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「階級」から「私」へ 〜脱階級の社会〜

 初めに言っておこう、階級は存在しないと!

 
階級とは非常に大雑把なくくりだ。この世に全く同じ人間は誰一人としていないのだから、階級などといって雑に括ってしまうべきではない。同じ階級とみなされている人たちの中でも当然ながら個々の性質はまさに千差万別であり、それを一緒くたにして語るべきではないのだ。

 そこがマルクス主義の階級闘争論に乗り切れない理由だし、もっといえば昨今のポリコレに乗れない理由の一つでもある。

 「◯◯という属性だから〜」という理由でひとまとめにして、個々人の個別性を捨象して「階級」として語られるのが我慢ならない。

 もっとも、階級のように「カテゴライズ」しなければそもそも社会は成り立たないというのはその通りだ。お上の行う社会調査の類はできなくなり、その結果として国の舵取りを決める社会政策を考えることもできなくなる。

 社会運動も起こりようがないため、「ある程度の共通性でもって繋がっている人たち」(まさに階級!)が社会改良をできなくさせることにもなる(個人のための社会運動など存在しない!)。 

 しかし、カテゴライズの暴力性はあまりに残酷だ。直接自分とは関係がないのにもかかわらず、その階級に属しているというだけで関係があることのように見なされる。それはおかしい。

 1970年の華青闘告発以後、社会運動は小さな物語へと分散していったのは周知の通りだ(この華青闘告発こそがポリコレの源流とされている)。プロレタリアートという大きな階級から、マイノリティという、今まで光を当てられてこなかった(無視されていた)小さな階級の存在感の高まりは一定の意義があったとは思う。

 しかし、そのことによって個人に対する解像度が上がったとはいえ、まだ何万、何十万、何百万人という大きなくくりであることには変わらない。それは「私」という固有の一人の人間を代弁するものではない。

 一人ひとりの個人に光を当てるにはこの社会はあまりに大きすぎる。だからこそ社会の単位を限りなく小さくすべきなのだ。階級で個人が語られることのないくらい小さな共同体へと分散すべきなのだ。

 そうなって初めて「階級」はこの世から消失し、「私」の時代がやってくる。

イェ~イ、イェイ、イェイ、イェイ!

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