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「思い込み」とうまく共存する方法

つい先日のこと。

海外出張の出発日を一日間違えて空港に行く

という実に香ばしく、あわや大惨事な経験をしました。

月曜日に出発するものを、一日早い「日曜出発」と勘違いしていたんです。幸い?にして間違えた方向が一日遅めではなく一日早めの方向だったのでまだよかったですが。

日曜日、荷物を持って空港に行きました。
チェックイン機で手続きを試みるんですが、パスポートをかざしても、マイレージのカードを入れてもエラーとなりチェックインが出来ない。なんで??

近くにいた係の人が
「おかしいですね、、、お客様、eチケットを拝見してもいいですか?」
と言うのでややめんどくさがりながらスマホでeチケットを開き、見せると
「お客様、、、ご出発日、明日ではないかと・・・」


明日???!!!

その瞬間、頭の中でひさしぶりに(そんなバナナ)というフレーズが思い浮かびました。

スマホを返してもらい、
「ちょ、ちょっと確認します(*何をwww?)」 
と言い残しその場を退散、速やかに京急線の乗り場に駆け戻りました。

―――

一体なぜ月曜出発のものを日曜出発と勘違いしたのか?

思い込み

です。誰かにそう言われたわけではないのに、日曜出発だと勝手に思い込んだんです。

と言いますのも、その出張は海外IRの出張だったんですが、海外IRの出張は基本、日曜出発なんですよ(言い訳w)。日曜日に日本を発ち、欧州等の現地に着く。ホテルにチェックインし、みんなで夕食を食べて、そして月曜日の朝一からIRが始まる。で、金曜日の午後までやって、夕方の便で向こうを発ち、土曜日の日中に日本に到着する、これがよくあるパターン。もっと長い出張もあるし短い出張もありますが、出発は基本日曜日なんですよね。だから今回も日曜出発だ、と思い込んだんです(言い訳w)。

だいぶ前にクライアントから頂いていた日程表はちゃんと月曜出発になっています。元々日曜発だったのが月曜発に変わった、とかでもありません。そして、その日程表に基づきウチの社員が僕のGoogleカレンダーに入力してくれていた日程もちゃんと月曜出発になっています。っていうかeチケットが月曜出発になっているし、それまでさんざん僕自身がWebで座席指定とかをあれこれいじっていた航空会社の予約確認画面も(当たり前ですが)月曜出発になっています。でもそれを見ていないんですね、目に入っていない。自分の頭の中だけで「日曜出発」だと思い込んでいたんです。

―――

思い込みには2通りあります。意識的なものと、無意識の思い込み。

1.意識的な思い込み

「今回の出張は何日/何曜日に出発かしら」 → 「きっと○○日だ!日曜日だ!」

これが意識的な思い込みです。ポイントは、一応問いかけがあるという点です。自分の頭の中で問いかけをした上で思い込んでいるから、自分がそう思い込んでいることを意識してはいるんですね。

2.無意識の思い込み

上記意識的な思い込みと異なり、一切の問いかけが無く、単純に「日曜日出発である。以上」と思い込んでいるパターン、これが無意識な思い込みです。

意識的な思い込みは問いかけの結果至った思い込みであり、一度「どうなんだろう?」というプロセスを経ているので、自分がそう思い込んでいることを自覚できる、という面においてまだ健全。まだマシ。

一方で無意識の思い込みは、自分がそう思い込んでいるという自覚無しに思い込んでいる、だからこそタチが悪い。今回の僕のケースはモロに無意識の思い込みでした。何日/何曜日に出発かな?今までの出張は日曜出発がほとんどだったけど、今回もそうなのかな?という問いかけが一切無かったんです、僕の頭の中で。

―――

さて、そもそも思い込みとはなんでしょうか。どう定義すればいいんでしょうか。

「思い込み」を辞書でひいてみると:

