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みんな違っていいではなくて、そもそもみんな違うんです。

このタイトルにある言葉を映画の案内でみて、
そこにグッときました。

違うって注目されることは
違いをより強調されるみたいになるから。

人間、みんなもともといろいろ違ってる。
だからこそ、面白い。

いろんな花があるみたいに、
いろんな色があるみたいに。

不登校になった子は登校刺激はやめて
そっとしておいてほしいってよく言うけれど。

それって人と違う今の状況に
注目しすぎて、「違う!」って
切り取られるように感じることが
苦しいんじゃないかな。

だからそっとしておいてほしいって気持ち
なんじゃないかな。

歩み寄りたい時は、そっと側にいるとか。
好きなことの話をするとか。

ただ在ることが嬉しいって気持ちで
いたいね。

そっとしてほしいっていうけど。
本当の気持ちは言葉になった奥に
隠れてしまっているかもしれないね。

もし話せそうなら、
「こんな風に見えるのだけど、どうかな?
違ったら言ってね」って聞いてみたら。

決めつけにならないで、
気持ちを知ることができないかな。

大人もみんな違ってる。

自分の心の奥に眠っている制限の枠があって。

いいお母さんでいたいとか、
そういう今までに培われた価値の中から。

時に、そこと違うものを出すのを恐がる時がある。

みんなと一緒になろうとして、
違いが苦しさになってしまう。

でも、違いは違いでそれでいい。
それは、今すぐには難しくても、
本当はただ在るを尊重しあうもの。

だからあなたが違いを持ちながら
ただ在ってくれたら、
人にもそれでいいんだよって伝えることにもなる。

その違いは切り取るものではなくて、
繋がりを生む魅力になるから。

心の奥に眠っている価値観の制限の枠にも。

心の奥に語りかけて、その制限のない
イメージをしてみる。

人にやりたいことは、自分の心にしてみること。
そもそもみんな違うまま、
そのまま在るを大事にしたいって。

不登校はそんなことも考える機会をくれる。


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