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ことばが無くていい時もある

息子が居なくなった直後、今まで考えたこともない様なことが次から次へと頭に浮かんだのを覚えている。

わたしはその頃は毎日、息子に向けて手紙を書き続けていた。息子は手紙が大好きな子で、事がなくともよく、手紙をくれた。だから今度はわたしが手紙をたくさん渡してやろう!と。

そしてどこにいるのか分からなくなった息子に宛てた手紙の中で、その今まで考えたこともない様な、わたしの頭の中のことを知らせた。

書いた内容はほとんど記憶になくて、息子が好きだった線香の香りに包まれながら、ただ涙を流しながら鼻を垂れながら書き綴ったことしか記憶にない。

わたしは書くことで自分の気持ちを静養させる気があるのだけれど、この時期は書いても、書いても、悲しみや怒りや言葉では表せない気持ちが大き過ぎて、どうにもならなかった。

紙とペンだけではわたしのエネルギーを抑える事が出来なくて、なんでもいいから何か創作したいという気持ちに駆られた。今しか出来ないんじゃないかとさえ思った。

芸術家を探して訳を話し、弟子入りして、この気持ちを形として残せたら少しは落ち着くんじゃないだろうか…。とにかくひたすらそんなことを頭の中で想像しては泣き疲れ眠りにつく日々だった。

頭ではそんな風に思っていても身体がいうことを聞いてくれる時期ではなかった。鉛の様に重い時期だった。

その時期にわたしがひたすらやったことがもう一つあった。ネットで同じ様な境遇の人の書いているブログを読み漁ることだった。読み疲れてそのまま眠ってしまうくらい読んでいた。

息子がこの世から居なくなってしまったことに責任を感じていたので、息をすることすら許されないと感じていた頃だった。頭ではそう考えていても、限界を超えたボロボロの心は一筋でも良いから光を感じたかったのだと思う。

お子さんに対するメッセージを毎日のようにブログに綴るもの、グリーフケアで立ち直ったもの、お坊さまの説教で立ち直ったものと、色々あった。

でもどれもわたしの心には沁みてこなかった。
どれも「自分がくよくよしていたら亡くなった人に申し訳ない、亡くなった人が悲しむ、亡くなった人が心配して成仏できない。」ということが共通していたからだ。

きっとその人達もしっくりこないけれど、そういう風に考えることでどうにか自分を立ち上がらせているのかもしれない。(それが悪いとか間違っているとかいうことではなくて、わたしにはスッと落ちてこないと感じただけなので、気を悪くされないで下さい。)

亡くなった後のことなんて、誰が知っていると言うんだ。少なくともわたしは知らない。

ひねくれているのだと思うけれど、分からないというのは凄く不安定で不安で不確実。
そんなところに息子を当てはめることなんて、わたしには出来なかった。

わたしは信じている宗教はない。
でも神様は居ると物心ついた時からずっと信じていた。

そんなわたしも、息子のことで神様の存在は「無いのかもしれない」と、「無い」の間位の考えに変わった。

まだ存在がないと言い切れないのは、自分の中に神様が居座っている部分があったり、考え方の角度を変えてみた時に神様が居るのかもと考えてしまう事があるからだ。

わたしの母さんは「神様はすごく良い子を側に置いておきたいと思うから、普通の人より早くその子を連れて行くことがあるんだって。あの子はすごく良い子だったから神様の側で幸せにいるよ。」と言ったことがあった。

抜け殻の様なわたしは「ずいぶん無責任なことを言うよな。」と、心でつぶやいた。

母さんはわたしを慰めるつもりで話したことぐらい、わたしにも想像できた。
それでも神様がそんな誘拐まがいなことをするのだとしたら、わたしは神様を許さないと逆恨みした。

大切な人が自分が今居る世界から居なくなってしまった時は息ができなくなるほど胸が苦しくなり痛くなる。どこも傷付いていないのに本当に四六時中胸が痛くなる。

あー、これが胸が痛い、胸が痛むということなんだと、この時初めて知った。
恋をして胸が苦しくなる、失恋して胸が痛くなるのとは別物だった。

そして視界はいつも霧の中にいる様だった。
身の回りのものの色が全て無くなってた。
世の中の音は全部水中で捉えている様な、そんな感じ。

すごく心地の悪い世界の様に見えるけれど、そんなことはなくて、むしろここから出たく無かった。

今まで感じたことのない気持ちに襲われて、知っていたと思い込んでいた事柄が、実は違ったことを認識し、今まさに実体験している最中に、善意の慰めや優しさだろうと不確実な内容は何一つとして心には沁みていかない。

自分で体験するまでは知った顔をするべきではないと悟るのだ。だから息子の今を知る術は、自分の目で確かめるしかないと思った。
いつ、それを知る日が来るのか、それすら今のわたしには分からない。

ただ一つ知っているのは、ことばが無くていい時もあるということ。慰めの言葉をかけるなら、故人と自分との対話に時間をかけて欲しい。

たまにで良いから思い出して欲しい。それが故人がこの世界にちゃんと居た印になるのだから。
そんな風に思う。わたしはね。



わたしの頭と心の中のことに興味を持って頂き、ありがとうございます。サポート頂いたお気持ちは私を今まで支えてくれた子供と旦那、沢山やりたい事のあった息子の目になり色んなことにチャレンジするために使わせて頂きます。