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2022年8月の日記~「コロナで学生さんは可哀そう」と安易に言ってしまうことの危うさについて~

8月*日
とある古民家活用の公募にエントリーすることにしたので、その下見に行った。
場所は小田原駅から徒歩15分ほど。建築家をはじめ、一緒に提案する仲間と連れ立って現地に行くと、小田原市の文化財課や地域活性課の職員さんが4名ほどで待っていてくれた。
ひとしきり建物や設備の説明を受けた後、一次ヒアリングの時間となり、何をしたいのかを説明した。
ぼくはこの場所を大人の学校にしたい。
時代の転換期には多くの私塾が生まれることを歴史は証明しているが、今はまさにその時期じゃないかとぼくは思う。すなはち、資本家が世の中をけん引する資本主義、競争が最適を生むとする新自由主義的な発想から、経済と幸福を分けて考える幸福至上主義的な発想への転換だ。そして、そんなタイミングだと思うからこそ、今の延長ではない世の中を創るために必要なことは、大人が学ぶことだと思う。
と、どれだけ意気込んだところで、公募を勝ち抜かないことには始まらないのだけれど、さてどうなりますことやら。

8月*日
舞鶴のカフェスタッフとじっくりと話をしていて、考えさせられることがあった。
3時間余り、色んな話をしたけれど、一番心に残ったのは、「厨房スタッフは、心を込めて【商品】を育てているつもりですが、団さんは人を育てる・人が育つことを何よりも重視されるんですね」という言葉。
言い方は違うけれど、アソブロックを共に作ってきたメンバーから「団さんは【チーム一丸になって目標を達成する】ことの喜びを覚えたら、もっと凄くなるのに」と言われたこともあった。
ちなみに、ぼくが社長をしていた頃のアソブロックのキャッチフレーズのひとつは「一致団結しない」。それは、チームワークの否定を意味するものではなく、多様性を尊重する・排他的な考えを忌避するという意味で設けたものだったが、言われてみれば、スポーツもチームスポーツより個人スポーツの方を好む傾向があるように思う。
「お店はバトンだ」「商品は財産だ」と熱く語るスタッフを見ながら、心を強く動かされる面がある一方で、「とは言ってもな…」と冷静にこれまでを振り返る自分もいて、頭が痺れた。

8月*日
先日収録した「団士郎家族理解ワークショップDVD vol.2」のチェック盤が上がってきた。
収録時間は1時間29分。ここに来るまでも、たくさんのことを検討し、決めてきた。例えば、講演資料であるパワーポイントをどう表示するのかとか、講師である士郎さんの顔をどの位置に、どのように入れるのかなど、完成して見たら誰も気にしないようなことだろうけれど、色々な可能性から最適を探した。
「画面の構図はA、でも資料の見映え的にはCも捨てがたいのでハイブリッドでやってみよう」なんて、誰も気が付かない程度の違いかもしれないけれど、「だからまあ適当に」ではなく、そこにこだわれる人たちとモノづくりが楽しい。
編集をお願いしているMさんからは、チェック盤と一緒に細かくタイムで区切られた香盤表的な「チェックシート」が送られてきた。すでに完成度が高いので、大して書き入れるリクエストもないのだろうけれど、その綿密な仕事ぶりが嬉しくなる。こういうモノ・コトづくりを、大切にしたい。

8月*日
久しぶりに原稿を書いている。
久しぶりも何も、誰が読んでいるかも分からない日記をせっせと書いているじゃないか、と言われたらその通りなのだが、ここでいう原稿は、それなりのお金をもらって書く原稿だ。
アソブロックの社長を辞めて、少しできた時間を何に充てようかと考えたときに、インタビュアーと原稿書きを再開することにした。数こそ減ったが、今も編集者としてインタビューに立ち会うことはある。けれど、もう何年も、自分で書くことは控えていた。立場に期待される売上・利益とバランスが取れなかったからだ。
実際に自分で書いてみると、聞き直し、考え直す時間が生まれるので、ようやく相手が言いたかったであろうことにたどり着けたと思えることも多い。裏を返せば、ぼくは普段、多くの場合、自分の聞きたいように相手の話を聞いているに過ぎないということに気が付く。
最近は、収録した音声を自動でテキストに起こしてくれるソフトも充実してきたので、以前のように「テープ起こし」に時間を取られることはなくなったけれど、それを見ながら「なぜここを突っ込まない!」「叶うことならあの時に戻ってこの質問がしたい」と憤るのは相変わらずだ。それもまた、自分の聞きたいように相手の話を聞いているからだと思う。

8月*日
ミニチュア模型作家・Mozuさんの展覧会に行った。
こびとシリーズが有名で、一度自分の目で見たいと思っていた。本当に緻密な出来栄えで、作品から「好きで創っています」感が溢れていた。そのことが、見ている人をまた幸せな気持ちにさせるのだろうと思った。
でもぼくが一番感心したのは、壁面のコンセント差込口の横に作品を作り、それらを「こびとシリーズ」と名付けたこと。これこそが発明だと思う。多分、この発明がなければ、ここまでのブレイクはなかったかもしれないとさえ思う。
作品のフォーマットがあることで、観客は安心して細部まで味わうことができる。それは、遠山の金さんや大岡越前のような時代劇と同じこと。例えば、ホンブロックで単行本を重ねている「家族の練習問題」という名の漫画エッセーも、32コマ程度で1話完結する家族物語、というフォーマットがあるから、すぐに作品の世界観に没頭することができる。
表現内容と表現方法は、届けるという意味においては優劣がつけがたいほど大事なことで、その方法を発明することで、内容は似たようなものでも一気にブレイクすることがある。
型にこだわり過ぎると面白みを欠くというマイナス面もあるが、型があることの安心感は、表現においては重要だ。