深く信じこむこと。また、固く心に決めること。「―の強いやつ」

とあります。なるほど。「信じこむ」というのが一つキーワードかと思います(これについては後述)。

「思い込み」というと、なんだかちょっとネガティブなイメージが付きまといますね。「思い込んでいる」のって、なんだか良くない気がします。その良くなさの正体はなんなのか。いわゆる思い込み(Bad)と、思い込みではない普通の思いや考え、そして事実(OK/Good)と、両者を隔てるものは何か。

それは根拠の有無ではないでしょうか。

そう思うに足る根拠、そう考えるもっともな理由があれば、それは思い込みではない気がします。
- 例えばクライアントからいただいた日程表に「月曜出発」と書いてあるとか。
- Eチケットが月曜日発になっているとか。

これらは立派な「根拠」です。そして、そうした根拠に基づき「だから今回の出張は月曜出発である」と考えるのは、それは思い込みではなく適切な思い、考え、そして実際に月曜出発であるという意味において「事実」です。思い込みではないんです。

それに対し僕のように何も考えず、あるいは「今までがそうだったから」という理由になっていない理由(Not a good reason)に基づいて「日曜出発に決まっている」と考えるのが思い込みなんです。

つまり思い込みというのは、そう思うに足る根拠が無いにもかかわらず「きっと○○である」と頑なに考えることと言えるのではないでしょうか。

そして、ついでに言うとその思い込みに基づいて行動を起こすという所に思い込みの特徴があります。そう思っているだけならまだいいですよね。それであれば自分にも周りにも害は無いかもしれない。問題は、その思い込みに基づいて何らかの行動や発言が為されるということかと思います。実際、出発日でもなんでもないのに日曜日に空港に出掛けて行ってしまうからこそ困るわけです、思い込みは。

いずれにせよ、根拠が無いのが思い込み、と言えそうです。ちゃんと根拠があるなら、それは「思い込み」とは言えない。

―――

思い込みに基づいて行動を起こす、という意味では、サバンナの草食動物が日々それをしていますよね。

例えばそこの茂みがガサガサと揺れ動いたとする。

そのガサガサを引き起こしたものは何か?ただ風が吹いただけかもしれないが、もしかしたらライオンがいるのかもしれない。

思い込みパターン①: 風が吹いただけだろうと思い込み、そのままそこでのんびり草を食べ続け、でも実はそれがライオンだったらまずいことになります。ライオンにとっては美味しいことになりますが、シマウマにとってはまずいことになります。

思い込みパターン②: ライオンだろうと思って慌てて逃げ、でも実は風が吹いただけだったかもしれません。その場合、せっかく美味しく草を食べていたのに逃げなきゃいけなかったという無駄足感がシマウマにとってはあるものの、まあでも命には代えられないよね、というパターンです。

どちらも、茂みがガサガサした(でもその原因は分からない)という不完全な情報を元にシマウマが何らかのことを思い込み、その思い込みに基づいて行動を取る例かと思います。

もっとも、この場合は「思い込み」というよりも「仮説を立てた」という方が近いかもしれません、シマウマのために自己弁護しておくと。

―――

さて、根拠が無いにもかかわらず何かを信じ、そしてそれに基づいて行動を起こすことを「思い込み」と呼ぶのであれば、宗教・信仰というものもそこにカテゴライズ出来そうです。

だって、もし根拠があればそもそも信じる必要が無いから。科学的・客観的な根拠があってそれに基づきそう考えるなら、それはもはや「科学」であり「事実」であり、信仰でも宗教でもなくなってしまう。根拠が無いからこそ信仰心の出番なわけです。

英語にLeap of faithという表現がありますが、まさに今言っていることと関連しています。

根拠が無いからエイヤ!と飛躍(leap)をするんです。根拠があれば歩きます。

―――

さて、根拠というものについてもう少し具体的に考えていきます。


注意:ここからはめんどくさい話になるので、そういうのが好きではない方はここで読むのをやめた方がいいと思います(笑)。


「○○である」と誰かが言っているとしましょう。

ちなみにこの○○には、何をあてはめてもOKです。

今回の出張は日曜出発である
明日はきっと晴れる
Macの方がWindowsよりも優れている
神は存在する
○○党は□□党よりも良い
私はエルビス・プレスリーの生まれ変わりである
金利を引き上げるべきだ
アメリカの方が日本よりも人口が多い

