僕はまた死にたいと思ってしまった

客観的に自分を表現してみると僕は2年間の浪人生活をしている1人の受験生だ

形式の変わった大学入試共通試験に対策を試み自信をつけて挑むも自分の中では失敗だと思う点数になってしまった。

昔からセンター試験の形式には自信があり、対策を練って試験に挑むことへの快感さえあった

しかし本番では失敗してしまったのだ

僕は予想していたよりも落ち込んだ。
正確には予想することさえ怖かったから考えることさえしたくなかった

考えないことが最小限のリスクと自分に言い聞かせながらいた自身に罰が当たったのだ

僕は今年精神科にも二ヶ月と少しの間通った

一向に改善する気配のあまりの無さに焦ったため、通うことすらやめてしまった

過去の自分を振り返る

僕はただ傲慢だったのだ

学歴という優劣のある階級制度で自分を低い場所に置くことに自分の価値さえ低く感じてしまうような恐怖に怯え、2年間の浪人生活をしてしまっている

本当にその学歴が必要とされる場は自分が生きているもっと先の話であるのに

別の手段を考え実行することさえできるはずなのに

僕は立ち止まってしまっていた

たかが数年と自分の中で見切りがつけられればよいものをそんな器量さえ自分にはなかった

自律神経の失調をし、弱くなった胃腸系と過去の人生のトラウマランキングの上位30位くらいのものが毎晩順に夢の中に出てきては日中に僕の頭の中でフラッシュバックする

そんなフラッシュバックに僕はくそっと呟くことですぐに思考を捨てる癖がついてしまった

誰とも話していないのに1人つぶやいてしまうのは自身の内面で葛藤が起こっているからなのだ

年々弱くなっていく精神状態に改めて自身で落胆してしまう

延々と他人に愚痴をこぼしてしまう前に夜は散歩をするようにしている

雀の涙ほどの他者への自分なりの配慮である

それが続いたある日、しきりともうダメかな…と思ってしまった

起きている間は吐きそうな気分の悪さのため思考することさえ気持ちが悪くなっているそんな時

何ヶ月も前に紹介してもらった五木寛之の『大河の一滴』をふと手に取った

前に読んだその時には余裕がなく、読んでも特に何も感じなかったが
今度は全く違った

そんな感覚を大事にしたいと思ったため、今日は文を綴る

僕は挑むことで何か変わり、何かが得られると思っていた

実際のところ知見も広がり、知識も増え、成績は格段に伸び、論理的な思考も昔よりうんとできるようになった

しかし何かが得られると思って挑戦するということは傲慢であると今の僕は思っている。

少し哲学的な話になってしまったが

僕は一般的に挑戦することは良いことだと思っている

自己の知見や思考の範囲を拡張することが可能となる機会になるからだ

しかし今回僕が言っているのは見返りをまず求めてしまっていることに問題があるということなのだ

基本的に物事に勝ちにいくためには勝てる算段がついてから勝負に挑むのが鉄則である

わざわざ勝てる見込みの無い試合に挑むのは負け戦への歩みである

しかし僕は受験というものでその負け戦の歩みをしてしまっていたのだ

来年こそ合格を取れる、なんていう将来への期待ほど空虚なものは無く

失敗すればさらに落ち込み弱くなってしまう


落ち込むという前提には期待があると僕は考える

前述した期待とはハリボテのようで

ハリボテの土台に時を積み上げてしまっても落ち込みという崩壊があるだけなのだ、とどのつまり

挑戦すること自体に重きを置き結果を余剰物として考える必要があったのだ

これは学歴という落ち込む要素となる価値観に基づく

浪人をするが志願していた大学に叶わなくなり、落ち込む これが今回のケース

年々のびる成績と、それまでなかった世界を見ることができた喜びこそあれ

僕は志願する大学に落ちることを恐怖する毎日を過ごしてしまった

学歴の無い自分に価値なんて…なんて思ってしまう愚かさは絶対に浪人する上で持ってしまってはいけないのだ

もちろん尻に火が付き、プレッシャーで伸びる人間もこの世には存在するが器の小さい僕には負担でしかなかったのである

情けねえ…としか思えない

失敗した自分の言い訳となってしまうのかこんな駄文を書き連ねてしまった

情けねえのだ…

文を書くことが今日は得意なようだ、今回は2段構成となる

尽くしてくれる親への歪んだ気持ち

普段僕は両親に感謝しているつもりだ しかし自己を拡張している上でしがらみを感じてしまっている

他人に自分がどう思われるかを特に気にしてしまっている僕は親にさえそれと同じことを気にしてどう息子としてあるかを考えてしまう節があるのだ

そんな僕は感謝しているつもりでもそれよりも先に親に関して苦しさを抱き、嫌悪感さえ抱いてしまっている

これは思春期のものとして簡単に片付けて良いものだろうが、ミクロに考えていると無礼でしかないような気しかしないのだ

親は子に対し無条件で愛を与えると言われているがこれも既に傲慢の塊である

情けねえな…自分と

思へど、この世に生を受けた以上自分らしく生きることに意味があるように僕は思う

その理由はよく耳にするジェンダーの話に基づき、

自認する性を母に打ち明けても理解するどころか拒絶されてしまうという中国の映画の話を目にした為だ

一般的な生物全般としては不都合な感覚(?)でさえあれ鬱に苦しむ僕にとってはその人が抱える社会的な辛さを自分のものと似て非なるものとしてはみれないのだ

人に認めてもらうということが場合により必要であるため自分の性を告白するというのはことごとく生きづらさを感じる

社会には一般的な通念:共通理解、認識(専門に学んで無いから適するワードは知らない)が不可欠であり人間はそれによって生態数を増やし社会をつくっている

そのマジョリティーがいてはじめてマイノリティーとして存在できるのだと思う

しかし社会に適応するにあたって

苦しいものを独りで抱え込むというのは自分で身を投げるほど耐え難いものだと僕も感じる

今ここで生きる人間として、社会を構成するもののうちのほんの1人だとしても

この社会にとってその1人は生きているだけで価値がある

と思う。

生きているだけで社会には価値があるんだから生きやすいようにすることだってあっても良いはずだ

この言葉は鬱の中で思いついた、自分に言い聞かせるものである










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