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世界で一番「幸せ」な岩

あなたの目には世界はどう映っていますか?

先日、尊敬するかたが、お話の中で宮沢賢治の「気のいい火山弾」という短編を紹介されていました。

そのお話の文脈とは少し違う形で、わたしは図らずもグッときて潤んでしまいました。

そのお話のあらすじは、こうです。
あるところに、本当は立派な名前があるのだけれど、誰にもその価値を知られず、「ベコ岩」と呼ばれる岩がいました。本当の価値を知られぬまま、ベコ岩は、他の岩や、木や、それに苔にまでバカにされる始末。けれど、気のいいベコ岩は気に留めることなく彼らと会話をしています。
そしてその日は突然訪れます。学者たちが通りがかり、ベコ岩を見出すのです。そしてとうとうベコ岩は、立派な施設にうつされるため運び出されるのですが、最後に彼がいう言葉は、恨み節でも、皆を見返す言葉でもなく、

新しい場所は、ここみたいに楽しいところじゃないだろうけれど、私たちみんな、自分のできることをしなくてはなりません。さようなら。

というものでした。
皆の屈辱的であるはずのからかいの言葉を、楽しいコミュニケーションと捉えて、その場を楽しい場所であったと認識していたべこ岩。名残惜しさは言葉に滲みますが、立派な岩であることが証明された今も、それを威張ることもなく、ただ自分のすべき使命に目をむけ、自分をバカにしてきた岩や苔たちとあくまで対等な立場で、さよならを告げるのでした。

このお話は、あの有名な「みにくいアヒルの子」と共通点もありますが、決定的な違いは、タイトルにある通り、ベコ岩の気の良さです。バカにされても、その悪意に当てられることなく、楽しんでいるベコ岩。その純粋さがこの話の肝だなとおもいます。そして、そこがわたしがなぜかグッときてしまって、涙ぐんでしまった部分でした。

他人からどう見られようと、それがいかに滑稽だったとしても、信じられないほどの純粋さは、誰もが簡単には持ち得ないものであるからこそ美しいなと思ってしまいます。

とはいえ、他人からどうみられているか、どう言われているかもちゃんとわからず、悪意を感じることもできず、ただニコニコとしているのなら阿呆ではないか、という意見もあるかもしれませんが、しかし、あることに焦点を当てるなら、見方は変わってくるのではないかと思います。

それは、世界がどう見えているか、ということです。

世界は当然一つですが、世界は無数でもあります。
客観的に存在している世界は当然一つですが、それは、見る人の視点や考えや場所やいろんな要因で、無数の捉え方がされます。
誰もが同じ世界を「見る」ことはできない。どれだけ客観的に見ようとしても、必ずその人のフィルターがかかります。

そう、それなら、どうせ一人一人にとって世界は違って見えるなら、美しく楽しく見えた方がいいじゃないかと思うのです。

その人以外の誰もが、悪意に満ちて醜い状況でも、その人自身にとっては楽しく美しい世界であるのならば、そんな人生はとても幸せなんじゃないかと思うのです。

実際、そんなに純粋無垢に生きることは到底無理ですし、一方で酸いもあまいも知った上での方が人生に深みが出る、ということも思いますが、そんな純粋さに満ちた人がいたなら、存在したなら、その世界が壊されずに、命尽きるその時まで、その人にとっての世界が楽しさと美しさで満たされていることを願ってしまうのは、夢みがち過ぎでしょうか。

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