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「若干レトロなレトリック」日記

先日言っていた共同本屋に行ってきた。暗く黄色味がかった店内のライトが特徴的な、落ち着いた雰囲気のお店だった。店内BGMもレコードなのが心を和やかにさせてくれる。棚を見るとそれぞれの人となりが表れたような本の並びで、初対面の人と出会ったときのようなワクワクが私の心を弾ませた。日記が好きな人、画集が好きな人、私と同じく心理学的なものが好きな人、思わず30分くらい滞在してしまうほど濃密な場所であった。文章の書き方とレトリックを主に扱った本があったので、今度寄ったときに買ってみたいなあとなった。

私は同じ意味を繰り返す書き方と、〇〇、△△、□□と目についたものを読み上げるような書き方が好きなので、自然と日記に書くときも気づいたらそうなってしまっている。また、難しい漢字を使いがちでもある。ここら辺は読み手が読みやすいように普段使うような文字を多めに使ったほうがいいぞと脳裏の私は警告するが、こればっかりは拘りなので辞められない。漢字は、かっこいい感じがするのだもの。

よく漫画で権利関係をボヤかすために伏せ字を使う文化があるが、なんだか個人的に可愛げがあるなあと思って見ている。例えるならば、大人向けの本を勉学書や小説の間に挟んで買う子供のような。いや、ちょっと違うかも。ううむ、例えるのって難しいな。

最近朗読を一人でやっているが、一つをスラスラ〜と読めると舌が順応した気分で楽しい。自分の喋る言葉の一部になったような感じ。でも間違えて読んだときの突っかかりも、また間違っちゃったなという気恥ずかしさが面白いと思う。何にせよ発話する喜びは何物にも代えがたいものだ。

自分で怪文書を書いて、それを朗読してみたいなと思うことがある。平沢進の夢見る機械のように、意味が在りそうなことをひと文章にまとめてやってみたい。勿論平沢進さんの歌詞には全て意味があるので、この喩えは極めて不適切だが。しかしまあ怪文書というものは、結局意味があるようなものになってしまうだろうなと思う。人間が出力する文には人生の繋がりというか、今まで感じていたものを言葉に当てはめてしまうだろう。完全なる怪文書はそれこそマルコフ連鎖で作るしかないのかもしれない。

手首がようやく自由にクルクル返せるようになったので、一ヶ月ほど泣いていたギターを慰めることが出来る。さっそくチューニングしてジャら~んと鳴らす。うむ、生きた音だ。こうやって一音適当に鳴らすだけでも心が踊るのだから、私はやはり相当音楽好きなんだろうなと自分の事を再確認した。また練習をしていこうな。頼んだぜ相棒。

アーティストの曲アレンジは若干手抜きじゃろって思う気持ちがあるけれど、実際に聞いてみると表現方法が違うだけでこんなにも楽しいのかと感動させられて、私は相変わらず単純だなあとニヒルに笑ってしまった。くそっ、いい曲だなあ。もう一回聞いちゃお…

さて、今日の日記はここまで。何時もの台詞で終わりとしよう。
明日も、乗り切って行きましょう。

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