8月*日
メディアを通したコンテンツは、今やその多くが旧来型のものと暇を潰すものに分かれるのではないかと思う。例えばテレビであれば、テレビ番組とテレビを介して暇を潰すものに分かれる。雑誌もそう、WEB記事だって、そうだと思う。
「テレビが面白くなくなった」と言う人がいるが、それは「テレビを介して暇を潰すもの」を見て、「あんなのはテレビ番組じゃない」と言っているのではないだろうか。
今、世の中のニーズは「暇つぶし」だ。どれだけテクノロジーが進化しても、人が一日に使える時間は24時間で、その中でゲームも含めたメディアで消費できる時間は限られている。その限られた時間をどう見立て、どう使うのかは人それぞれだと思うが、今はそれを「暇」とみなし「潰したい」というニーズが多いのだと思う。
「2時間あるから短い映画を見よう」などと思う人は、まずいない。映画は「予約して見るもの」になったからだ。同じ感覚に、テレビも本も雑誌も、どんどんなってきているのだろう。
一方で、メディアの側は自らの生き残りをかけて消費時間を増やさなければならないため、自ずと「暇つぶし」に資するコンテンツを増やそうとする。結果、何も考えずにだらだら見られて、途中で止めても満足度の高いものを生み出すノウハウが蓄積されていった。
このようなコンテンツが、昔からのファンからすると「面白くない」とラベルされるものになっている。でもそれは、各メディアが時代の要請を受けて生み出した新たなジャンルなだけだと、ぼくは思う。

8月*日
2泊3日の取材で、現役大学3年生の男の子と一緒した。
現役大学3年生と言えば、入学式からずっとコロナの影響を受けた世代だ。そんな彼と話をしていて、一番印象に残ったのは、「勝手に気の毒がられても困る」という話だった。
彼曰く、自己紹介をすると、毎回のように「大変な思いをしている」「大学生活を謳歌できずにかわいそう」「気の毒だ」「悪いことばかりは続かないから頑張れ」といったようなことを言われるという。47歳のぼくとしては、言いたくなる気持ちも分かる。
しかし彼は「と言われても、ぼくらは今の大学生しか知らないし、授業はリモートになったけれど、それを活かしてできることをやっているんです」となる。
具体的に彼の場合は、どうせリモート授業であるならどこで受けても一緒だと考え、宿屋を営む親戚のおじさんの家に半年間住み込み、働かせてもらいながら大学生をしたという。それはコロナでなければ味わえなかった、貴重な時間だったという。
「でも、そういうことも、“可哀そう世代”で一括りにしてマウント取りに来られると、言い出しにくくて」と語る彼を見ながら、もしかすると、我々大人たちが、子どもたちの思い出を勝手に描き、押し付けている面があるのではないかと思った。そして、そんな風に見てしまう人こそが、実は誰よりも貧しく、貧困人なのだということに、早く気付くべきなのかもしれない。

8月*日
失って、改めて気付く価値がある。
ぼくの場合、主宰するシェアオフィスが入居する建物・合羽坂テラスの管理人・Nさんがそれだった。大家さんとの契約切れか何かだろう、2ほど年前のある日、住み込んでいた4階の小さな管理人室から、特に挨拶もなく出ていかれた。
その後、新たな管理会社が指定され、体制上は変わりがないはずだった。ところが、建物は荒れる一方になった。例えば前庭の下草刈り。確かに年に何度かは業者さんが入るのだが、それで対応できるような育成スピードではない。近所の人が桜のシーズンにはこぞって見に来るような素敵な前庭は、Nさんの不断の努力が維持してきたものだった。
また、合羽坂テラスは築年数の古い建築的にも価値がある建物なのだが、ひとつの特徴として、共用部が全面小さなタイル貼りであることが挙げられる。しかし老朽化に伴って、そのタイルがちょこちょこ剥がれてしまう。それをNさんはひとつずつ、結構な頻度で貼り直していた。しかし、新しい管理会社は、剥がれたタイルを回収するだけで、保管対応としている。結果、歯抜けの壁面化が現在も着々と進んでいる。
管理会社が変わって新しく取り入れられたのは、セキュリティのための自動ロック扉。「ウイーン」と言って鍵が締まるそれは、およそ建物全体に似つかわしくない、建物価値を大きく下げるものとして、現在も活躍している。
そもそも、建物管理とは何かという定義の問題だ。トラブルが起きなければ良い、というものではない。「管理」とは、より良い形で後世に残す営みのことだ。
あまりに憤ることが多いので、この度、大家さんに掛け合って、前庭の管理を任せてもらうことにした。いずれは建物全体の管理も任せてもらおう。乗っ取り計画の始動!ではない。