上質な混沌の欠片――山田花子『自殺直前日記』
「ガロ系漫画家」のありかた
山田花子は「ガロ系」と称される漫画家である。
24歳で早世した彼女の最も有名な著作は、死後に出版された『自殺直前日記』であろう。
この本が世に出たのは、語弊を恐れずに言えば、彼女が亡くなった“おかげ”である。
あまりに率直で無邪気な言葉の断片たちは、混沌としていて、ひとつの「作品」あるいは「商品」として売り出すにはまとまりを欠いている。
プロの漫画家である以上、世に出すものはあくまで「作品」の体裁を成していなければならなかったのかもしれない。だから、日記やメモ書きをまとめたこの本は、彼女の生前には出版され得ないものだったし、ましてベストセラーにもなり得なかっただろう。
この〝混沌〟をそのまま吐き出したような言葉の数々が、読者の手に取れる形として残っているのは、彼女の父・高市俊皓氏の尽力あってのことだ。
亡くなった本人は、もしかすると「余計なことを」と草葉の陰で思ったかもしれないけれど、それでも私は、この本が世に出たことは高く評価されるべきだと思う。
蛭子能収は山田花子の死に際して、「芸術をやる人間にとって自殺というのは、最大の芸術を完成させることではないかと思う」といった趣旨のコメントを寄せているが、その言葉がすべてという気がする。
なお蛭子さんは近年、認知症を患っていることを公表。最近では、特殊漫画家・根本敬監修の元、「最後の個展」と銘打ったアート展を開催した。
根本曰く「幼児みたいな絵に見えても75歳、認知症の蛭子能収にしか描けない絵」を描く〝芸術家〟となった蛭子さんは、プロ漫画家以前の〝混沌の世界〟に立ち返ったのかもしれない。
山田花子、蛭子能収と同じくガロ系とされる漫画家・ねこぢるも、上質な混沌の欠片を吐き出すことに長けていた。
彼女はその欠片を、夫である鬼畜漫画家・山野一と共同で作品に纏め上げるというスタイルを採っていた作家であった。
(余談であるが、ねこぢるの担当編集者は、山田花子の実妹であったという。)
乱暴な括り方ではあるが、いわゆる「ガロ系」とされる漫画家には、“上質な混沌”を吐き出す人と、それを世に出す人、という構図が散見される。
逆を言えば、世に出せる形に“翻訳”なり“説明”する人がいなければ、その混沌がどれだけ上質であっても、我々読者の目には届かないということだ。
山田花子の場合、雑然とした“混沌”だったものが、「自殺」という出来事によって、読者の理解できる形に“まとまった”のだと思う。
「死」のセンセーショナルさを以って大衆性を獲得した、とも言い替えられるかと思う。高野悦子が鉄道自殺していなかったら、『二十歳の原点』が文学に成り得なかったように。(それはちょっと違うかもしれない)
無意識過剰、すなわちブレーキのない車
ジュリア・キャメロンという人の書いた『ずっとやりたかったことを、やりなさい』という本で、「モーニングページ」というワークが紹介されている。
これは創造性を高めるためにする作業で、朝一番にノート3ページ分の文章を書く、というものである。モヤモヤした感情や言葉のつまりを流す、「脳の排水のようなもの」なのだという。
私も断続的にこのワークをしているが、意外と難しいのが「浮かんだ言葉を、作為を加えずそのまま書くこと」だった。浮かんだままを書き出そうとしても、どこかで取り繕いが発生する。「これ書くのいやだな」「こんなこと書くのって、ちょっとどうなんだろう」と、どこかでブレーキが掛かるのだ。
言葉にせよ絵にせよ、ブレーキがない状態で表現できる、つまり「混沌を、純度の高いまま吐き出せる」こと自体がある種の才能なのだと気付かされた。
特に蛭子さんは、根本敬に“無意識過剰”と評されているが、ガロ系とされる作品たちの多くはこの“無意識過剰”の言葉が当てはまる。
ブレーキのない「無意識の車」に乗る恐怖は、想像に難くない。普通なら、思わず目を瞑ったり、叫び声を上げたりしてしまう。或いは車を投げ出してしまうかもしれない。
『自殺直前日記』を読んでいると、そんなブレーキのない車に、目をかっ開いて、ハンドルをしっかりギッチギチに握り込んでいるような作者の姿が浮かんでくる。
実際の写真を見る限り、伏目がちで線の細い女性だったようだけど、作品からは、何かとてつもない迫力とか執念みたいなものを感じるのだ。
誰かの苦しみに癒やされる
残された文章や漫画作品を読むと、山田花子は物事を見る目が異常なまでにシビアだったことがわかる。
厳しい目は自他を問わず向けられる。容赦がない。ある意味とても正しい。正しすぎて、社会からは「おかしい」とレッテルを貼られてしまうことがしばしばある。
子供の頃に学ばされる綺麗事を、大人になってもきちんと守っている。元来、ものすごく生真面目なのだろう。読んでいるだけで息が詰まりそうになる。「もっと気楽にズルく生きたらいいのに」と余計なおせっかいを焼きたくなる。
でも、彼女は絶対に、いい加減であろうとはしないだろう。正しくて厳しい目を、自分にも世界にも向け続けるであろう。
作風のアクが強く、毒電波的に思えるが、動物や赤ん坊を見て癒されるのと同じことで、そのある種の無垢さに、読者は安らぎを覚えるのかもしれない。
私も思春期の頃は、この本を枕元に置いて、何度も何度も繰り返し読んだ。無垢さとズルさの境界上にいた当時の私は、山田花子の苦しい文章に、なせだか心癒される思いがした。
「がんばれ」と応援されるより、「私は苦しい」という告白の方が、余程他人を励ます場合があって、特に悩み多き年代にあっては、そちらの方がかえって親身に思えたりするものだ。
〝無垢な混沌の世界〟と〝ズルい現実世界〟とでは、子供の世界と大人の社会が別物であるように、在り方が全然違うので、現実を無垢のまま生きようとすると、必ず不都合が生じる。悲しんだり憤ったりしながら生きて行かなくてはならなくなる。
〝上質な混沌〟を吐き出す人は、〝混沌の世界〟と繋がりっぱなしで、ブレーキのない車に乗っている。大抵そういう人は、感性が鋭くて賢いから、恐怖も苦しみも人一倍強く感じているはずだ。
それでも山田花子は、〝上質な混沌〟を混沌のまま吐き出し続けてくれたのである。これは人間ポンプより苦しい芸当ではないか?と思う。
今回記事を書くに当たり、『自殺直前日記・改』を読み返してみた。
思春期に何度も繰り返し読んでいたのに、何度も目を背けたくなった。
嫌悪ではなく、苦しいからだ。フルマラソン終わってゼェゼェハアハアしてる選手が、「◯位でしたが率直な今のお気持ちは?」とインタビューを受けているのを見るような、こっちまで苦しくなるような文章だからだ。
自分が気楽にズルく生きるために欠落していった、意図的に切り捨てていった部分を並べて見せられて、「今どういう気持ち?」と問われているような気持ちになるのだ。
『自殺直前日記』の冒頭には、棺の中で眠る山田花子の写真も掲載されている。投身自殺したとは思えないほど、穏やかな表情であった。
彼女の魂は今、おそらく〝上質な混沌の世界〟に、無垢のまま存在出来ていることと思う。
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