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メジャーじゃなかった心の病パニック障害【20】

ー 色んな挑戦 ー

転職

バブル崩壊後、世の中は疲弊しており、
ジュリアナ東京も無くなりスポーツショップに変わっていた。
会社も早期退職優遇制度を打ち出すも、上手くいかず、当初は40才以上を対象にキャンペーンを打って出たが、そんな働き盛りの責任世代がすんなり辞めることもなく、遂には全社員対象でキャンペーンを拡大していた。
高卒で入社して6年目の僕でも辞めれば退職金を積んでくれる。たかが5,6年で100万弱頂ける。
スノボの先輩がぼくに『会社やめちゃおうぜ!、おまえ一生この仕事していくつもりか?』と"辞める気マンマンでぼくを道連れにしようとしていた。
ぼくはというと、そんな誘いの前から実は、病気を克服するため原点に帰って考え抜いた決断があった。
それは、飛行機克服だった。
スノボの先輩から言われた『一生この仕事…』など、数年前から継続するつもりは更々なく、次何しようかを模索していた。景気は悪化の一途と言われてたが、求人自体にが減っているかわわからなかった。
当時、フロム・エーなるバイト雑誌がポピュラーで、職に就いているにもかかわらず、愛読する者も多数いました。
そこで見つけた飛行機系のお仕事が、毎週数件は必ず掲載されており、決まってもいないのにドキドキしながら気になっていた。
飛行機に乗ることがダメになったが、いずれ克服すべきであり、その対策を講じなければならない。
としても、行動療法たるものを実践するにあたっては、"近所に食い物に行く"レベルとかの代物でもなく、まさに、お金も時間も要するのです。
一番手っ取り早いのは、働いちゃおう!。
そして、慣れちゃおう!。
と浅はかな考えで、毎週求人雑誌に目を通し続け、気持ちがそちらにシフトしていった。
この手の職種の勤務地は、羽田か成田のみとなり、就労時間も俗に言う定時ではなく、昼夜問わずのシフト制であった。
自宅から時間的、距離的に通う術がなく、寮完備の条件を見つけては候補にあげていた。
こんな思いを持ち始めた頃合いに、"早期退職優遇制度"たるものが該当したことも重なり、会社を去ることに。
まだ転職先も決まらないうちに退職をしたため、不安要素である薬の処方はというと、国民健康保険に切り替えるも、通院継続である理由から、退職したにも関わらず、会社の健康保険が延長で使える制度なるものの権利を得て、医療費は2割負担のままであった。
スノボ先輩は会社を去るぼくに、
『ごめんな、おれ"コネ"で入っているから辞める訳にいかないんだ。お前を辞めさせたんじゃないか?と所長から言われて、すまない。』若者の"辞めてやる"の意気込みなんて所詮こんなものなのだろう。
ぼくは、自分の意思でやめるからそんなこと言われても…という気でした。
「またスノボいきましょう」
とだけ言った。
そして、スノボ先輩からは、今でも年賀状がくる。
『スノボいこうぜ。』と。
彼もまた、ぼくが病気であることを知らない。
退職金は車のローンの返済に当てた。


さて、飛行機のお仕事はまったくの畑違いになるのですが、
2件の契約社員の求人に目星を着け、電話をして面接を受けることになった。
赤い鶴のマークのグループ会社Jと、青と白の機体のグループ会社Aをるけることに。
成田空港の貨物が集うエリアで各々別日に面接を受け、青白のA社は、リクルートスーツを身にまとったお嬢様風やお坊っちゃま風の求職者の方々に囲まれ面談をするも、あえなく撃沈。
一方赤い鶴のJ社は、ぼくひとりしかおらず、適当に事務所の一角で簡単な話を聞き、いつから来れる?的な拍子抜けするものでした。
Aの募集要項はホワイトカラーな業務であったが、Jは肉体労働で、いわゆるブルーカラーであった。
成田の隣の富里という町に寮があり、勤務体系は日勤、遅番、夜勤、明け、明け休み。
このサイクルで、業務内容は機体の内外の清掃、軽微なメンテがメイン。車でいう車検みたいなものと、教育された。
あえなく採用通知をいただき、健康診断を受けることになる。そして入寮し、成田界隈の狭いコミュニティで生活をすることになった。こうして飛行機克服の道へ挑戦するのであったが、長くは続かなかった。

つづく。

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