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短編小説:婆ちゃんの天眼 (4)

4 人生縮図のお葬式
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 人はどう生きるか。そしてどう死ぬか。テレビの時代劇が取り上げる不動のテーマに、トミ子婆ちゃんはとんと興味がない。人生の価値は自分で決めるものではない。他人様が決めるものだ。すべては葬式にあらわれ、人生は葬式で決まる。彼女はそう考えている。三十代の頃から揺らいだことのない信念である。

 「時代劇もそう。『宮本武蔵』を書いた吉川英治先生もそう。『ハムレット』を書いたシェイクスピア先生もそう。人間はどう生きるべきか、どう死ぬべきかを考えた。わたしは違うね。一番大切なのは、人間、どんな葬式を挙げてもらうかだよ。葬式は人生の縮図だ。世の中はおかしい。だって葬式を延々と書いた小説は見かけないからね」

 豊かな人生を生きた人には大勢の人が参列する華やかな葬式が待っている。貧しい人生を生きざるを得なかった人には寂しくて粗末な葬式しか待っていない。葬式をあげてもらえるだけで感謝しなければいけないかもしれない。葬儀の規模と参列者の顔ぶれで、故人の人生の善し悪しは決まるというわけである。

 夫、賢二が七十二歳で病死したとき、盛大な葬式が執り行われた。女房と子どもに手を上げる男は、ろくな死に方はしないとトミ子婆ちゃんが言っていた通り、賢二は穏やかな死を迎えたとは言い難い。賢二に人徳がないことは隣近所なら誰でも知っている。だからこそ、トミ子婆ちゃんの信念に従えば、みすぼらしい葬式になって少しもおかしくなかった。

 ところがそうはならなかった。

 斎場の入り口には花輪が十九本も飾られた。孫一同、親類一同の縁故関係を除いても十七本が賢二と付き合いがある人たちの好意による。トミ子婆ちゃんが喪主を務めた通夜も告別式も、参列者は四百人を超えた。これにはトミ子婆ちゃんばかりか、隣近所も驚いた。

 「賢ちゃん、功徳を積んでいたんだ?」と焼香の際に声をかける人が相次いだ。「はい……。まあ……。ええ……」とトミ子婆ちゃんはそのたびに戸惑いながら応えたのである。

 葬式は故人の力ではなく、喪主の才覚で決まると教えたのは、長男嫁の幸子である。「世間の人は皆、そう言っていますよ。わたしの元の勤め先の社長が亡くなったとき、副社長である奥様の切り盛りで豪勢な葬儀になりました。社長本人はケチでしみったれだと非難されましたけど、奥様が慰安旅行を計画するなどいつもフォローしていました。喪主の奥様から『よろしくお願いします』と言われたら、葬儀の参列は断れませんでした。喪主の力は絶大です」

 トミ子婆ちゃんは、そんなもんかねと幸子の言い分を腹の底から疑った。

 「本当に嫌なやつなら、金を積まれても行くわけがない」

 功徳を積むためというよりは、人付き合いと顔の広さから、トミ子婆ちゃんは友人知人の葬式に喜んで出向いた。最期の別れなんだから結婚式より葬式の方が大事だと孫たちには言い含めてきた。ひと晩で三つの通夜を掛け持ちすることもあった。斎場は葛飾区の四ツ木、江戸川区の瑞江、新宿区の落合。故人は学童疎開の仲間だったり、深川七福神巡りの友人だったり、ゲートボールのライバルだったりした。皆、達者でぽっくり逝った。

 新型コロナウイルスが突然現れ、感染者が瞬く間に増えるとトミ子婆ちゃんの葬式通いはぱったりやんだ。感染拡大を防ぐために密閉、密集、密接の「三密」を避けろと都知事、区長が叫び、不要不急の外出を控えろと求められたからだ。二〇二〇年四月のことである。

