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 先日、南大沢の都立大学に用事があったので、南大沢から歩いて八王子の中央大学に向かった。野猿街道の中央大学南信号を左に曲がり、中大正門までの道を歩いた。

 そこは数百メートル程度の道だが、東京のイメージからはおよそかけ離れた、田畑や古い日本家屋の点在するのどかな農村風景が広がっている。そのすぐ先には中央大学の真っ白で均質的なビルが雑な合成写真のように浮かんでいる。私はこの道は初めてではないが、道すがらふと思った。

 それは、農村という前近代的で感性的な空間のなかに、大学という近代的で理性的な施設が鎮座していることへの違和感だった。私にはどうも、農村と大学はアンバランスで、水と油のような組み合わせのように思える。

 田畑の真ん中でマルクスがどうだとか、共産主義がどうだとか議論しても、むなしいだけではないだろうか。 
 
 あるいは人文社会科学の、小難しい横文字を議論していたら、なんだか笑えてこないだろうか? カエルの鳴き声はそんな我々を嘲っているようだ。

 農村という感性的な空間の中に大学という理性的な空間は似合わない。そういう空間は都市にこそふさわしいはずだ。

 だからこそ、中央大学のような農村の大学は、理性的ぶるべきではないのだ。農村らしく、感性的で、共同的で、開放的な、“貧乏くさい”大学であるべきである。中大の周囲に広がる多摩丘陵の自然は、ほんらい人間の自由を縛らない。それは、人間精神の解放の象徴である。

 そんなことを思い、私は正門を通り抜け、大学という“近代”のなかへ溶けていった。

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