見出し画像

わたしのお母さん。

今日4月1日は亡くなった母の誕生日。
2011年12月1日に64歳で逝った。

母の事を想うと未だに背筋が
シャン!とするそんな存在だ。

完璧で、負けず嫌い。
根気強く、キレイ好きで、料理上手。
わたしが学生の頃、急に友達が
家に遊びに来ても、いつも美味しい
料理を振る舞ってくれた。
裁縫が得意で、小さい頃のわたしの洋服は
ほとんどが母の手作りだった。

飽きっぽいわたしとは全然違って
何かを始めたらとことんやり抜く。

花道、書道は師範の資格を持っていた。
晩年は俳画の先生になろうと
頑張っていたし

20年以上ほぼ毎日スポーツジムに通い
泳いでいた。

そして、よくしゃべる。

まさに"口八丁手八丁"を絵に描いたような
人。

嘘と卑怯なことが大嫌いな母。

ひとりっ子のわたしを決して
甘やかすことなく本当に厳しく育てた。

温かく、頼りになる母。

そんな母が脳出血で、倒れた。

忘れることができない日
2010年3月18日
仕事中に母の携帯からの着信
こんな時間に変だなと思いながら
電話に出た。

もしもし、、、

「こちら、救急隊員です
〇〇さん(母の名前)を搬送中です。
現在意識不明。
〇〇病院に搬送予定ですが
すぐに来られますか?」

頭が真っ白になり吐きそうになった。
事情が全く飲み込めず

「すみません。
わたしは直ぐに行けません。
父に電話して下さい。」
それだけ言うのが精一杯だった。

上司に事情を告げ早退した。

しばらくして、父から電話。

「お母さんが大変や、
すぐこっちに来られるか?
いつものようにスイミングに行って
そこで倒れたらしい。
意識不明の重体とだけは聞いたけど、
詳しいことは病院に行ってから」
と、父も相当動揺しているのが
電話の声から伝わってきた。

「わかったすぐ行く。」とだけ言って
電話を切りすぐに東京駅に向かって
新幹線に乗った。

いつもの何倍何倍も長く感じた。
車中では
重体、、意識不明、、、
「お産の時以外病院になんて
行ったことがない!」
と言うのが口癖だった母、
風邪すら引かない母が、、、
どうして!
どうして、、、なんでなん!
どうか命を助けて下さい!

ただ祈るしかなかった。

そうして、新大阪駅に着く少し前に
父からメール
「手術は成功した」
と。

とりあえず一命は取りとめたとのことで
少しは気持ちが整ったものの
母の顔を見るまでは安心できなかった。


わたしの実家は奈良で、新大阪から
さらに電車で1時間くらいかかる。

ようやく、搬送先の病院に着き
ICUにいる母と面会。

変わり果てた母の姿に涙が
止まらなかった。
顔はパンパンに膨れあがり
頭からは何本ものチューブ。
意識は戻ってない。
それでも
温かい母の手を握りしめて、
ホッとしたこと、あの時の手の感触は
今でもしっかり覚えている。

短い母との面会後、主治医の先生から
お話があった。

脳の血管が2ヶ所破れて出血したため
開頭手術を行い、出血は止めたが
脳の腫れがひかない状態。
今も頭蓋骨の一部は外したまま。

今日から3日間が峠で、
最悪の事も考えておくように。

もし、命が助かったとしても
植物状態になる可能性もある。

そんなような事を、、、

たんたんとおっしゃった。

主治医の先生の言葉をただただ
聞いてはいたものの
まるで現実味がなかった。

実家に戻った。
母が朝まで普通に過ごしていた形跡を見てまた胸が苦しくなった。

長女の母はお彼岸に会う
母の妹や弟に渡すために手土産を
ちゃんと用意してあった。
母らしくいつでも準備が早い。

スイミングに行くために着替えたのか
几帳面な母らしく部屋着が丁寧に
畳んで置かれていた。
わたしなら、また帰ってきたら
着るんだから適当に椅子にかけておくけど母は違う。そういう人なのだ。

そして、笑顔の母が台所に立っていない
現実を受け、ますますやるせなくなった。

それから3日間のことはほとんど
記憶にないのだが、峠は越え、
意識を取り戻した。

最悪な事態は避けられたし
植物状態にもならなかった。
が、
高次脳機能障害で
左半身麻痺。
要介護5の寝たきり。

あんなに完璧な母が
自分でお風呂に入ることも、
ひとりで食べることも、歩くこと、
トイレに行くこと、字を書くことも
できなくなった。
あんなにおしゃべりだったのに
しっかりとしゃべることも
できなくなった。

なんで、なんで、なんで。
どうして、母が!
悲しみより怒りが込み上げてきた。

できないことにフォーカスするんじゃなく
出来ることに目を向けて、
命があることに感謝しよう!
当時は、そんなこと到底思えなかった。

それからすぐわたしは妊娠している
ことに気付いた。

一度、流産しているので、
父に心配をかけてはいけないと思い
安定期の5ヶ月まで妊娠を告げず
毎週金曜の夜、仕事終わり
新宿から夜行バスに乗り
奈良の実家に行き、日曜日の朝に
東京に戻る生活をした。