なんでもOKです。とにかく誰かが上記のように「○○である」と何かを主張しているとしましょう。我々がその人に、あるいはその発言の内容に多少なりとも関心があれば、もう少し詳しく話を聞いてみたくなるものです。そのときに我々が聞きたいと感じるのは:

なんでそう思うの?
ということ。

なんでそう思うの?をもう少しカタい言い方で言うと、「そう思う根拠は?」ということです。つまり、誰かが何かを主張していたら、我々はその人がそう思い主張するその根拠・理由を知りたいわけです。その人、あるいはそのテーマに関心があれば特に。

そう、誰かに「なんで?」とあれこれ質問するのは、別に意地悪なことではないんですね、相手に興味があるからやっているんです。大事なのは言い方を問い詰め調・詰問調にしてしまわないことであって、「なんでそう思うの?(そう思う根拠は?)」と聞くことはむしろいいことなんです。


根拠というものは2段階で考える必要があります。

1. 根拠の有無:そもそも根拠はあるのか無いのか
2. 根拠の内容:それはどんな根拠なのか

根拠は何?を問う前に「そもそも根拠は有るの?」を問う必要があります。というのも、根拠が無いケースがあるからです。

なので、根拠の内容を聞く前に、まずは根拠の有無を聞いてみることにします。

ここで「根拠は無い」という答えが返ってくることもあります。根拠が無いのになぜそう思うんでしょうか。それを問えば、いろいろな答えが返ってくるでしょう:

一方で、「根拠はある」というケースも多いでしょう。実際、世の中、理由を問うたら何らかの答えが返ってくるケースの方が多いでしょう、根拠などありませんというケースよりも。

その場合、我々が次に知りたいのは、そう、2段階目となる「その根拠の中味」です。一体どんな根拠なのかということを次は知りたいわけです。

さて、その人が「○○である」と考える根拠として□□が提示されました。我々の対話はそこで終わりでしょうか。他に聞いてみたいことはないでしょうか。

ここから先は、必ずしもそれをその人に聞く必要は無く、我々の頭の中だけで完結させるのでもいいのですが、相手が「○○と思う根拠は□□」と回答したあとも実はプロセスは続きます。それは、相手が提示した「□□」という根拠がもっともな根拠かどうかという検証です。英語であれば”Is it a good reason?”ということです。

ママが小さい子供に
「なんでお部屋を片付けないの?」
と尋ねたら、
「ヤだから」
という答えが返ってきたとしましょう。

この答えを受けて「なるほど」と納得する親はいるでしょうか?多くの親は「それは答えになっていない」と感じるのではないでしょうか。

「なぜ○○?」との問いかけに対し、「●●だから」と答えが返ってきた場合、答えが返ってきたこと自体で満足してはいけない。繰り返しになりますが、これは相手に関心があれば、相手が大事なら尚そうです。どうでもいい相手なら聞き流せばいいのです。

「ヤだから」という答えを聞いてママは「なるほどね、ちゃんと理由があるのか、ならいいか・・・」と納得してはいけないと思うんです。ちゃんと、返ってきた答えが「理由になっているかどうか」を検証する必要があります。

これが「それはもっともな根拠・理由になっているか(Is it a good reason?)」という検証です。

例えば政治家の記者会見を聞いていても、記者の「なんで○○?」という問いかけに対し、一応の回答があったことに我々は満足してはいけません。ちゃんとそれがもっともな理由になっているか、の検証をすることが大事なんです。

―――

さて、ここで我らが通訳にちょっと触れたいのですが、通訳においても思い込み、あるいはそれに多少近いものが少し関係しています。

誰かが発言しているのを訳すとしましょう、通訳ですから。その発言がこの先どちらの方向に行くのか、という予測・Anticipationを我々はするんですが、そこでちょっと思い込み的な作業が行われます。


