見出し画像

ダンサーだからって、踊るわけじゃない。

身体をメディアに地域で新たな表現文化を創出すにはどのような手段や取り組みがあるのだろうか。 身体表現という表現文化を作ることとは、僕らの住む地域でできる限り数多くのダンス・パフォーマンスを行うことだろうか。 それとも、新進気悦の作品を作り出すことなのだろうか。 それとも、新しいスタイルを生む振付家をキュレーションすることだろうか。 僕らは、それだけが表現文化を担う手段とは考えていない。 なぜなら、身体表現、たとえばダンスが生まれる前には、ダンス以前に表現を育むための土地やメディアとなる身体を磨くための行為や労働が必要となるから。 きっと、ダンスを生み出すことを継続的に可能にする「地域社会を生みだす」ことこそが表現文化を作ることにつながり、芸術文化環境を作りだすことにつながるのではないかと考えている。 

2020年7月より、ご縁あって障害のある人の芸術文化普及事業に携わっています。短い間になりますが、障害のある人の表現活動に触れはじめ思うところが生まれました。もし、このトピックについて絡みたい方がいたら読み進めて、議論してくれたら嬉しいです。

まず、僕は、どれだけ恵まれた社会の中で自身の表現活動をまぁこうもあっけらかんと続けてきたものかと感じています。同時に、自身の表現活動を己の責任のもと良くも悪くも進められることは、極々当たり前だと考えていた節があるし、そう言える社会に身を置き、生きてきたのだと、考えるようになりました。

障害のある人の表現活動に関して、
私はこれまでイチ市民のわたしと同じ状況にあるものだと勘違いしていたのかもしれません。そう思わされるきっかけは、彼らの表現行動や意思は、サービスの中で管理、評価され、報告されるのだ、と認識し始めたからです。
(管理下に置かれる)理由は、家族と税金により利用者の表現活動の時間は保証されているからだろうか。それとも、施設利用者のサービスを向上する為の施設側の管理義務の一環だからなのだろうか。単にそれだけではない様な気がするが答えはまだ持ち合わせていません。

よく、福祉従事者の方らは、自立、自立と言うけれど、果たして施設に障害のある人の表現活動の未来=自立は一体どこにあるのだろうか。私は、表現はしたい仲間としたい時にしたい人としたい場所で行える。もし、この状況を仮に「表現活動の自立」とよぶならば、障害のある人らの表現活動は自立していない、と考えられる。同じ表現者として、障害のある人らとバリアフリーで表現活動を発信することは許されないのではないか、と感じられる瞬間がありました。

施設以外の場所に障害のある人の表現仲間や友人と表現場所をつくれたとしたら、管理下に置かれない表現活動の自立は確立するのかもしれない。これは、まだ福祉活動ズブの素人の仮説に過ぎないけれど。なんか、思うところがある方は一言残してくれたら嬉しいです。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?