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【ショートショート】 『荻本市役所 うがちぬき課』

荻本市役所の3階、エレベータを出てすぐ左にその課はある。平日の11時半過ぎ、その窓口では一人の老婆が職員の加藤に何かを訴えていた。
「ですからねえ、うちからスーパーに行こうとすると駅の中を通らなあかんでしょう。そしたら階段の上り下りがね、あるでしょう。それがしんどくてねえ、下のとこで相談したらここのところで話聞いてくれるいうからね、まあ私はお願い聞いてもらえるならなんでもええんですけどねえ」
老婆は70代くらいだろうか、扇子を片手に延々としゃべり続けている。そんな相手に加藤はたじたじとしつつも、ペースに呑まれぬよう言葉を挟んだ。
「そうですか、スーパーに行くのに駅を越えないといけないんですね。でもね安田さん、私共の課でも今のところ”アレ”をその近辺でやる予定が無いんですよ。」
老婆はどうやら安田というらしい。
「予算の方も組んでるんですけどね、当分は難しいと思うんですよ。安田さんが困ってるのは私共も重々承知しているんですけどね、今はちょっとどうにもならないんですよ」加藤も負けじと説得を試みている。しかし、そんなことは意に介さず老婆が再び口を開く。
「ですからねえ、駅のとこちょっと“うがちぬいて”ほしいいうてるんですよお。何年か前も道路のとこでやってはったでしょお」
まるで加藤の説得を聞いていないかのように、老婆は必死に自らの頼みを聞いてもらおうとしている。確かに数年前、この“穿ち抜き課”ではビルを穿ち抜いて中に高速道路を貫通させていた。
「私共“穿ち抜き課”でも検討はさせてもらってるんですけどね、今年から再来年にかけて山を穿ち抜いてトンネル作る予定なんです。それが終わったらですね、駅前を穿ち抜いて荻本駅の東口から西口にもっと楽にいけるようにしたいと思ってるんです。それまで少し待っていただけませんかね」
12時前だからだろうか、加藤の語気からは、話を早く終わらせたいという焦りを感じる。穿ち抜き課では、市の様々な建造物や山を“穿ち抜く”ことで、市井の人々の暮らしを豊かにしている。しかし、人々の“穿ち抜き”需要と、その供給が釣り合っていないことは明白だった。市民は、荻本市にもっと“孔”を欲している。加藤は老婆の話を逸らそうとする。
「安田さんの家から駅を通らずに行けるスーパーマーケットが確かあったと思うんですよ。あの文化会館の近くのとこでね、最近できたんですよ。安田さん家からも近いですよ」
代替案としては上出来だろう。ドリルを買う人は、ドリルそのものでなく“穴”が欲しいのだ、という格言がある。今回の場合、この老婆は“孔”が欲しいわけではない。スーパーが欲しいのだ。この加藤が出した妙案を、老婆は「わたしは新しいところはいかないの」と一蹴した。加藤は態度には表さなかったが、頭を抱えているのは誰の目にも明らかだった。そこからは、一方的に老婆が言葉を吐いていた。すでに加藤以外の職員は昼休みに入ろうとしている。加藤はしきりに腕時計を確認していた。時計の長針と短針は、頂点を指してぴったりと重なろうとしている。お客様対応中は休憩に入ることができない。そして昼のチャイムが鳴っても、対応を中断することは許されない。対応に掛けた時間だけ、休憩時間は減っていくというのがこの市役所のシステムだ。
もう万策尽きたかのように思われたその時、加藤は老婆につぶやくように何かを言った。加藤が何を言ったのか、途端に老婆は先ほどの粘りが嘘かのようにすくっと立ち上がり、「ありがとねえ」と席を立った。老婆は持っていた扇子を手提げ袋に詰める。窓口で椅子を戻した老婆は、行き先が決まっているのかすたすたと歩みを進める。


そして、“俺”の課の窓口に来た。
「ここの“たぐりよせ課”でねえ、西口のスーパーをねえ……」
あまりに遅すぎる12時のチャイムが、今鳴り始めた。

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