日本語は文法・語順的に、話を最後まで聞かないとオチが分からない、という側面があります。

1.これは一文一文においてもそうです。「私はラーメン・・・」で始まった文が「大好きです」で終わるのか「苦手です」で終わるのか、「毎日食べる」なのか「食べないようにしている」なのか、あるいは何か別方向の終わり方なのか、文の終わりまで聞いてみないと分からない。

2.あと、一文一文ではなくある程度まとまった発言においてもそうです。起承転結の「結」まで聞いて初めて結論が分かる、そういう話があります。

対して英語は一文であれまとまった発言であれ結論が前の方に来ることが多い。

日本語を英語に訳す際、日本語のそういう性質上、我々通訳者は話の行き先をある程度予測しながら訳を開始せざるを得ません。特に同時通訳をしている場合、発言を最後まで聞いてから訳を開始することが出来ない。つまり、発言を最後まで聞いていないのにオチを訳出し始めることがあるんです。その場合に(多分こういう話になるだろう・・・)という、やや思い込みに似たことを頭の中で行います。

もっとも、思い込みを「根拠無く何かを信じること」と定義するのであれば、我々通訳者が日々の業務で行っている予測・Anticipationは「思い込み」とは言えないかもしれません。というのも、我々は何らかの根拠に基づいて予測・Anticipationしているからです。

その発言者の過去の発言内容
その発言者の、今の話し方。その時の場における話の流れ
時事問題
   (発言者が「今、金利が世界的に・・・」と言った場合、(この後に「上昇している」と続くだろう)と予測出来るのは、通訳者が日頃から新聞等でそういった情報を見聞きしているからです)


通訳における予測・Anticipationが思い込みと異なるもう一つの理由は、我々通訳者がその予測・Anticipationの内容を「もしかしたら違うかも、ひょっとすると逆かも」と思っているからです。通訳者である自分は、話がこの後こういう方向に行くだろうと予測するが、でもそれはあくまでも予測であり、もしかしたらそれとは逆の方向に話が行くかもしれない。通訳者がちゃんと謙虚にそう思っていればそれは「思い込み」色が薄れる気がします。実際、(きっとこういうオチだろう)と思って訳を開始したものの実はその逆だったことが判明し、慌てて訳し直すことだってときどきあります。常にその心づもりは出来ているわけです。つまり思い込みというよりも(こういうオチである可能性が高い)という可能性の問題ですね。

そう考えると、思い込みの特徴の一つとして「頑なである」ことが挙げられるのかもしれません。辞書にも「深く信じこむこと」とありました。

本当にそうなのか?もしかしたら違うかもしれないぞ、と謙虚に思っていれば、それは思い込みではなく「仮説」とか「推測」とかいった表現の方があてはまるかもしれませんね。

さて、通訳における「思い込み」は、予測・Anticipationをするときではなく、むしろ発言を聞き終わったその後に起きがちかもしれません。というのも、発言を聞き終わっていない内は「もしかしたら自分の予測は間違っているかもしれない」という謙虚さを持ちやすいんですが、発言を全部聞いた後であれば、なるほど発言者はこう言いたいのだな、という全体像が見える。だって全部聞きましたから。で、今の発言は多分こういう意味だな、と判断(予測ではなく判断)するわけですが、これが思い込みである可能性があるんです。そしてそれが誤訳につながる可能性がある。

というのも、発言者は別の意図を持ってその発言をしているかもしれないからです。

例えば発言者が「アレが・・・」と言った場合、そのアレは何を指すのか。

そのまま「アレ」すなわち”that”みたいに訳してしまうことも出来ますが、その場合、訳を聞いている外国人にとって意味が分かりにくい。なので通訳者サイドで「アレ」が「A」のことを言っていると判断し、”that”の代わりに「A」を訳に入れることも出来ます。そうすると分かりやすくなる。この操作を行うのはもちろん、通訳者が「アレ=Aである」と相当の確信を持っている場合のみですけどね。