 首都圏、そして全国に出された「緊急事態宣言」は、トミ子婆ちゃんの一人暮らしを一変させた。

 まず日課の銭湯通いをあきらめた。体操と入浴を目的にした週一回のデイサービスを控えた。日用品を買うために駅前商店街のゆうろーどへ行くことも、亀有香取神社の境内を散歩することも、上野・松坂屋で好物の佃煮を買うこともすべて断念した。

 特に悔しかったのは小中学校が一斉休校に追い込まれ、年寄りと児童・生徒の間で続く交流活動がストップしたことだった。教室で「お婆ちゃん。元気?」とまとわりついてくる子どもたちがいとおしかった。「元気だよ」と返すと「お手玉やろう」と袖を引っ張ってくる。たわいのないやりとりに生きている実感があった。それができない。幼稚園で開かれる幼老合同誕生日会へも行けない。そこで園児と年寄りに出される「魔法のプリン」は最高のごちそうだった。どんな用事があっても、月一回の誕生日会だけは最優先した。あのプリンが食べられない。

 小さな楽しみが次々と奪われた。

 そして大きな悲しみがやって来た。

 始めは菊次郎、次は千代子だった。二人とも新型コロナウイルスに感染し、急死したのである。

 菊次郎は町内会の世話人を長年務めた。トミ子婆ちゃんより三つ年上で、同じ小学校を卒業した。東京大空襲を生き延び、荒川区内で小さな印刷所を起こした。六十六歳になると長男に経営を譲り、「年寄りが元気じゃないと町は元気にならない」とボランティア活動に励んだ。妻は七年前に交通事故で亡くなった。亀有二丁目の自宅に一人で暮らしていた。

 異変に気付いたのは町内会のボランティア仲間だった。

 玄関の鍵は掛かっている。居間の電気はついている。電話を何度掛けても通じない。しかしテレビの音がかすかに聞こえる。人の気配はある。菊次郎の長男に連絡を取った。「社長は外出中」と印刷所の従業員が言うので、警察と消防に相談し来てもらった。

 居間のソファでぐったりしているところをそのまま区内の病院に救急搬送された。新型コロナウイルスの感染で重い肺炎を患っていることが分かり、体外式膜型人工肺(ECMO)で治療を受けた。感染拡大のため家族による病室への立ち入りは認められなかった。四日後、帰らぬ人となった。東京大空襲を懸命に生き延びたにもかかわらず、看取りのない壮絶な死が待っていたのである。

 亡くなったあとも理不尽なことは続いた。火葬場の立ち合いは許されなかった。通夜も葬式もできなかった。ふだんと変わりなかったのは町内会の掲示板に「山下菊次郎さんが亡くなられました(享年九十二)。通夜・告別式はご親族によりすでに執り行われました。喪主は山下竹次郎氏。連絡先は荒川区南千住××××、電話番号〇三—三八〇三—×××× 二〇二〇年五月×日」と記した訃報のお知らせが貼られたことだけだった。第一発見者のボランティア仲間が「菊ちゃん、せめてもの供養だ」と言って、不要不急の外出禁止を求める区の職員たちを説き伏せて手配したお知らせだった。

 トミ子婆ちゃんはごみ捨てに収集場へ行った帰りに、訃報のお知らせを掲示板で目にした。偶然である。いつもだったら見過ごしていた。あとになって考えると胸騒ぎがしたのである。新型コロナウイルスが広がってから、敬老会の仲間と連絡を取らなくなった。スマートフォンの通信・通話アプリやオンライン会議のクラウドサービスを使いこなすのは、年寄りには難しい。若い人から説明を何度受けても、怖くてそれらを扱えないのである。年寄りには対面方式の世間話が一番である。だからコロナ過で話し相手が減ると、あっという間に孤立する。

