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エターナルサンシャイン Eternal Sunshine of the Spotless Mind



この有名な映画を先日見ました。
コメディーでありながらも、奇妙で、とてつもなく哲学的なこの作品。

私の印象に残った数ある場面の一つ、クレメンティンがジョエルの幼少期の記憶の中に一緒にいる時、ジョエルは他の男の子たちから、鳩をとんかちで叩き○すよう言われている時。これを果たさなかったら、意気地なしと言われていじめられ続けるのだろう。だから彼は実行した。その後、クレメンティンが彼の手を引いて遠くの方へと連れていく。彼の気持ちを汲むかのように。

この場面を見て思い出したのは、三島由紀夫の小説、「午後の曳航」。この作品はとても衝撃的で、なかなか心をえぐられるような場面が多い。その中でも、この映画の先ほどのシーンと同じように、少年たちから子猫を○すよう主人公である男の子が言われる場面がある。彼がそれをやらなかったらその仲間たちに一生意気地なしの男と言われて、いじめられるのだろう。

そう思うと、なぜいじめがあり、なぜ学校というもので人と人を競わせて、成績で人の良し悪しを判断するものができたのだろうと。
三島由紀夫の先ほどの小説の場面で、仲間たちのうちのリーダーと言われる男の子は、親が働きに出ていたりして、いつも不在だと書いてある。幼少期に親との時間、親に感情を受け入れてもらえたり、話を聞く時間さえもなかったのだろう。そういう人が、他の人から自分の勇敢さや潔さなどで褒めてもらったり、承認してもらいたいと願っているのだろう。結局いじめるのは、その人が無条件の愛や、人として抱く様々な感情を受け入れる許可をもらえなかった人たちなのではないか。

映画のジョエルは、思想に耽ったり、絵を描いたりするのが好きな人として描かれている。彼は、ひょっとすると男性としては繊細と言われるのかもしれない。そのままでいられたのはもしかしたら親が彼の個性を受け入れていたのかもしれない。だけど他の少年たちは弱いとされることをやったりするのはダメだと、親から言われていて、ジョエルのその個性を羨んでいたかもしれない。想像だが。

学校という小さな場所に、たまたま生まれた年代が一緒で、その小さな世界で同じものを勉強させ、その中で順位をつけて競わせたりするのは、どうなんだろうと思うことがある。学校科目以外に秀でていることがあるものは、その世界の中ではできない子になるかもしれない。でも人は人の数だけ個性がある。それを無視するかのような近代の”学校”というものはなんか間違っていると思う。

いじめや、人のことをそのまま受け入れられない人、他人のことに陰口や文句を言う人、がいなくなりますように。



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