問題は、我々通訳者の解釈が間違っていて、発言者が「アレ」で指していたものが実はAではなくA’である可能性がある、ということ。それを恐れるのであれば、多少の分かりにくさはしょうがない、「アレ」を「アレ」のまま訳した方がいい。実際、発言者は「アレ」としか言っていないわけですから。


発言の意図を誤解しうるもう一つの例が、例えば皮肉です。

外国人が「今、米国経済は最高の状態です (笑)」と英語で言った場合。もしその時の米国経済がおっしゃる通り絶好調なのであれば、これは発言そのままに「米国経済は最高の状態」と言いたいのでしょうが、じゃあもし米国経済が逆に絶不調だったら?そういう状態の時に発言者が「最高の状態です(笑)」と言った場合、それは皮肉で言っている可能性があります。日本語ではあまりありませんが、英語ではこうした言葉遊び?的なことが行われることが結構あるんですよね。

あと、皮肉とはちょっと違いますが、

「もう、ヒロシ君なんてキライ♡」

と言った場合、本当にヒロシを嫌悪している可能性もありますが、実はその真逆である、ラブラブである、と判断する方が賢明でしょう。

つまり発言にはいろいろな解釈があり、我々通訳者が(きっとこういう意味だ)と思ったとしてもそれは間違っている可能性があるわけです。そこに思い込みが入る余地があるわけです。


発言を聞き、(今のはこういう意味だろう・・・)と判断した場合において、実際それがその通りだったら、つまり合っていたら、それはなんだか「思い込み」ではない気がします。一方、実は発言者は違う意味で言っていたのであれば、我々通訳者の解釈は「思い込み」だった気がしてきます。

つまり、結果論なんでしょうか?合っていれば事実、外れていれば(ああ、思い込みだった)となるんでしょうか。

いや、思い込みというのは合っているか外れているか以前の問題だと思います。つまり結果的に外れていた場合はもちろん、仮に結果オーライで合っていたとしても、そう思うに足る根拠が無かったのにそう信じたのであればそれは当てずっぽうがたまたま当たっただけで、思い込みであったことには変わりない、と言えるでしょう。


いずれにせよ、我々通訳者が行う各種予測や判断は:

1. なんらかの根拠に基づいてなされている、
2. もしかしたら違うかも、という謙虚な姿勢を維持している

限りにおいて「思い込み」とは性質を異にすると言えそうです。

―――

ということで、出張の出発日を間違えたことをきっかけに思い込み根拠というものについてつらつらと考えてきました。

我々は日々、生活や人生のあらゆるシーンにおいて、不完全な情報に基づき判断し行動することを求められています。だからこそ思い込みをして、その思い込みに基づいて行動する必要があるわけで、そう考えると思い込みは一概に悪いことだとは言えない。

通訳における予測・Anticipationがまさにそうですが、確実にそうとは言いきれない状態で見切り発車をしないといけないことは人生において多々あり、その場合、仮に違っていたら後から軌道修正すればいいんです。


大事なのは、

1.思い込みを意識化すること。無意識に思い込んでしまうのではなく、一度問いかけること

2.根拠に基づき判断すること。「なぜそう思うのか?」や「本当にそうか?」という批判的・クリティカルな検証プロセスを経てみること

3.根拠が無いなら無いでいいが、その場合は「自分は根拠無くそう思っている」ことを自覚すること

4.固執せず、謙虚に。一度方向性を決めたからといってそれに固執しない。もしかしたら間違っているかもしれない、という可能性を常に忘れない、

5.希望と現実を分けて考える。こうであってほしい = こうである、とは限らないことを理解・自覚する


といった事々なのでしょう。それが思い込みという諸刃の剣とうまく付き合っていくための秘訣なのかもしれません。


最後に、マーク・トゥエインのことば:

“It ain’t what you don’t know that gets you into trouble. It’s what you know for sure that just ain’t so.” - Mark Twain

訳例:「厄介なのは無知ではなく、「きっとこうだ」と思い込んでいるものの実はそうではないこと、これが厄介なのだ」