 菊次郎には通夜も葬式もなかったと第一発見者から聞かされ、トミ子婆ちゃんはうなだれた。大雨が降ればハザードマップを片手に町内を一軒一軒回り、避難所と避難路を指示してくれた。二〇一九年十月の台風十九号のときは、区と調整して独居老人全員を避難所の小学校へ誘導してくれた。冬休み期間の火の用心の見回り、夏休み期間のラジオ体操、誕生日会、亀有香住神社の例大祭・除夜祭・元旦祭・七夕祭、そして富岡八幡宮の連合渡御(とぎょ)見物。いつも年寄りたちの心を一つにまとめてくれた。彼のおかげで孤独を感じる年寄りは一人もいなかった。

 世話好きで男女の区別なく好かれた菊次郎が、通夜も葬式もなかったのは納得がいかなかった。

 そして千代子である。

 江東区の七福神巡りで知り合った。二十年以上前のことである。布袋尊を祭る深川稲荷神社の前で足をくじいて歩きにくそうにしているのを手助けして以来、「チヨちゃん、トミちゃん」と呼び合う仲になった。毎年正月には七福神巡りを一緒にした。色紙と福笹と鈴を求める七福神巡りを二人は「巡礼」と言って笑い合った。

 「巡礼」を無事終えると、二人は深川不動堂近くで深川めしを食べる。秘めた決まり事である。煮込んだアサリのたっぷり入った深川めしを「浅利めし」と千代子は呼ぶ。トミ子婆ちゃんは冗談交じりに突っかかる。

 「チヨちゃん。浅利めしと呼ぶのは駄目だって。ご利益が浅い、だから浅利めし、となるでしょう。『それを言っちゃあ、おしめえよ』だって。七福神を参って、ご利益をたくさん得たのよ、わたしたちは」

 千代子も負けじと寅さんの口調をまねて「それを言っちゃあ、おしめえよ」と応じる。二人の笑いはしばらく続く。

 千代子が亡くなったのは二〇二〇年十一月下旬だった。年が明けて、トミ子婆ちゃんが千代子の携帯電話に連絡したところ、聞いたことのない声の女性が出た。恒例の深川七福神巡りについて話そうとするとさえぎられた。「すみません。母は亡くなりました」とすまなそうに言った。女性は長男の嫁だった。「母の携帯電話に連絡があるたび、母が亡くなった事情を説明しています」と付け加えた。

 女性によれば、千代子は長男一家と同じ敷地内にある離れに暮らしていた。高校と中学に通う孫二人が新型コロナウイルスに感染したのを皮切りに、長男夫婦と千代子の家族全員が家庭内感染した。心臓に持病のある千代子が病院に運ばれ、酸素吸入の措置を受けたものの、容体が急変しその日のうちに亡くなった。感染者の家族は行動を厳しく制限され、看取りから通夜、葬式、納骨までの一切について関わることができなかった。

 「主人もわたしも後遺症がひどく、今も悩まされています。子どもたちはおかげさまで二学期の終業式には出られました」と女性は再びすまなそうに言った。千代子の遺骨は母屋の仏壇に置いてあるという。

 「お参りができる状況になりましたら、手を合わせに伺いたいと思います。ご愁傷様でした。千代子様のご冥福を心よりお祈りいたします」

 トミ子婆ちゃんは涙声でそう言うとスマートフォンを切った。悲しみが大波になって押し寄せてきた。仏の道に反することをしたわけではないのに、親の看取りができない。葬式をあげられない。納骨ができない。お釈迦様、どうしてなんですか。そう考えるとと大波にのみ込まれ息ができなくなった。苦しい。

 スマートフォンを固く握りしめ、苦しまぎれにお釈迦様に尋ねてみた。

 「人の一生は葬式で決まりますか。それとも決まりませんか。どっちですか」

 すべてお見通しのはずであるお釈迦様は、初めて何も答えなかった。

 葬式と人生の関係について、お釈迦様から大きな宿題を出された気持ちにトミ子婆ちゃんはなった。                
                            (おしまい)

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