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簡単にアップデートできるようになりたい『訂正する力』を読んで

「すみません、間違っていました」と訂正するのは案外難しい。

年齢を重ねていけばいくほど、立場が上になるほど、訂正するのは難しくなってしまう。恥ずかしさなのかプライドなのか。

2024年の新書大賞に選ばれた、東 浩紀著『訂正する力』を読んだ。

訂正する力は、現実から目を逸らすためではなく、現実を「再解釈」するために使うべき。

訂正と聞くと、いかにもペンで二重線を引き「ここが!!!!間違っています!!!!」と否定しているような気分になる。しかし、「再解釈」と言われるとなんだか「更に良いものにしよう!」とアップデートするようなイメージが湧く。なんだかポジティブだ。

『訂正の力』では、目的のデータを検索してダウンロードしているだけでは、「そうか、じつはぼくはこれが好きだったのか」という趣味の訂正が行われないことに触れていた。

確かに、現代ではサブスクの発達により、本に音楽、映画、ドラマなど、大量のデータにアクセスできるようになった。それによって、実際に店舗に行き「これ面白そう!」と思うことは減ったように思う。

気になったものにすぐアクセスできるのがサブスクの魅力であるが、偶然の出会いはかなり減った。私自身、昔に比べて見たいもの聞きたいものだけにアクセスする回数が圧倒的に多くなったと感じる。しかし、大した書店やCDショップ、大型ショッピングモールがない田舎に住む私にとって、サブスクは出会いの可能性を広げたともいえる。都市部と地方では考えが分かれそうだ。

ただ、好きなものばかりに目を向けていては、本来、出会っていれば好きになったはずのものを見逃してしまうのは事実である。

そして『訂正の力』を読んで、私自身の訂正について考えた。去年の私のプロフィールを訂正するなら、趣味の欄に書かれた「音楽鑑賞」が「読書」なる。「実は本を読むことが好きな人間だった」という訂正である。もっと詳しく言うと、「本を読んで新しいことを知る行為が好きな人間」だったと訂正された。

私が訂正するきっかけになったのは、YouTubeの海でたどり着いた『新書といっしょ』だ。実際に店舗に行き「実はこれが好きだったのか」と発見するのとは少し違うが、普段触れない世界に足を踏み入れて見つけたという点では、近い感覚だと思う。

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『訂正の力』では、誰が作ったかによってものの見え方が変わるという点にも触れている。

同じ商品でも「〇〇が作った/描いた」というだけで、感じ方は全く異なる。「〇〇が作った」とあとから聞いて「〇〇が作ったならすごい/欲しい」というのも立派な訂正の力だそう。

私は「○○が作ったから」という理由で購入するのは、なんだか作品自体を見ていないような気がしてモヤモヤしてしまう。作品自体はもちろん素晴らしいが、「○○が作った」という情報がなければ、購入しなかったかもしれないと思うと、途端にミーハーで卑しい、自分の意志のない人間のように感じてしまう。

さらに、「○○が作った」という情報だけで、闇雲に作品を購入するのは、その人にもその作品にも申し訳ない気がする。あぁ難しい。


ぼくは人間と人間は最終的にわかりあえないものだと思っています

東 浩紀『訂正の力』

この一文をみたとき、ほっとした。

「訂正し合うことで分かり合える」などと言われたら、「話せばわかるから」と話し合いが開かれ、自分の気持ちを押し殺して分かり合えた風を装った日を思い出してしまう。

さらに『訂正の力』では、できるのは「理解の訂正」だけ、「じつはこういう人だったのか」という気づきを連鎖させることだけとしている。

この考えは非常に大事だと感じた。理解できなくても良い「こういう人だったのか」とアップデートするだけで良い。同じ考えを持たなくていいし、自分を否定された気にならなくていい。

ブレないことは大切だが、「じつは・・・だった」と少しずつ変化させていくことも大切だ。最初から正しい人はいないし、最初から最後まで変わらない人はいない。

「じつは・・・だった」の訂正が簡単にできる人物になりたい。


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