母は日に日に良くなっていった。
ただ、意識がはっきりしてきたのと同時に
母は、自分の身体に起こった事を
知ることになったのだ。

歩けない、食べられない、話せない
寝返りすら自分で出来ない。

ある時、母が目に涙をいっぱいためて
動く側の手、右手を力一杯握りしめ、
ベッドの柵をガンガン叩いていた。
母の涙をわたしは産まれて初めて見た。

この時、わたしは、悲しさと怒りで
いっぱいになっていた自分が
情けなくなった。

一番つらくて、つらくて、悲しいのは
母なのだ。
排泄の世話、食事の世話をしてもらうのが一番つらいのは母なんだ。
だからわたしは泣く資格なんてない。

その日から泣くのをやめた。

ありがたいとことに、わたしは、
妊婦だと誰もが気づかないほど元気で
つわりもまったく無かった。

安定期に入り、まずは父に伝えた。
父は、
「もう、とりあえずは落ち着いたし
お父さんひとりでも
お母さんの面倒は見られるから
自分の身体を大事にせな、あかん!」
と言った。

それから、病院にお見舞いに行って、
母に
「また、赤ちゃんが来てくれたよ」
と、伝えた。

母は、言葉にならない何かを発し、
顔をくちゃくちゃにしながら泣いた。

「あんたの力になれなくてごめんやで」
と、言ったようにも思えたし
「ありがとう。良かったなぁ」
と言ったのかもしれない。

どちらにしても、その時の涙は
うれし涙に間違いなかった。


母は強いのだ。
自分が半身不随にもかかわらず
わたしの心配をよくしていた。

ある時、病室で母に
なんだかんだと話していたら
急にベッドの脇の引き出しを指して
『開けて!』というような
ジェスチャーをした。
開けてみたら、ハンドクリームが
入っていた。
いつも母が使っているものだ。

わたしは、ハンドクリームを手に取り
「これ?これどうすんの?」と言うと
母はハンドクリームをつかみ
片手で蓋を開け、クリームを出し
わたしの手に塗った。

その頃、妊婦でホルモンバランスが
おかしくなったせいか?
アトピーが悪化して手が荒れ果てていた。
わたしはそんな事を気にする暇が
なかったのだけど。

母はちゃんと、気にかけてくれていた。

嬉しくて、泣き崩れそうになったけど
我慢した。涙は流さないと決めたから。

母は9ヶ月の入院生活を送った。
その間に何回も手術をした。

自宅介護をするため、実家を
バリアフリーに、お風呂もトイレも
車椅子の母が使いやすいように改装した。

嬉しいこともあった。
娘が元気に産まれて来てくれた。

母のことがあったので、わたしは
母の病院の近くの産科に入院手続きをし
そこで産むと決めた。

出産で入院していたわたしの退院と
母の退院が偶然にも一緒になり、
一気に実家は賑やかになった。

しばらくわたしと娘は奈良で過ごした。


母はかわいい初孫を何回も撫でていた。
車椅子の母の膝に娘を乗せて
お散歩もできた。
お花見にも行けたし、
デパートに行って、娘の洋服を
母と選び買うこともできた。

このまま徐々に回復するんだろうなって
歩けなくても、少しは話せたり
スムーズに食べられるようになる!
そう信じていた。

だけど。

退院からおよそ1年後、、、
娘の1歳のお誕生日を一緒に祝うことなく
母は天国へと旅立った。

母はすごいのだ。
カップラーメンひとつ作れなかった、
洗濯機の使い方ひとつ知らなかった父が
炊事、洗濯、掃除、全部ひとりで
出来るようになるのを見届けて
この世を去ったのだ。

東京に嫁いだ娘に迷惑をかけないように!

母がわたしに残した、最後のギフトは
とんでもなく大きかった。

もし、スイミングスクールで倒れた時
そのまま死んでいたら
おそらく、父は喪失のあまり
家事など出来るようにならなかったはず。
自分のためだけになんて、なかなか
ご飯を作ったり出来ない。

病気の母に食べさせるために料理を覚え、
キレイ好きの母が気持ちよく過ごせるよう
掃除をし、洗濯機の使い方も覚えた。

大阪のオフィスを引き払い
自宅に事務所を移し
退院後は家で母を介護する!
と、決断した父もすごい。

おかげで、今、父は奈良で
少しは淋しいとは思うけれど、
充実した一人暮らしを送っている。


在宅介護中
朝食の後はいつも、母と字を書く
練習をしていた。
その日も朝ごはんを終えて
字の練習をしようとしたら
母が突然、マッキーペンを握りしめて
新聞に吐き出すように書いた。

『何すんのも自分で出来ないので
自分自身がいやになる』

と。

画像1

この母が文字を書いた新聞は
わたしの宝物だ。

これを見たら、なんでも出来る。

何するのも自分で出来るのだから、
身体が自由に動くのだから
さあ。やろう!
って思える。

母はすごい。

だから、わたしは
今日も笑顔で生きてゆく。

最後の最後まで生きる事を諦めなかった
強い強い母がいつもわたしを
見守ってくれているから。

今日はそんな母の73回目の誕生日。
生きていたらきっと、
孫には、あま〜いおばあちゃんに
なっていただろうな、、、(^^)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?