべては自業自得、恋の奴の所縁とて、
「お春、許しておくれ。こちに意気地がなかった。そなただけを逝かしなどしない。とてものことに共に死のう。その刃で刺しておくれ。こちも、この刃でそなたを刺し貫こう。すべてはみずから蒔いた種。これも縁よ。諸恋の一蓮托生。共に死に、また生まれ出でよう。今度は花と虫にでも。屹度、生まれ変わろう」
腰物を持つ手を真手で握り、やむなく、執心に応える。
「姐さま……わたくしは、わたくしは、うれしゅうございます」
春之輔の涙に濡れた鈹(つるぎ)が、一入妖しく煌めき、すえも思わず涙ぐむ。
 そうして、懐から守脇差を取り出そうと——其の、折も折、
「ああ、奥様! 曲者、曲者よ! たれか、かれか! 奥様が、奥様が!」庭働きをしていた下女の、周章の絶叫が、屋敷中に甲張(かんば)る。
 南無三と、思えど既に時遅く、春之輔を逃がすことも、互いの肉を貫く間も無く、下衆共の次々と押し寄せ、春之輔をば強淫と勘違い。
「てめえ、奥様から離れやがれ」
と剣抜いて息巻く、鎌髭に偉躯の嵐子、鬼の剣幕に、すえの肝も冷え込む。気圧された春之輔は、舌も動かず、ガタガタと、蒼白に黙り。其の隙に、かの鬼子(おにここめ)、力任せに後襟を引っ張り、春之輔を引き離すと、地べたに叩きつけ、頭や、腕や、腹や、脚と、処嫌わず、剛悍(ごうかん)たる蹴りの嵐。
「なんてことしやがる。この破廉恥漢め!」
のたうつ蟒蛇(はは)の、吐く酸赭。小さき嘲哳(ちょうたつ)、吨吨と、哀れに入混じり、息の辛うじて通う。其れでも鬼は尚許さず、腕を伸ばして躰を起こし、強いて五体を蹲らす。
「そのしゃっつら、潰してやる。こうだ、この、この、畜生めが。誰に手を出したか、分からせてやるわ」
藜の貌形、醜く膨れ、蘇芳の汁は止め処なく。発露した女性は硬く凝り、無情の辰砂と成り代わる。
「ア、ア、あね……さま……」
鴉に啄まれ、毀れた鳩の、死に瀕し、強ちに頭を動かして、すえに救いを求める其の眼差しに、蹴爾、顔を背ける。女に成り損ねた男は、res extensaに成り果てるの邪(か)……其の自堕落(しだらく)懐なありさまに覚えるは、何ともなや、猥褻の感。腰の物を掴んでいた手も解け、だらりと、軒下に落ちる。
 是は恋ならず。弱者を玩具とのみ見做す、造物主の、被造物に対する感なり。絶対者の、己への湛湎。お春は、ただの慈童面。己と己の美の観念とを写す鏡。浅ましくも、逃れ難い、酒の中の酒を、仮面に託けて呑み干し、其の妙味に酔い痴れていた大虎、其れが此の女。
「あ、あ、そんな、あんまり、だ。あんまりだ……」
声涙相下り、漻然と、毀壊(めげ)ゆく現身。流し目に盼(み)える、金百合の阻喪、最早声も上げず、息差しは乱れ、衣を萎らせ、搔き暮れる。猥ら、余りに猥ら。美感の蜈蚣が、背筋を這いずる。ああ、お春よ、壊れよ、もっと、もっと壊れてしまえ、震えよ、狂えよ、狂ってしまえ、なれは、我が玩具なのだから。……
 ——其処へ、草鞋のか寄る音、足遬(あしばや)に、奉公人共の籬を抜け、みんずりな大銀杏に、裃姿の男影。判満ち、迷いなき顔つきで、はしこく、抜身の打刀を翳し、銀河九天より落ちるが如き、一ト振り。
「御免」
疾風(はやち)の、骨を裂き切り、転がる生頭、小場に描くは葉鶏頭。総毛立つはか、堪能に余りある淒慘に、恍惚の汐路は退き、残る、硬き、肉の砂塊。
——隙なく、返し刀の懸け。
「母上、『煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我』と、上人の仰せです」
御目見え帰りの長子、すえを盻(み)る面差しに沿う、見慣れぬ威容——遍身は、淋灕と、迦楼羅炎に滾り、柄握る拳も、血潮の奮迅する。盰(みは)った瞵(ひとみ)の奥処に、忿怒の、いと閑靖(しずか)に渟蓄し、其の穆忞の様は、化身されたる不動明王(アチャラナータ)。丹朱の絡まり、曼珠沙華の乱れ絡まる霜刃の、日輪が下、般若(プラジュニャー)の火生する、俱利伽羅に思われた。…… 

 それから月日も経たず、かの絵島事件は起きた。倶利伽羅に心を刺し貫かれ、育まれていた発菩提心の芽の、此の事件を契機に、到頭花開いた。悩は依然深い。されど、術を無み、仏智に遵ってすえは薙髪し、某とか云う古刹に入山したとか。

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